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第48節

 上田敏氏なども、向う側の潮流の中にいるひとりであった。かれは鷗外氏と合い、荷風氏と合った。かれはフランス文学に通じ、アナトオル・フランスなどと共通した点を持っている詩人であった。その作中には、『うずまき』というのがある。永井荷風の『冷笑』などと傾向を同うしたものだった。
 かれも小説を書いたり詩を書いたりしたかったらしいが、学者という形が、大学教授という形が徹底的にそれを遮った。かれは夏目さんのように、何も彼も捨てて了うことができなかった。否、できないのではなかったかも知らなかったけれども、世間が夏目さんほどに、何も彼も捨ててもそっちに赴こうと決心させるほどに、かれにいい顔を見せなかった。世間はいつも横顔のみをかれに見せた。
 それに、その教養から言っても、あれは新しいということはできなかった。何処までもかれはロマンチシストであった。藤村がロマンチシストである以上にロマンチシストであった。従って、かれの文章には、新しい言葉と旧い言葉とが一緒になって混雑していた。それは未だ完全なスタイルを成すに至らずした終った文章と言って差支えなかった。
 明治から大正に移って行く間にはいろいろなことが起ったが、平面描写論などもその時分盛に批評せられたものであった。
 つまりそれは自然主義が例の爬羅剔抉──解剖──習俗破棄そういうものに甘んじていることができなくなって、次第に印象主義乃至後期印象主義に移って行く課程であった。従ってその以前の方を自然主義前派、以後の方を自然主義後派とすることができた。
 いくら自然主義でも浅薄な宣伝になって了っては駄目である。自然主義はもっと最初の純なものに戻って行かなければならない。こう段々考え出して来た。そしてドイツの徹底自然主義などがその目標とされた。従ってゴンクウル兄弟のものなども持ち出された。
 徹底自然主義──印象主義──平面描写、この三つは立派に連関したセオリイを持っていた。それはあらゆる説明を排し、あらゆる理屈を排し、時にはその作を持った内容すらをも重んぜずに、飽まで現象的に進んで行こうとするものであった。現象! それ以外に何もない! 何もない! こうその主義は叫んだ。現象! それさえ十分にあらわし得れば、あらゆるものはすべてわかる! それのわからないのは、わからない方の頭がわるいのである。こうその主義は言った。
 徹底自然主義の作品などを読んで見ると、そのセオリイがよくわかる。つまり小説と絵画と同じようにしようとした運動である。つまり、あらわしたそのものに、また All and None の背景を持たせようとしたのである。この方の心と感じのいかによって、またはその教養と経験のいかによって、浅くも深くも、大きくも小さくも見せようとしたのである。更に言い換えれば、第二の自然の創造である。
 ドイツの徹底自然主義は、そのセオリイは立派であり、学術的であり、十分いろいろな空気を浮べるに足りるものではあったけれども、しかも作品としては二三の小さなものしかあとに残さず、かえってそれを利用したハウプトマンの劇にその発展を見たにとどまったのは、まことに惜むべきことであった。しかし、その成功不成功にかかわらず、その目的としたところは、非常に面白いものであらねばならなかった。
 恐らく、芸術ばかりではなしに、あらゆるものに対して、そうした現象主義は、一番高い位置を占むべきものではなかったか。何でも最後はそこに至るのであって、あらゆる宗教も、あらゆる哲学も、皆なそこまで行って、あとは何うすることもできずに、自分の微力を嘆じて、そして引返して来るのであった。「とてもできない? なぜと言うのに、それができれば自然ができるわけだから!」こう言って引返して来るより他に為方がなかったのである。
 平面描写ということは、単に平面に描くということではない。All and None の背景をその背後に持たせるために、何等の説明をも加えず、何等の理屈をも加えず、そのまま、自然のまま──つとめて自然のままにそれをそこに浮び上らせるだけのことである。しかしセオリイが正しいだけそれだけ技巧としては非常にむずかしいものである。作者の持ったものが自然と同じぐらいの程度にまで進まなければ、その技巧の完成はできないものである。従っていい加減なものがやれば、つまらない平板なものになって了うのである。こんなものを書いてそれで何うするんだ! ということになるのである。
 これが即ち徹底自然主義の成功せず、平面描写の世に容れられなかったゆえんである。否、そればかりではない。結果として、一時、平凡主義に堕したような作品が世に多くなって行って、そのため活気がなくなって了って行ったのである。爬羅剔抉──宣伝──習俗破棄の前派は、わかり易いために世に容れられたが、印象主義の後派、難かしかったために、次第に世間に顧みられなくなって行ったのであった。
 それに、この自分には、あれほど盛であった気運が停滞して、何処か因循(※ぐずぐず)したようなところがあちこちに見え出して来た。自然派にも型ができたという声が高くなって行った。