血の呻き 中篇(17)
三三
その日も、靴修繕師は、仕事を休んだ。
「痛むかい」
明三は、仕事に出る時、彼の側へよって聞いた。
「俺は、まったく、もう死んでしまった事と、思ってたよ」
靴修繕師が、じろじろ明三の顔を見ながら、溜息をついて言った。
「そんなに、ひどかったのかい」
「いいや。お前がさ」
明三は、怪げな眼をして、彼を凝視って、沈んだ声で言った。
「然うかい。心配しなくっても、お前先きに死ぬがいいよ。俺も後から行くから……」
「そうかい。じゃあ、お前はまあ長生きしていねえ。……」
彼は、嘲けるように言った。
明三は、愁わしげな顔をして、そこを離れ去った。
炊事番の老爺が、こっそり彼の背後から咡いた。
「お前、あの靴修繕師に、気をつけなくては、ならないよ」
「何故……」
「あれは、何か狂犬のような事をしでかすかも知れないから」
「そうかい」
「…………」
「彼女は、いるかい」
「いますよ。何故……」
「私は、もう長い間見ないから……」
「彼女は、ね……。その、貴方に、何も言わないでくれって……」
「何も……? 何をだい」
「何の事だか、解らない。唯、あの靴修繕師と、まる二時間も何かひそひそ喋ってたっけ」
「ど、どんな、事か、その……一寸、一寸でも、解らないかい。爺さんは……」
明三は、きれぎれに、彼の手を摑んで言った。
「どうも……。些しも……。唯、彼女が、お前が恐ろしいというような事を言ったのを、一寸聞いたが……」
「恐ろしい……と。そして、靴修繕師は、何と言ったの……」
「何を言ったか。解らないんだ。唯ひどく、腹を立てたようだったよ……」
「俺も……、あの女を恐れている……」
明三はぶつぶつと、独言のように言った。
「へえ、お前も……。何故だい彼女は、それで、お前から隠れてると言ってるし」
「隠れて……? いると言ったのかい」
「然うだよ」
明三は、黙ってその老人を離れて人々の後について行った。彼は、ひどく沈んで悄々としていた。
「俺に、酒を……、些し飲まして欲しい……」
彼は、現場へ着くとすぐ梟の嘴に言った。
「酒を……。汝は、飲むのかい……」
「飲みたいんだ」
「妙な話だ。それにしても、此所じゃ仕様がねえ」
「何所なら、いいんだ」
「地上へ、送り出されたらたんと飲めよ。胃の腑が、眩暈いする程も……」
「然うか……」
彼は、また黙り込んで、のろのろと仕事にかかった。
「お前、どうかしてるのか」
梟は、彼の背後について来ながら言った。
「些し、可怪しいんだ」
彼は、憂しげに言った。
「ハ、ハ、ハ、……些し所か、すっかり変になったらあ」
次の日の朝、明三は、鼻唄をうたいながら仕事に出る仕度をしている靴修繕師の肩に触って、沈んだ声で言った。
「もう、すっかりいいのかい」
「すっかり……」
靴屋は、顔を挙げて、慴えたように彼を見て、怯々と言った。
「すっかり、いいんだ」
「そうかい。でも、お前は……」
靴屋は、顰面をして彼を見ていたが、左手で明三を押退けた。
「俺に、もう言葉をかけないで、くれ……」
明三は、その顔を凝然と見ていたが、黙って彼から離れ去った。
「あれは、ほんとうに気をつけなくちゃいけねえよ。あの男は。靴修繕師は……」
その日も扉の影の薄暗い所に立っていた跛の老爺が、そっと言った。
「解った。すっかり解ってる……」
明三は、沈んだ然し明瞭な声で言った。そして、何か深い物思いにでも沈んでいるように、そのまま黙り込んで歩み去った。
二三日前から、ずっと遠い埋立地の下端の方まで土を運ぶので、台数を倍にして、一人押しの小型のトロを使った。明三は、靴屋とはずっと離れた、殆んど最初の組の方にいたが、四度目の時には、靴屋は誰かと代って、彼のすぐ背後に来ていた。
明三は、悩ましげに一度彼を見たが、何も言わないで溜息をついた。
明三のトロが押出される時、二人は偶然眼を見合した。そして、全三十秒もの間、恐ろしい凍ったような眼を見合した。靴屋はにたりと、声のない気味悪い笑に顔を歪めて反方を向いた。明三も、弱々しい宛然泣くような笑を泛べて、俯れた。
明三は、強く制動機を締めて車を轢らしながら、徐々と坂を下った。
車は、悩ましく重苦しい事のような響を立てて、レールの上を辷った。彼が、まだいくらも行かないうちに、靴修繕師は、制動機の掛金を歯車へ挟まないで、唯足で制えたまま辷り出した。そして、やっと二十碼位い進んだ時、弾き飛されたように、地上に転がり落ちた。
彼は、叫声も立てなかった。そこは、坂の最も急角度の頂点であったし、制動機の掛金は外れていた為に、トロはまるで血に饑えた獣のように、奇怪な唸り声をあげて、飛上りながら明三の背後から追かけた。
その間は、ほんの四十碼位いしかなかった。靴屋は、地面に俯して自分の頭を摑んで腕の間から、炎のような眼を光らして、のたうちながら明三の背後から飛びかかって行くトロを睨んでいた。レールの沿道を監視していた梟の嘴は、笛のような声を立てて、叫んだ。
「危い、危い、危い……」
然し明三は、自分のトロを離れなかった。制動機を放されている靴修繕師のトロは、立上って飛びかかった。明三は、制動機の把手と結着いたまま、遠い地面ヘトロから跳ね飛された。
靴屋は、それを見ると、両手を高くあげて振りまわして、何か叫びながら坂の上から、走り降りて来た。
制動機を失った二台のトロは、奇妙に脱線もしないで、恐ろしい勢いで走り下って、辛と終点に着いたばかりの、人夫の頭の上から、折重なって飛びかかった。
「どうした……」
梟は、地面へつっ伏している明三の頭を抱えあげた。明三は、啜り泣いていて、何も答えなかった。そして、力なくまた地面へ頽れ込んだ。
「死んだのかい」
彼の近くへ来ると、のろくさと歩きながら、遠くで靴修繕師は訊ねた。
「何て、行為をするんだ! 汝……」
梟は、杖を振りながら、靴屋に叫んだ。
「だって、俺のやった事じゃねえ……。あれは……」
「誰の、やった事だ」
「その……。誰でもねえ。神様が、あの方がいいと思ったんだろう。俺は、知らねえ」
靴屋は、ぶつくさと呟いた。
「何だと……」
「所で、そいつあ、死んだのかい……」
「生きて、しかも泣いてらあ……。お前、何所が痛いんだ……」
監視者は、も一度、明三の頭を抱きあげた。
靴修繕師は、慴えたように立止って、顰面をして彼を遠くから覗いたが、宛然杭かなぞのように矗立ってしまった。
「どうした。頭か」
「頭が、痛い……」
「ひどく、打ったのか」
「然うじゃない。俺は、こんな頭なぞ、壊れてしまえばいいと思うんだ」
「じゃあ、どこを怪我したんだ」
「胸だ」
「出して見ろ!」
「胸の中だ」
「どこを、打ったんだ」
「ぶったんじゃない」
彼は、また声を立てて泣き出した。
「何だ。何うしたんだ」
「行ってくれ。俺を離してくれ。今、俺は、稼ぐから……」
「何だ。馬鹿奴! 些っとも解らねえ。じゃあ、何所も何ともねえのか……。確然しろ!」
靴修繕師は、宛然、生霊にでも憑れたようにわなわなと慄えた。そして、絞首架に吊されて踠く囚人のように足を動かして、坂の上へ走り去った。
「あの、破靴奴! いや、どれもこれも、この狂人等は変な奴等だ……」
梟の嘴のような鼻をした監視者は、叱言を言って明三を放って置いて、終点の埋立地の所へ歩いて行った。
叫び声一つ立てる間もなく、そこに立っていた男は折重ったトロの下敷になってしまった。それはまだ四十位いの逞ましい軀をした男で、遂ぞ彼等とは物も言った事もない、もう長い間こんな仕事で、旅から旅へ流れ歩いている奴であった。人夫等は、二十分の後に此の男を掘り出した。
それは、唯汚ない膾のように、めちゃめちゃに砕き潰されてしまっていた。ぐたぐたに潰れて血みどろになった頭が、土の中から曳出されると、微かな呻声を立てて、ふらふらと地面の上を三寸ばかり蠢いただけであった。
彼は、それっきり死んでしまった。人々はその男の為に、セメントの樽で棺を造った。そして、その川縁の埋立地に埋葬する事にした。
墓穴は、七分ばかりで出来上った。靴修繕師は、その下へ這入って土を渫えていたが、べたりと坐り込んで、薄笑いしながら言った。
「これは、立派なものだ。二人連れでも、暮せる。ヘ、へ、……」
「じゃあ、汝が此屍と二人で、暮せ……」
ヴルドッグは、スコップで一つ土を掬って頭からかぶせた。
明三は、棺の前に跪いて、長い間溜息をついて首を垂れていたが、遂に低い声で、如来寿量品を諷誦しはじめた。監視者等も、人夫等もがやがやと彼をとりまいて笑い出したが、誦経がかなり進むと、皆黙り込んでしまった。誰か、二三人の男が彼の背後に跪いた。
(※)「自推るに孤露にして、復恃怙常に悲感を懐いて心遂に腥悟し、乃ち此薬の色香味美なるを知て、即ち取て之を服するに、毒の病い皆癒ゆ。その父、子悉く已に瘥つ(※治る)と聞きて……」
誦経の声は、哀しげに倦い哀訴を繰り返してでもいるように続いた。
「惟、希くは三界流転の根原を透脱し、速に寂光円明の浄土に安住せんことを……」
疲れた、重い足でも曳ずるような、重苦しい沈んだ、陰気な囘向の節が沈むと、彼等は宛然奇異な死の国にでもいるように、寂然としていた。
暫くしてから、重々しい溜息を吐いて、沈んだ声で梟が呟いた。
「お前は、妙な事を知ってるんだな……何時か、俺に、一寸聞かせてくれ……」
明三は、黙って墓穴に降される棺の前に頭を垂れていて、何も答えなかった。