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第17節

 ちょうどこの時分に、小説と共に詩が文壇の勢力になりつつあった。矢田部、外山──それはあまりに遠い。またあまりに物足らない。ずさんでもある。私が覚えてからは、中西梅花という人がいて、それに、梅花詩集と言うのがあった。
 美妙、嵯峨の屋、これなども古い人である。嵯峨の屋は北邙散子と言って、散文詩を書いたことなどもある。岩野泡鳴なども、その時分から詩をつくって、国民新聞に載せていたことのあったのを覚えている。
 詩の感化は多くはイギリスから来た。グレイ、カウパア、ミルトン、近代ではテニスンなどから来た。ウオルズウオルス(※ワーズワース)を唱道したものに、宮崎湖処子があった。
 湖処子は当年においては、ハイカラで、バタ臭いのできこえていた。『帰省』はその処女作で、つづいて『まぼろし』という小説を春陽堂から出した。漢学の素養は多少はあったけれど、和文には全く通じていなかったので、その時分にはまだ大きなものにされていたてにはや仮名違などであちこちからえらく攻撃された。千駄木のSSSあたりからも攻撃された。で、かれは国語を研究する気になった。和歌を学ぶようになった。
 かれの詩集を研究すると、だから、次第に漢文調から和文調になって来つつある。後には、ウオルズウオルスの詩を全くその和文調で訳したりなどした。
 ウオルズウオルスの評論などをかれは書いた。
 しかし『文学界』の連中が出て来るまでは、詩はまだその本当の基礎を固め得たとは言えなかった。同じイギリスの影響にしても、透谷や藤村の覗(ねら)ったものには及ばなかった。
 『叙情詩』の中の国男、玉茗、独歩なども、まだしっかりした『詩』をつかんでいたとは言えなかった。天遊、天来などという人達もいたけれども、これとて大したものではなかった。
 藤村が出て、始めて今の新しい詩がその基礎をつくったと言っても決して過言ではなかった。
 しかし、恋の歌としては、『野辺の往来』の作者が一番すぐれていたということは、争われない事実であった。それに、藤村の教養が全くイギリス風であったのに比して、『野辺の往来』の作者は、それとは丸で違った道を通っていた。そこにはドイツの影響が著しかった。ハイネのあの恋の詩は、その時に至って、始めて東洋の一人の若い作者の胸に生き返ったのであった。惜しいことには、その作者は長くその詩を保持していなかった。