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大患難時代に教会という言葉が出てこない本当の理由

はじめに

黙示録の大患難時代を説明する箇所には、「教会」という言葉が出てきません。

それである人は、「患難時代には地上に教会がない」と教えます。

これは本当でしょうか。

患難時代には教会がない?

黙示録の一章から三章までは「教会」という言葉が出て来ますが、それ以降は出てきません。次に「教会」が出てくるのは、最終章です。

「それは、地上に教会が存在しないからです」
そんな説明を聞いたことがあるかもしれません。

単語が出てこないから、それは存在しない。
あまりにも強引な解釈ではないでしょうか。
それは一貫した聖書の解釈方法でしょうか。

まるでこう言っているのと同じではないでしょうか。
桃太郎の一章には「おじいさん、おばあさん」という単語が出てくるが、それ以降は出てこないので、もはや地上に、おじいさん、おばあさんは存在しない

そのやり方は、間違っていませんか?
患難前携挙けいきょを擁護したいあまり、素直に聖書を読む姿勢を失ってはいないでしょうか。

患難前携挙説

多くのクリスチャンが、「初臨と再臨のあいだにキリストが来て、私たちを患難に遭わないようにしてくれる」という説を、信じたがっています

しかし冷静になってみてください。
自分で聖書からそう読み取った人が、一人でもいるでしょうか。
皆、人から聞いたことを信じてしまっているのではないでしょうか。

かつての私もそうでした。
けれど、今は間違いだと確信しています。

今、聖書の言葉に目を向けましょう。
どの預言を見ても、キリストが三度来るとは書かれていないはずです。

ヘブル人への手紙
9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

二度目に現れて、それで終わりです。
まずは、幼子のように、素直に聖書を読む必要があることを思い出してください。

教会という単語が出てこない本当の理由

大患難時代に「教会」という単語が出てこない本当の理由は、神様が教会を二つに分けて見ておられるからです。

その一つは「聖徒」
もう一つは「大淫婦」です。

ヨハネの黙示録
17:5 その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。
17:6 わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た──

そうです。このどちらもが、教会の姿なのです。

二種類の人々

教会の中にいる二種類の人々について、聖書は何度も教えています。

イエス様は、これを麦と毒麦にたとえられました。

マタイの福音書
13:27 僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。

また、良い魚と悪い魚にたとえられました。

マタイの福音書
13:47 また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
13:48 それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである

また、思慮深い乙女と、思慮の浅い乙女にたとえられました。

マタイの福音書
25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった

黙示録では、実った穀物と、熟した葡萄ぶどうにたとえられています。

ヨハネの黙示録
14:15 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。
(途中省略)
14:18 さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから
14:19 そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。

聖書を読んだことのある人なら、穀物葡萄ぶどうが何を表すのか、すぐにわかるはずです。どちらも教会です。

これらの聖句は、すべて同じ結論で終わっています。
クリスチャンが全員、天国へ入るのではないということです。

これは教会の教えと違うかもしれません。
しかし、御国みくにには二種類の人がいて、片方は倉に納められ、もう片方は火で焼かれる。これが聖書の一貫した教えなのです。

マタイの福音書
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者(律法に背く者)とを、ことごとく御国からとり集めて
13:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
13:43 そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。

現代の教会の姿

ヨハネの手紙 第一
2:4 「彼(神)を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。

キリストは、十戒じっかいの本当の守り方を教えて回りました。
兄弟を憎むなら、それは殺人である。
情欲の目で見るなら、それは姦淫かんいんである。
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

ところが、ローマカトリックに始まった日曜礼拝の習慣によって、教会は「安息日は人のためにない」と教えるようになり、その教えを引き継いだプロテスタントに至っては、十戒じっかいを捨てるまでになってしまいました。

これこそが、預言者ダニエルによって預言されていたことです。

ダニエル書
7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる

これではいけません。
もう背教は起こり、今や教会は、不法の者(律法に背く者)の手に渡されているのです。

離れ去りなさい

誰も、大淫婦になりたいとは思わないはずです。
しゅを悲しませないためにも、私たちは聖徒となるべきです。

ヨハネの黙示録
14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

そのためには、不法を悔い改め、大淫婦から離れ去らなければなりません。

ヨハネの黙示録
18:4 わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。

私たちが大淫婦の中にいるからこそ、こう言われているのです。

「離れ去れ」

この命令に従うことで、あなたは兄弟を助けることができます。
従いましょう。どこまでもしゅに従って、兄弟を助ける者となりましょう。

おわりに

大患難時代に「教会」という言葉が出てこない理由は、もはやシーンが変わり、神様が教会を二つに分けて見ておられるからです。

教会はその名前を失って、淫婦とか、大いなる都バビロンと呼ばれるようになったのです。

けれど真の教会は、聖徒、また聖なる都エルサレムと呼ばれるようになります。

この聖徒に、私たちはならなければいけません。

患難前携挙説は、私たちを眠らせてしまう、偽りの教えです。
実際、再臨が二度あるなどと聖書から読み取った人は、一人もいないはずです。

つまり多くの人が、聖書の教えではなく、付け加えられた教えを信じているのです。

ヨハネの黙示録
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

付け加えられた教えを信じるなら、大淫婦から逃れることはできません。
必ず、この書に書かれている災害に巻き込まれることになるでしょう。

偽りの神学を捨て、幼子のように聖書を読み直してみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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