The it 000

自分が「食」の道に進んだきっかけは

なんとなく、覚えている

それは思い出す限りでも、自分の人生史上最も暗黒時代に
光の届かない海の底を這いずり回った最後

その光の届かない、海の真ん中で

揺れる水の間の

微かな感触だけを頼りに

最後にその手に触れた、


一本の藁のようなものだった。


わたしは何かを探していたのだ。


その何かは、

自分を支える一本の芯、と呼ぶには
ふさわしいかどうかわからないほどに細い

目に見えないほどの

ぴんとはりつめた


糸のようなものだろうと思う。



わたしには、

その「何か」が必要だった。




なぜなら、

その「何か」が見つけられない限り


わたしは自分の身体をこの世に繋いでおくことは
ほとんど、

不可能なくらい


消えるか消えないかという場所を
ずっと漂ってきたからだと思う。



自分が「食」の道に進むことを決めたときのことは、

何となく覚えている。


その頃わたしは上海に住んでいて

ひとびとを、世界を


呆然と、眺めていた。





一段、

一段、何かが明るみになってくる。



わたしはそして、

多大な影響を受けた、辰巳芳子先生の本に

その存在に


いつ、どんなかたちで出会ったのかが

思い出せないことに気づく。



ひとにはそれぞれ、

人生をまるごとひっくり返すような出会いが

その、1度や2度は、

あるだろうと思う。



わたしの人生にも、それはいくつかあって

そのうちのひとつが、


辰巳芳子先生という、その方だ。


何かのことを
誰かのことを、自分の言葉で「こんなひと」だと表現することを常々するが


辰巳芳子先生のことだけは、

言葉にならなかった。



”料理の”という枕詞すら、

恐れ多い気がした。



わたしは、

「答え」を見つけなければいけない。



それは一生かかっても見つかるものなのか

わたしにはわからない。


わからないが、


その「答え」が見つけられない限り

わたしは自分の身体をこの世に繋いでおくことを

辞めるしか


道はないと感じる。




一冊の本を

ページが刷りきれるまで読むことが、まれにだが、ある。


辰巳芳子先生の本は、

ページを開いて、

そして、


一字一句を追う度に、ページを一度閉じる必要があるくらい

わたしの身体には、

それは意味と、価値があるものだった。


すりきれるまで読むなど、途方もないほど
その世界は、

美しく、

決して汚してはいけないと感じるくらいに
大切に、

背筋を伸ばして読むような


小さな文庫にすら、

わたしはそんな感覚を覚えていたことだけは、

よく覚えている。





ニューヨークに渡り

数年ベジタリアン・ヴィーガンに落ちついたタイミングで


全ての本を処分して、




そして、


いま、もどってくる場所。





わたしは、

そして、


進まなければいけない。


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