アイ・ハヴ・ノウ・ガールフレンド
どうも、えふぇ子です。去年9月に星新一賞というSFショートショートの文学賞に応募したのですが、三次審査突破、最終審査落選という結果で終わったので応募した作品を(供養を兼ねて)公開します。
中学生時代に厨二くさい物語を書いていた以外は物書きをしたことがない奴の文章だということは断っておきます。自衛。
どうぞ、「生きている」の定義を考えながらお読みください。
アイ・ハヴ・ノウ・ガールフレンド
結局、ウェアラブル端末が普及したところで従来の携帯端末は無くならなかった。ウェアラブル端末はバイタル情報の取得や視覚支援等一つの機能に特化したものばかりで、オールマイティーな携帯端末の代替品にはなり得なかったのだ。
故に、電車の中の光景は三十年前と大差が無い。といっても、十六年前に生まれた僕にとっては伝聞でしかないが。
『あとどれくらいで着く?』
弄っていた端末に、彼女からのメッセージが映る。
『9:48着予定』
『当初の予定だと?』
『9:40です』
『デートに遅れるとは何事だ~』
八分くらい遅れたって、と入力欄に浮かんだ文字を削除する。思考自動入力機能に全て任せていたら今頃彼女と僕の仲は大変なことになっていただろう。
『ごめんって。SSでも読んでて。この前リンク送ったやつ』
彼女はそれで納得したらしく、それ以上の返信は来なかった。
駅を出て、端末が示すままに住宅街を歩いていく。静かな通りを行くと、やがて小さな林が見えてきた。今日のデート場所は都内の渓谷だった。
渓谷の下に続く階段を降り、チャットアプリを開く。
『着いた カメラ起動するね』
宣言通り端末の全方位カメラを起動し、映像データを彼女と共有する。景色を眺めていたのだろう、しばらくして彼女から返信が届いた。
『ここが都内だとはね~』
確かにそうだ。頭上には樹々が鬱蒼としており、僕が歩いている遊歩道のすぐそばでは緩やかに沢が流れている。東京の住宅街に囲まれた場所とはとても思えない。
『ねぇ、川の中に何かいないかな』
そう言われて、しゃがんでカメラを沢に近づける。
そのとき、ひんやりとした風が流れてきた。七月の初旬、日も照っているというのにこの心地よさとはさすが渓谷、と言ったところか。
しかし、風がいなくなってしまうと少し淋しい気持ちになってしまった。
彼女はこの風を知らないから。彼女とこの風を共有できないから。彼女はここにいないから。彼女がいる電子空間に、この風は吹かないから。
『……何もいないな』
僕の恋人は電子空間にいる。別に、二次元のキャラに恋をしているだとか、そういうのじゃない。AIでもない。似たようなものだけど、厳密に言えば違う。
「僕の端末にいる彼女」は「生前の彼女」の脳を電子化したものだ。
2039年、今から丁度十年前に、脳を電子化する技術が開発された。脳をデジタルデータとしてコピーすると言っても良い。脳も結局は電子回路なのだから、その働きをデジタルに置き換えることも可能らしい。
電子化した脳は本人のそれと同じように思考し、記憶を蓄積していく。自由に動かせる手足こそ無いが、チャットアプリを介せば他者と会話もできるし、カメラやマイクを接続すれば外界の様子もわかる。インターネットへの接続も可能だ。
そして何より─これが一番凄いのだと彼女は言っていた─電源さえあれば、電子化した脳はいつまでも動く。
人間は身体を捨てさえすれば、永久に生きられるようになったのだ。作曲家は心行くまで自分の音楽を生み出し続けることが、eスポーツ選手はいつまでもステージに立ち観客を湧かせることができる。そう、身体を捨てさえすれば。
脳を電子化するには、身体から脳を切り離す必要があった。生物学的には死ななければならない。僕の彼女は生物学的には死んでいる。
脳の電子化技術が実用化したのが三年前。学校の授業で、死に瀕した際に脳を電子化するか否かの意思表示を促されたのが去年の五月(そのときすぐに意思表示をする必要はなかったのだが、彼女は迷うことなく「電子化を行う」に丸を付けていた)。そしてその二ヶ月後、丁度一年前の今日、彼女の身体は事故で亡くなった。
かくして電子の脳だけが残った彼女が、僕の端末で生きている。とりとめのない会話と、映像共有のデートをするだけの存在。できることは生前より減ったけど、彼女への思いは変わらなかった。
「そろそろ移動しよっか。映像切るよ」
『うん』
映像を共有している間は声での会話も可能だった。と言っても彼女はテキストでしか返せないし、声に対して文字が返ってくる会話には未だに違和感がある。キャッチボールで相手に投げたボールを手渡しで返されるような。だからといって合成音声で返されるのも気にくわないが。
一通り渓谷公園を周り終えた僕は、公園を出て駅と反対の方向に歩いていく。今日の外出の本来の目的地に向かって。
端末があれば彼女とはいつでも会話ができたが、歩いているときだけは例外だった。歩行中の端末操作は御法度だ。
彼女が生きていれば、なんて考えもするが、たとえここに彼女の身体があったとしても僕達は黙ったままだっただろう。特に話すことも無いし、二人とも会話が途絶えることを悪いことだとは考えていない。……でも彼女が隣にいたら、この少しだけ寂しい心の穴を埋めてくれた気はする。
全く、今日はなぜここまで感傷的になるのだろう。
白い土塀を迂回して、寺の門をくぐる。教訓が書かれた貼り紙を横目に見ながら本堂の横へ行き、共用の桶に水を入れる。それで──
『お墓どこだっけ』
『奥から五番目、右から三番目』
『ありがとう よく覚えてるね』
『自分が霊になった時に帰ってこられなかったら困るからね』
『そこにいる限り霊にはならないでしょ』
そう返信して、少し疑問に思った。彼女の魂は今どこにあるのだろう。もちろん魂とか霊とかは信じちゃいないが、仮にあったらの話だ。魂は身体に宿るものだろうから、彼女の身体が無くなった時点で魂もどこかに行ってしまいそうなものだが、彼女がここにいるのに魂が別の所にあるというのも変な気がする。まあ、彼女がここにいることに変わりはないのでどうだって良いのだが。
墓石を黒く濡らし、二、三日前に添えられたと思われる花に水を足す。線香の香りの中手を合わせ、顔をあげて画面を見ると『自分のお墓を見るってなんか変な気持ち』という文が映っていた。
「まあ、そうだよね。そこに本人がいるのに、墓に向かってその人のことを考えるってのも変な感じだ」
ふと、前から気になっていた疑問を思い出す。
「そういえば、なんでお墓は作ったの?脳を電子化するくらいだから、お墓もネット上に作ると思ったんだけど」
一年前、電子脳となった彼女が真っ先に口にしたのは墓は現実世界に建ててほしいということだったのだ。身体が死んでしまったことや脳を電子化した感想はそっちのけで墓の話をするものだから、彼女になんと声を掛けようかと悩んでいた僕は拍子抜けしてしまったものだ。
『なんて言えばいいのかなぁ』
表現に困っているようで、なかなか文が続かない。
『私が生きていたことの証、存在証明っていうのかな。物質的にそういうのを残したくてさ。わかる?』
「ごめん、あんまりよくわからない……」
『山月記っていう昔の小説あるじゃん?』
『虎になっちゃった主人公がかつての友達に「自分は詩人として生きようとしたのだから、自分の詩の一部でも遺しておきたい」って言ってその詩を書き留めて貰うんだけど。そんな感じで、自分が生きていたっていう爪痕を遺しておきたいっていうか……』
「なんとなくわかるような、わからないような……。とにかく何かをこっちに遺したかったってことだね」
『そう。私の墓に文化的価値は無いんだけどね』
『一年前はとにかく何か物体を遺したい一心でお墓を建てて貰ったんだけど、今は一年に一度でもいいから、ここに来て少しでも私のことを思い出してくれたらなって思う』
「え…………?」
なんだそれ。その言い方じゃまるで彼女が死んでいるみたいじゃないか。彼女は端末の中にいるのに──
(もしかして、死のうとしている?)
急に心臓がバクバクと言い始める。日差しによって流れていた汗に冷や汗が混じってくる。クラクラするのは熱中症のせいではないだろう。
「もう、行こう」
渇いた喉で声を絞り出し、映像共有を解除する。端末の電源ボタンを長押しして、やっと一息つくことができた。電源を切れば、彼女は喋れない。話の続きを、自殺する意思を彼女から伝えられてしまったら全てが終わる気がした。
自殺の可能性という思い付きは確信へと変わっていた。生きている人間が「たまには自分のことを思い出してね」なんて言ったら、それは別れの合図以外の何物でもない。彼女は生きているかいないかで考えたらたら前者だ。少なくとも僕と彼女の間では。
端末の電源を切っている間は彼女が死ぬ心配は無いが、いつまでも電源を切っている訳にもいかない。何か策を講じなければ。
桶を戻し、掻き回された頭のまま寺を出ようと進む僕の目に飛び込んできたのは、入った時には素通りした教訓だった。
『過去と他人は変えられない。しかし未来と自分は変えられる』
「……嘘だ」
過去は変えられる。そうじゃなきゃ、未来は変えられない。
意を決して、駅への道を走り出した。
家に戻るや否や、バッグをベッドの上に放り投げる。自分のpcは既に起動していた。逸る僕の気持ちを読み取った端末が遠隔で起動させたのだ。どこかに、恐らくはドキュメントフォルダ内に、彼女の記憶のバックアップがあったはずだ。
C:¥Users¥Ksuke¥Documents¥backup¥Akari¥Log
これだ。3ヶ月毎にとっていたバックアップ。こんな形で役に立つとは思ってもいなかったがとっておいて良かった。
Logフォルダの中には各月のフォルダが並んでいた。一番新しい2049_4フォルダを開く。その中には二種類のファイルが地層の様に積み重なっていた。
チャットと彼女の思考それぞれのログファイルだ。彼女の記憶。彼女の過去。
これを、今日の分の彼女のログファイルを書き換え、過去を捏造する。そうすれば彼女は墓参りに行ったことも自殺を仄めかしたことも覚えていない。自殺の仄めかしを覚えていなければ、恐らくその次の自殺の意思を表す言葉も出て来ないはずだ。
しかし、ログなんてろくに見たことがない。書き方を知らなければ記憶を変えることだってできない。試しに四月一日のチャットログファイルを開いてみる。画面いっぱいに文字やら数字やら記号やらが広がった。
各行の一番最後にある日本語はチャットの内容で間違いないだろう。送信された時刻も確認できる。残りは……全くわからない。
だが、ある程度は予測がつく。このログからチャットを復元するとして、会話本文と時刻以外に必要なのは誰が送信したかと何を送信したか─例えばメッセージだとか画像だとか─だろう。画像は画像でどこか別の場所に保存されているはずだ。ある程度ログを見てパターンを推測すれば、チャットのログは作れるだろう。
この調子なら思考のログも想定していたよりは楽に作れる、と思考ログファイルを開く。しかし画面に映っていたのは、期待していた記号の羅列などではなかった。
「は……?」
思わずそう口をついて出てしまった。
マインドマップと言ったか。中心の四角い枠から放射状に線が伸び、丸い枠に繋がっている。そんな図形が、ウィンドウ内にいくつも浮かんでいた。およそログのデータとは思えない。
丸い枠内には「嬉しい」「面白くない」という感情を表す簡単な言葉から、小説の感想と思われる文章が書いてある。これが、彼女が考えたことなのだろう。四角い枠の中には、ファイルのパスらしき文字列が入っている。
(¥Akari¥Log¥2049_4¥0401.chlgってことはさっき開いたチャットのログファイルか……)
チャットのどこかの発言に関連した思考が、線で四角い枠と繋がっているようだ。
しかし仕組みがわかったのは良いが、編集の仕方がわからない。枠内のテキストは変えられず、思考の記憶を直接弄ることは不可能なようだ。しばらくの間、手当たり次第にクリックしてみたが手を加えられそうなところは見つからなかった。
(とりあえず、チャットのログから作ろう)
焦りと苛立ちを募らせている自分に気付き、できることから始めようと決める。また後で見れば、気づかなかったものが見えてくるかもしれない。
チャットログを作り終えた時には夜の八時を過ぎていた。ログを書くこと自体よりも、チャットの内容をどうするかに時間をとられてしまったのだ。とりあえず、デートには行ったが墓参りはしていないことになっている。
問題は思考のログの方だ。とりあえず、さっきとは別の思考ログを開いてみる。開いてみて、しまったと思った。何気なく四月一日の次の日のファイルを開いたのだが、その日は僕と彼女が大喧嘩をした日なのだ。画面上に悲しみや怒りの思いが密集していて圧がある。四角い枠から放射状に広がった丸い枠が綺麗なモノクロのグラデーションを作っていて──
(色?)
中心の四角い枠に近い丸枠ほど色が濃く、逆に離れているものは文字が読めないほど薄くなっている。もしかしたら、この色の濃淡が記憶の鮮明さを表しているのではないか。その仮説を確かめるべく、他のファイルも漁ってみた。
仮説は当たっているようだった。四角い枠に近い枠ほど、鮮烈に記憶に残るような内容が書かれている。そして、丸い枠は自由に動かすことができた。つまり、記憶を追加したる消したりすることはできなくても記憶を薄れさせることはできる。ならば、今日のログを直接編集しなければならないだろう。
電子脳にも「睡眠」は存在する。意識的に活動することができなくなる時間が設定されており、無意識下でログデータの処理等がなされるのだ。彼女が「寝ている」時にログファイルの置き換え、書き換えをやれば、彼女に気づかれることはない。彼女の「睡眠」は十二時からだ。
十二時になってベッドから抜け出した僕は、データの改変を行った。チャットログの置き換えは容易だった。思考ログの書き換えは、首尾が良いとは言えなかった。僕が映像共有を止めた直後に彼女が残した「お願い、話を聞いて」という文字。彼女の声から目を背けることの是非を、何度も自分に問い質した。彼女を死なせないためだ。そう言い聞かせて、記憶を薄れさせた。
改変は功を奏した。翌日の彼女はいつもどおり明るくて、死とは無縁のもののようだった。
ただ、どこかでわかっていた。これが一時的な延命措置でしかないことを。
『ちょっと話したいことがあるんだけど、今大丈夫?』
彼女からそんなメッセージが送られてきたのは、あれから一ヶ月が経った日のことだった。
『大丈夫』
悪い予感がしながらも、仕方なくそう返す。
『ありがとう。話す前に一つ聞いておきたいんだけどさ』
『もしかして、私のログいじった?』
全身が凍りついた。脳だけが異様に熱くて、何故ばれた、どう弁解する、と空転する。答えは出なかった。
『ごめん、いじった』
『やっぱり』
嘘を貫くだけの度胸は無かった。彼女の表情がわからないのが恐ろしい。
『怒ってないよ。ショックなのと、悲しいのはあるけど。全部許すから、ログを変えた日に何があったか教えてくれない?』
僕は全てを話した。二人で墓参りに行ったこと。そこで彼女が自殺を仄めかしたこと。彼女がいなくなってしまうのが嫌で、ログを改変したこと。怒られるよりも、彼女が静かに沈む方がよっぽど辛かった。
『そっか。ちょっと言っちゃったんだ、私』
『本当にごめん……明の気持ちも汲むべきだったよね』
『急に言った私も馬鹿だった』
『でも、やっぱり消えたいの』
『どうして』
彼女が死にたいと思っていることをまだ受け入れられなかった。墓参りのときみたいに、電源を切ってこの会話ログを消してしまいたかった。だが、そうしたところで彼女の意志は変わらないとわかっていた。
『長くなるから合成音声使っても良い?』
『わかった。こっちも声で話すね』
音声共有を開始する。
「どう?違和感無いかな?」
「うん、思っていたよりも良い」
「良かった。私が消えたい理由、だったよね。私、事故に遭うまでずっと『生きているのが怖い』って思ってたの」
「死ぬのが怖い、じゃなくて?」
「まあ、それもあるんだけど。なんて言うのかな。生きるのが辛い訳じゃなくて─寧ろ部活もあって恋人もいて人生は充実していて楽しいんだけど、ふとした瞬間、大体は寝る前のベッドの中で『なんで私は生きているんだろう』って思っちゃうことがあってさ。別に悲観的になってるんじゃないよ。ただ、『私がこの宇宙に存在しているってどういうことなんだろう』っていう疑問から始まって、『私が死ぬってどういうことなんだろう』『私が消えたら私の意識はどうなるんだろう』ってどんどん考えていくうちに怖くなっちゃってさ。恵介はこういうことを考えたことってある?」
「無いかな。死ぬのは嫌だけど、どこか遠い話っていうか、あまり実感が湧かないし……」
「そっか。それはそれで幸せなんだと思うよ。でも私は怖かった。死の先、自分が消えたら後にに何があるかわからないから怖かった。だから、脳の電子化を決めたの」
「電子化すれば、死ぬことがないから……」
「そう。ずっと不死身になりたいと思っていた。いつか必ず来る死という未知の恐怖が来なければ、この『存在の恐怖』もなくなるだろうって。……でも、脳を電子化した後も『存在の恐怖』は無くならなかった」
「え、どうして……?」
「完全な永遠なんてものは存在しないんだよ。恵介が端末の電源を落とすと私の意識は一時的に消える。電源が入れば私の意識は復活するけど、もしその後誰も電源を入れてくれなかったら?私の脳のデータが修復不能なまでに壊れたら?データが消されてしまったら?どれも実現する確率は低いけど、ゼロじゃないんだよ。そして、そのどれかがいつかは起こる。何百年先かはわからないけど、私はいつか消えてなくなる。結局、死ぬ確率は百パーセントなんだよ。だから、電子脳になっても『存在の恐怖』は無くならない。……それに、完全な永遠もそれはそれで怖いんだって気づいた。私の存在が確実に保証されたら、地球が太陽に飲み込まれても、宇宙が潰れて無くなっても、私は存在しなきゃいけない。私の存在が有限だろうと無限だろうと、恐怖があることに変わりは無い」
「そんな……じゃあどうすればいいんだよ」
「どうもしようがない。答えなんてどこにも無い。恐怖を受け入れて、抱えて、紛らわせながら生きるしかない」
「じゃあ明もそうやって生きれば─」
「紛らわせられないの!私には目と耳と脳しかない。身体が無きゃ、美味しいご飯を食べることも、部活に打ち込むことも、恵介と満足にデートすることもできない。そんなんで、恐怖を紛らわせるなんてできないんだよ……。だから死ぬの。恐怖を抱えて生きるより、未知の死に飛び込む方が良いの」
何も言ってあげられなかった。明が死ぬのは嫌だ。でも生きることが辛い明に生を強制することはできなかった。
「ごめんね。あのとき事故でそのまま死んでいれば、こんなことにはならなかった」
「死ぬのか……?」
「うん」
「やっぱり駄目だよ!死ぬなんて、そんな……」
屋上から飛び降りようとする彼女の腕は掴めなかった。彼女の首から下は無いから。
「私は消えたい。恵介は私に死んで欲しくない。それなら生死の定義を変えよう。私の脳データが消えたとき、私という存在は消える。けれど、恵介が私のことを覚えている限り、私は永遠に生き続ける。それで二人とも満足でしょ?」
「そんな言葉一つで定義を変えることなんてできるわけ無いだろ!」
「この一年間、恵介と居られて楽しかったよ。それじゃあ─」
端末が手から滑り抜け、床へと落下した。画面には『Akariさんが退出しました』という文字だけが残っていた。
『ありがとうございました。いただいた八雲明さんのデータは今後の研究に活用させていただきます』
画面の向こうの長髪の女性が、淡々とそう告げる。
昨日、彼女が消えてすぐに、脳の電子化とその研究を行う機関からメールが届いた。彼女の消滅を検知したことと、残っているデータを提供して欲しいということが、簡素な文章で述べられていた。
『高木さん、貴方に幾つか聞きたいことがあるのですが宜しいでしょうか』
「はい」
『彼女が自ら電子脳を消した理由について、何か思い当たることはありますか』
「……彼女は、これ以上この状態で生きていくのが辛いんだと言っていました」
『明さん自らの意思で脳を電子化したにも関わらずですか』
「はい。存在していることが怖いんだと、脳を電子化する前からずっとそう思っていたと言っていました。電子化したらずっと生きられると思っていたのがそうじゃなかったって……」
『理論上は永久的活動も可能ですが』
「それじゃ駄目だったんだと思います。自分の存在が消え得る限り存在の恐怖は消えないんだって。でも完全な永遠も怖いんだって。僕には、何が何だかわからなくて」
『わかりました。ありがとうございます。次に、明さんの記憶データの一部に外部から改竄された痕跡があったのですが、あれは高木さんによるものですか』
改竄。その言葉が肩にのし掛かってきた気がする。
「…………僕がやりました」
『改竄を行った理由は何でしょうか』
「七月に彼女が自殺を仄めかすようなことを言って、それで、それに続いて脳データを消すとはっきり言うんじゃないかって思って、その時はすぐ端末の電源を落としたんですけど……また電源を付けたら続きの言葉が出てくるんじゃないかって思って、それを聞きたくなくて、仄めかした記憶を消してしまえば彼女が消えることは無いんじゃないかって……そういう理由です」
『明さんの「自殺」を止めたかったということですね』
「そういう、ことです」
『わかりました。ありがとうございます』
「あの」
『何でしょう』
「彼女の記憶を改変したことで僕が罪に問われたりとかはしないんですか」
『それはありません。法整備が追い付いていない、というのが一番の理由です。研究目的以外で、脳を電子化した人間の記憶データに干渉したのは貴方が初めてのですので』
「誰も僕を罰しないんですか」
『誰も罰しないと言い切るのは難しいでしょう。電子脳の記憶の改竄を悪と捉えるか否かは人によって大きく変わると考えられます。現に、私は問題無いと考えていますが、貴方は自身を責めているのではないですか』
「生きている人間の記憶を変えるだなんて、許されるはずないじゃないですか」
『生きている人間、と仰いますが……高木さん、生死の基準は時代と人によって様々なのです。脳を電子化した時点で明さんの身体が死んだことは紛れもない事実でしょう。しかし八雲明という人物が死んだかどうかは誰にもわからないのです。電子脳の状態を貴方は「生きている」と考えます。私は「死んでいる」と考えます。どちらが正しくどちらが間違いであるのかはわかりません。要はその人の考え方次第なのです』
『冷たいようですが、これが答えです。他に、何か質問は』
「無いです」
『それでは、これで終わりにしましょう。お時間をいただきありがとうございました』
(終)