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原爆が投下された日に思う事。



 偶々徹夜した次の日の朝、そんな日とも知らずに私はマイコンの電源を何時もの様に付けた。ルーティーンになっているTwitterのトレンドに目をやると、♯原爆投下と言う文字が表示されている。

 そうか、今朝は約八十年前に、アメリカの新型爆弾を積んだエノラ・ゲイが広島の街を一瞬にして崩壊させた、歴史的惨劇に見舞われた日か・・・と、何だか複雑な感情になり、早めに朝食を取り、テレビの広島平和式典をつけて、あの日の惨劇を思いながら八時十五分、1分間の黙祷を捧げた。

 今まで、旅先で何度か戦争の爪痕が残る場所へ友人達と手を合わせに行ったが、一番脳裏に浮かぶのはコレヒドール島で、初めて訪れた戦争跡地だった。現在の東京、上野を除けば初めてだ。コレヒドールでは、アメリカ人が日本製の生コンクリートを使って建てたボーリング場跡や、映画館跡、それから広場に残された固定された機関銃の様なものもあった。日本軍が残した馬鹿でかい砲台も、当時のままに放置されていた。建物なんかは鉄筋コンクリートの骨組みだけがその建物の存在を幽霊の如く現在の自分の前に存在している様は、まるで戦死した兵士の白骨化した遺体が、砂の中から出土した如くの衝撃だった。私には、証拠と実態が在るのが何よりも気持ち悪かった。
普通、千年も前に建てられた神社と一口に言ってもその実は何度も建て替えられた、精々六十年かそこらで様々な補修やら何やらで見かけだけ・・・・
なんて事も古い建物ならよくある話だ。だのに鉄筋コンクリートの崩れかけた骨組みだけは、アメリカ軍が撤退してそのままそこでジャングルに飲み込まれそうになりながら、ヒッソリと風化していた。骨組みの間から差し込む斜陽と、コンクリートの不気味な灰色と腐った様なその鳥肌の立つ、自然の色調に交わらない奇妙さが、生茂る若い芝生の、みなぎる生命力の艶やかな若緑色が場の気持ち悪さに一役かっていた。


次に戦争の爪痕が残る場所へ行ったのは、冬の沖縄だった。

 沖縄で向かったのはひめゆりの塔だった。


ひめゆりの塔は、沖縄戦の時にアメリカ軍が沖縄に上陸してきて、それを必死に食い止めようと戦って負傷した日本兵達を塹壕の中で必死に治療していた女学生達が、壕の中でアメリカ軍の攻撃を受けて、中に身を潜めていた生徒や負傷兵が大勢犠牲となった、何とも酷く(むごく)、ここではあまりに残酷で痛ましく、できればここでは記したくない、生き残った生徒達の生々しい体験談や遺留品が残された記念館だった。

生存者の方々のあの日の記憶をありありと綴った本は、全てが本当の出来事で、文豪の様な巧みな言い回しが一切なく、普段の話し言葉で書かれているだけあって、まるで昨日の出来事の様に頭で想像さてしまい、それが発端で、急に夜の音の無い湖で、一人ボートに浮かんでいる様な心細さと、ずっとどこに着くのか分からない不安さが入り混じった様な感情がやってきて、その感情はページをめくる毎に、滝の様に不安の要素だけが大きく流れ、ただ一直線に孤独にも似た虚しい感情や恐ろしさにも似た形容し難い絶望の淵に自分の乗るボートは底へと落ちていった。

その感情に、どう自分が判断して良いか分からず、只々怖かった。その瞬間、戦争ゲームは世界から消えて欲しいと思った。



 そんな二つの違う場所で起きた悲劇に終止符を打ったのが広島と長崎への原爆投下だった。少しでも命を投げ出したいと思ったら、あの日の惨劇の生存者たちの言葉を、今一度思い返して欲しい。

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