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鶴巻温泉を掘ると鎌倉でなく古代が出た

歴史を調べていると善波太郎重氏という人が出てくる。善波トンネルのある善波峠は古くからあるみたいだけど管理していた人は必ずいるんだろうなってぼんやり思っていた。善波太郎は吾妻鏡にあったかな。人物索引ほしいなあ。調べてみると吾妻鏡に北条時頼の時代にご老人として一度でてくるらしい。

郷土史によると弓の名人で鳥と思って曼荼羅を落とし、そこに落幡神社をいうものを作り、落幡村というものを作ったらしい。

こんなのあったんだね


旧落幡村

石碑にあったのは鶴巻温泉街の線路を挟んで反対側の地区のことらしい。丘を降りると大根川と善波川の三角州が良田として有名なところだったようだです。その地図の下にある真田という地名に注目してほしい。

ここは元々豊かな田んぼを意味する真田と呼ばれたらしい。
そこに佐奈田与一という25歳ぐらいの青年がいた。年齢が記録に残るのつらいね。彼は岡崎四郎義実の嫡男で頼朝が敗北した石橋山合戦で戦死した。馬が大好きで今の東海大のあたりを牧場にし館を構え、このあたりの田んぼを所有していた。

岡崎四郎は義朝の口利きで中井町が本拠の中村氏に婿に入り、誰かからか、ぶんどったらしい。東海大のある真田山には古墳があったそうなので、古墳がいっぱい残っている秦野市に住んでいる大根川沿いの波多野氏の領地なんかなって推測する。波多野氏は頼朝の兄である朝長の母の実家なんだそう。

暴力的な男である義朝はわざわざ三浦氏のあまりっ子である岡崎四郎をここに入れて揉めさせたんではないかな。この頃の波多野氏は親族の揉め事が多く衰え始めてたらしい。伝説は岡崎氏が和田義盛の乱で滅んでこの土地が善波氏に落ちて揉め事がなくなったってことなんだろうと思う。うん、田舎なんで記録ないんだけど。

こちらで私の訪問記があります。

で、和田義盛別邸と伝承される有名な陣屋横の西光寺に行ってみました。

和田義盛側室とありますね。


1351年の五輪塔と古いお墓

陣屋のホームページによると落ちぶれた岡崎氏の女性たちが温泉付きの別邸を管理していたそうです。その一人が側室だったのでしょう。男子は戦死したけれど女系で子孫を繋いだようです。南北朝には息を吹き返したみたいですね。ちなみに陣屋は明治以降に温泉を掘り直した温泉です。宮崎駿の親族が管理者になっていたようです。うん、かつて猪なべが名物でした。

鶴巻温泉は温泉もあり、善波峠に向かう交通の要所だったそうです。

奈良時代の駅、馬がいました


では、なぜ温泉は栄えて、そして廃れてしまったのか。それは富士山の噴火による地形の変遷と治水技術の発展によって良田が川下に移ったことがあったみたいです。東海道は鉱物をはじめ山のお宝からお米中心の土地を通るようになります。

さて、元々は鶴巻、善波を管理していたのは、善波太郎重氏の一族だったみたいです。善波氏は下糟屋を本拠にしていた糟屋氏の氏族だったそうです。糟屋氏は元々は佐伯氏で為義のころ藤原氏を名乗りました。お隣りの波多野氏も元々は佐伯氏だけど、義家に従ったとき相模の国司の婿になって京都と婚姻を重ねたそうです。

同じ佐伯氏ですが関係性は分からない。これはからくりがあって、朝廷から軍事貴族である大伴氏にしたがった蛮族は佐伯を名乗るようにというお達しがあったようです。

佐伯真魚という人がいます。この人は瀬戸内海は讃岐の人です。
後の弘法大師空海です。まあ、ざっくりと地元の人で朝廷に従った人ということです。この秀才少年を屋敷に養って学問をさせた人が、氏の長者である佐伯今毛人という人です。

この人は東大寺の現場監督で聖武天皇の側近で長屋王の乱なんかにも関わった人みたいです。今毛人という名前がヒントでどうやら最初のころの蝦夷とは小田原や伊勢原の人だったようです。なんで、二宮町のちっちゃい山が、吾妻山なんかもわかりました。

彼はゆかりのある鎌倉の漆部氏の出身の良弁と組んで東大寺を作りました。漆っていうのは木材の雨水よけと接着剤として大きなお寺にどうしても必要なものだったらしいです。
漆は、鉱物と漆畑が近くにないと制品として安定できないらしいのですね。特殊な技能が必要で、山の民の力を借りないといけません。まあ、奈良の近くにもありそうなもんなんですけど。ともかく、東大寺の公共事業で相模は潤ったのです。伊勢原や藤沢はそのおかげで発展したようです。

東大寺の物資調達を担当し富豪になった漆部伊波という人は東海大駅の弘法山沿い漆窪に生まれたそうです。地名残ってました。

さて、いよいよ地域の英雄である善波太郎重氏を探ります。


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