人の歴史は続いてる
大学の国文科の授業のとき、先生に保元物語にひたすら赤線をひかされた。なんか気になっていたのでずっとその本を持っていた。
その後、橋本治の双朝平家物語を読んだとき、私の住んでいるところにいた人が重要な場面に出てくることを知った。そのとき、同じく赤線に引かれた注釈の吾妻鏡で保元の乱のときの思い話をかたる男。その男が住んでいるところに行ってみた。彼は大庭景義という。
彼の館址は今は神奈川県茅ヶ崎市の住宅地の神社となっている。社殿の裏に彼の銅像とたぶん、本人か家族の墓石がある。神社の入口近くに由来があるけど、近所の人でもじっくりと見てる人は、ほとんどいないんじゃないかと思う。なぜなら、彼の弟は大庭景親と言い、平家方で最初に頼朝に滅ぼされた人だからだ。彼は弟と違い頼朝についた。
保元の乱で、彼は頼朝の父である義朝につき、彼の弟の豪傑であると為朝と戦い、足に矢が刺さったがかろうじて逃げ切った。
その時、弟の景親は兄の体を踏んで助けたそうだ。弟は優しかった。
なにしろ、近所に住んでいた頼朝のところに出入りしていた佐々木のじいさんに、うっかりと戦になるから縁を切れって忠告するような人だった。
しかし、障害者になった兄は跡取りを外され、茅ヶ崎の湿地の島の領地に移された。弟が優しくても取り巻きは仲を割いていったのである。
本拠である義朝も狙った大庭御厨という豊かな田園は弟のものになった。
景義にも家族もメンツもあるのである。
しかし、頼朝が勝った運の良さがあっても、彼に大庭御厨はもどってこなかった。彼の死後、不満のある息子は和田合戦で北条方と戦ったが行方不明になり、彼を思う人もいなくなってしまった。
しかし、吾妻鏡を読んでみると、愛嬌があって気前のいい彼は頼朝や御家人たちに愛されたのである。うっとおしくも保元の乱を語るとしても。
なぜ、先生は赤を引かせたのか、行ってみたい。私は相模線の香川の駅に行ってみた。
行ってみると、大庭景義なんか当たり前に忘れられていて最近発掘された、奈良時代の米の倉庫と役所跡の町歩きマップがあった。
まず、腹ごしらえ、駅前でお昼ランチの天丼とお蕎麦食べてしまいました。野菜が新しく天麩羅が美味しかったあ。すると、なんか古代遺跡見たくなってしまった。
行ってみると寒川神社に隣接してて、奈良時代ごろ国の役人が米の管理をしてたみたいである。元々聖地だったらしく、大きなお寺や禊の遺跡がある。
大山が見える。近隣の御家人の梶原館跡、渋谷館跡、岡崎館跡、必ず見える。拝んでたとしか思えない。
大和朝廷に認知された地方豪族を国造っていう。教科書を覚えてますか。
その人たちが住んでいたのではないかな。寒川神社を拝んでていたらしい。
この国造が大庭景義のご先祖なんだそうだ。そう、国から派遣された人たちの実際を運営していたのは彼らなんだと思う。
そこから歩いて20分ほどのところに大庭景義の懐島館跡がある。平安頃には地元の勢力が国の行政のそばに住んでていたらしい。
茅ヶ崎駅まで行く国道を歩く。そこから5分ほど住宅地を入ると館跡がある。大きな館だったんだ。
今は神社だけが残っている。お祭りが盛んだそうだ。
頼朝はよくここを訪れて、ご馳走をいただいたり、踊りを見せてもらったりした。気前が良く陽気だったらしい。
大庭景義の像と一族の墓石が拝殿の後ろにひっそりとある。
吾妻鏡の一節も石碑になっている。
奥州藤原氏を滅ぼす戦をためらった頼朝を励ました功績が記されている。
ものすごく晴れて暑かった。ペットのお茶を飲みながら拝殿に座って、空を見ていた。静かに清められていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?