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「中世都市鎌倉を歩く」

漫画の「新九郎 奔る!」や「逃げ上手の若君」を見てると北条氏が滅亡したあと鎌倉の人たちはどうしたんだろうと思うときがある。
ずばり、権力闘争に関係なく元気に人々は都市文化を謳歌していたというのが答えだ。
だが、時代が進むとだんだん寂れていって、北条早雲が小田原城を造ったときにほとんどの人たちが移住したということらしい。

松尾剛次が1997年に執筆した中世都市鎌倉を歩くは鎌倉を発掘した考古学者たちの南北朝の骨が鎌倉時代と同じぐらい出てくるという話に対する彼なりのアンサーの本らしい。

南北朝時代、足利将軍の代理人である鎌倉公方がいて、多士済々の町衆がいて鎌倉は賑やかだった。
鎌倉時代の新宗教の栄西の禅宗の中心である建長寺だったりがあり、門前町が栄えていた。また、鎌倉公方に信心された日蓮宗も栄えていた。

何よりも、治水技術がつたなく利根川沿いの関東平野や酒匂川沿いの小田原の下流部で川筋が安定してなくて、まだ米が取れなかった。
城の築城の技術も拙かったので天然の要塞に囲まれた鎌倉は安全だったのだ。

こう書くとなるほどって思うけど、鎌倉はいつも揉めてた。多分狭いからだと思うけど、記録がだいぶ失われている。
そこで、鎌倉仏教史の第一人者の著者がお寺の資料を紐解いて、どんな人たちがいたかを語ってくれる。

この本は神田に遊びにいったとき三省堂の仮店舗で見つけた。ああいう店には歴史をアカデミックに勉強したプロ中のプロがいるのだな。

面白いなって思ったのは里見家の鎌倉侵攻の話がほんとだったことだ。
里見家というのは北条氏を実際に滅ぼした新田氏の分家らしい。
その後、新田氏は後醍醐に敵対して追い出される。そして、なんと、後醍醐天皇の南朝方について足利と戦ってほぼ滅んでしまう。その、報復としての残党の里見氏の侵攻があったらしい。

人形劇の八犬伝見てた人も少なくなったけど、悪役は鎌倉の扇谷上杉家でしたよね。そう、その頃は足利本家と結託した家来の扇谷上杉家が鎌倉の主人だった。

このあたりが扇谷。鎌倉駅の裏で意外と近くだ

しかしながら、出てくる人は家来の太田道灌を殺した人だそうだ。その後の世の中の混乱で資料が散乱して鎌倉ってどんな歴史ってわかんなくなってたらしい。
実際は江戸城を作った天才的な築城の名人で文化人である太田道灌を神奈川県伊勢原で嫉妬で殺した人だ。
扇谷は鎌倉公方の追い出し成功したけれど、町衆は公方と茨城古河について行った。生活が成り立たないので伊勢原で逼塞していたというのが真相らしい。その後、後北条に滅ぼされる。

扇谷の館あと
JR線路を挟んで向かいに太田氏の館があった。
供養にために太田氏子孫の家康の側室が建てた寺

鎌倉は後北条のものになった。その鎌倉を古河公方を担いて里見が侵攻したっていう話だ。しかしながら、後北条の話は江戸時代はタブーだ。
それで解んない話になり、鎌倉の歴史もなかったことになったらしい。

私の子供の頃は北条早雲は卑しい素浪人だった。今の歴史研究って面白い。
どんどん話が更新されていく。そんな知的な刺激はひっそりと芽吹いてた。そんな本だった。


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