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はじめから、自分が主人公

物語は、必ずと言って良いほど、『主人公』がいる。
ある人物に視点を寄せた方が、物語の展開がしやすいからだ。
読者側としても、誰が主人公なのか明らかにしてもらった方が読み易い。

主人公は、基本的に物語上の「美味しいところ」を持っていく存在である事が多い。少年漫画であれば、ラスボスにトドメを刺すのは主人公である事が多い。その方が読んでいる側はスカッとするからだ。

物語とは、ある時空間を切り取り、特定の人物に視点を寄せて作られるものだ。
フィクションでも、ノンフィクションでも、必ず書き手の視点にて書かれるものだ。

では、リアルな世界、私たちの生きる現実はどうか。

「視点を寄せる」という意味で言うと、私たちに最も近い「視点」は、「私自身」になる。
つまり、「書き手」は「私自身」となる。

では、誰が「主人公」だろうか。

これは、人に依る。
自分の「焦点」が自分という場合、自分が主人公だろう。
一方、常に「焦点」が自分以外、という場合もある。
常に自分以外の誰かを目で追ってしまう場合(行き過ぎるとストーカー)、
「誰か目線」を気にしてしまって、自分の意見がなかったり、
何をしても誰かと「比較」してしまう場合。
これらは、自分の中に誰か「自分以外」が居座り、主人公と化し、自分の中で自分は、サブキャラクター(主人公以外)になってしまう。

よく、「自分の人生を生きれている実感が少ない」という話を聞く。
それは、自分の中で、他人が中心に置かれているからだと思う。
妬みや僻みが発するのは、本来自分が中心の世界に、誰か他人が割り込んで来てしまうからだ。
無気力になるのは、自分の中で自分以外の誰かが影響力を持ってしまうからである。

実際の人生は、誰が主人公なのか分かりにくい。
何故なら明確は書き手はいないものとされているし、物語の様にページを先読みすれば結末が分かるという訳でもなく、未来は誰にも分からない。
一見、輝かしい人生を歩んでいる人が、皆の注目や賞賛を浴びて、「彼の為の世界」と錯覚しそうにもなる。
しかし、視点を変えれば、そんな彼らもサブキャラクターでしかなく、或いは通行人Aですらないかもしれない。
つまり、この世界には「書き手」はおらず、従って「意図」も恐らく無く、つまり、主人公は不在だと言うことだ。
例え、世界を統べる統制者が現れたとしても、人々にとっては登場人物でしかない。
では、私達にとっての「主人公」は誰か。
間違いなく、「私」なのだ。
四六時中私が意識を向けられるのは、私以外に難しい。
私以外の誰かに主人公を置いたとしても、必ず「私」の意識が私になだれ込んでくる。私の独白が頭の中を流れるのだ。
誰かを一日中監視したとしても、彼を客観的にしか見る事は出来ず、彼の主観に入り込む事は出来ない。

人は皆はじめから自分が主人公なのだ。

ただ、認識の上で自分を「主人公」とするか、別の誰かを「主人公」にするかは、人それぞれだ、という事なのだろう。

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