本屋にて
04/01/2007
■本日本屋で「ジュスティーヌ」を見た。待ちにまった『アレクサンドリア四重奏』がとうとう復刊されだした。といっても月1冊、4ヶ月かかる。一時は文庫で出すとかいろいろ曲折があったようだし、昔の訳もそうとうな名訳だと思ったが、倍の値段で全面改訳となっている。帯にはこうある。三島由紀夫をして「20世紀最高傑作の一つであり、優にプルースト、トーマス・マンに匹敵する」と言わしめた歴史的大作が、名訳をさらに磨き上げた全面改訳で遂に刊行。これでいったい何がわかるか。〈三島由紀夫の読書〉である。
■あまりに待ちにまつと、その待ち焦がれる気持ちだけが即自的な目的になってしまい、何を待っていたのかさえ見失うことがある。それほど待ったことがあるだろうか。最近読んだおもしろかった投稿に、2歳の子どもが初めて「文章」を話した、というものがあった。それまで単語ばかりだったのに、文章になった最初のものは、「ママ、ごはん、まずいよー。ずっと、まずいよー」というものだった。それを告げたかったのだ。待ちに待って吐き出すようにして出てきた、それが彼の記憶には残らない彼の人生で最初の文章だった。
ぼくらのなかではもう始まってるんだよ。それらをまだぼくらは始められなかった。
ダレル『アレクサンドリア四重奏』
■すでにやってきているものがやっとやってくる。その遅延、それが待つということの真の意味ではないだろうか。
■妻が急にめまいを訴え、ついにからだの左半分がしびれ、自分の唾液も飲み込めないようになって入院した。脳の動脈瘤で、来週の火曜日が手術と決まった。子どもはちょうど春休みで妻の実家に預け、ひとりで生活している。呂律もまわりにくくなっているのだが話はできる。そんな状態なのにちゃんと皮肉を語っている。
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