引用

スラヴォイ・ジジェク『パンデミック』
第八章 監視と処罰? ええ、お願いします!

(略)
ウイルスについての一般的な定義を引用してみたい。ウイルスは「様々な、多くは超微細な感染性病原体で、RNAまたはDNAの核酸からなり、タンパク質の殻で覆われている。動物、植物、細菌に感染し、生きた細胞の中だけで増殖する。ウイルスは無生物の化学的単位であると考えられているが、生命体と捉えられる場合もある」。
 この生と死の間の揺れは、極めて重要だ。通常の言葉の意味では、ウイルスは生きても死んでもおらず、いわゆる「リヴィング・デッド」。自己増殖する活動においては生きているが、一種のゼロレベルの命であり、ウイルスは死の欲動よりもむしろ生の欲動、それも最も馬鹿げたレベルの反復と増殖をする生の欲動の生物学的な風刺なのである。しかし、ウイルスは、そこから複雑な生命が進化していくような基本となる形でもない。純粋に寄生性で、より進化した生命体に感染することで自己複製を行う(ウイルスが人に感染すると、人は単なるウイルスのコピー機と化す)。
 ウイルスの不可解さは、まさにこの正反対のもの(基本性と感染性)の一致の中にある。シェリングが「決して止揚できない残余」と呼んだもの、つまり、より高度な増殖の機構の不調の産物として現れ、それに取りつき(感染し)続ける最下位の生命という残余、あるいは、より高次の生命の従属的契機として再統合されることすらできない残余である。
 ここで我々は、ヘーゲルが「思弁的判断」と呼んだもの、最高と最低の同一性の表明に行き当たる。ヘーゲルの最もよく知られた例示「精神は骨である」は、『精神現象学』の骨相学の分析から生まれたが、我々の例示はさしずめ「精神はウイルスである」だろう。
 人の精神は一種のウイルスである。ヒト動物に寄生し、自己複製のためにそれを利用し、時にはそれを破壊するぞと脅す。そして、精神の伝達手段が言語である限り、最も基本的なレベルで、言語は何か機械的なもの、我々が学び従わなければならない規則でもあるということを忘れてはならない。
 リチャード・ドーキンスは、ミームは「心のウイルス」であるとした。ヒトの心に「コロニーを作」り、自己を増殖させる手段としてそれを使う寄生性の存在である。が、この発想の発案者は、ほかでもないレフ・トルストイである。トルストイは、ドストエフスキーほど面白い作家だとは思われていない。ドストエフスキーの実存的苦悩とは対照的に、近代においては基本的に居場所がない。救いようのない古臭いリアリズム作家だと思われている。
 しかし、おそらく、トルストイが完全に日の目を見る時が来たのだろう。彼の芸術や人一般に関する理論には、ドーキンスのミームに関する記述との類似を見ることができる。「人は感染した脳を持つヒト科の動物で、膨大な数の文化的共生生物の宿主であり、これらを可能にしているのが言語と呼ばれる共生のシステムである」というダニエル・デネットの一説は、純粋にトルストイではないか。トルストイの人類学の基本的分類は、「感染」である。ヒト対象者は受動的な空虚な培地であり、人から人へ広がる細菌に感染するように、個人から個人へと広がる感情を含んだ文化的な要素に感染する。
 ただ、トルストイはここで終わりにしており、本当の精神的な自律を、この感情の感染の拡大と対比させてはいない。感染性の細菌の排除を手段として成熟した自律的な倫理主体へと自分を教育する、大胆なビジョンを打ち出していない。唯一の闘争は、良い感染と悪い感染の間の闘争であり、キリスト教の信仰自体が、感染なのである。トルストイにとっては、良い感染なのだが。
 おそらく、これは、現在のウイルス感染拡大から我々が学びうる最も憂慮すべき教訓であろう。つまり、自然がウイルスをもって我々を攻撃している時、ある意味、我々自身のメッセージが我々に送り返されているのだ。そのメッセージとは、こうだ。「あなたたちが私にしたことを、今度は私があなたたちにしているのです」。


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