明確な悪意を飼う。


人生で初めて明確に"悪いこと"をしたのは確か高1の頃だったと思う。勿論それまでにも校則を破ったり、嫌いな男子の悪口を言ったり、親の言うことを聞かなかったり…、人並みに良くないことはしてきたと思うけど、私の中に明確な悪意が住み始めたのは間違いなくあの頃だ。高1の秋頃か。はたまた高2の秋頃か。正直定かではないが。

その人の嘘を知ったのは本当に偶然だった。地方都市は大概中心部に人は集まる。当時私の住んでいた仙台も例に漏れず、どれだけ人がいようとも、どこに人が住もうとも、日中暇な若者が集まるのは仙台駅周辺と相場は決まっていて、通学路でもあった私が放課後それを見るのは時間の問題だったように思える。

人は誰でも最初は永遠を信じる。永遠に限らず良い話、綺麗な心、ハッピーエンド…。でもそれは仕方がない。私たちはそうやって刷り込まれた幼少期を経て、少しずつ少しずつこの世界が汚れていることに気付く。そして実際、自分が体験してしまった暁には。


私は浮かれていた自分を恥じた。これが現実、これが事実。悲しんだりする暇はない。逆に何故、私が悲しまなければならない?と。

それはほんの些細なことだった。何もないことは知っている。けれど嘘は嘘で、それがどうしようもなく私は悔しかった。悲しんだら負けである。その瞬間、私はおそらくその相手に対する良心を手放したのだろう。私の中に、明確な悪意が住み始めたのだ。

私は何か酷い報いを受けた時、その何倍も酷いことをしてやろうと私の中の悪意が膨大に暴れる。当然私の中にその悪意を否定する者はいない。勿論当人には分からず知らせず、あくまで自己完結する範疇で、だ。だって向こうは私がその嘘を嘘と知っていることを知らないし、私もわざわざ問い詰めたりしないし。泥沼の始まりである。思えば私の修羅道はここから始まったのかもしれない。私は鏡のような存在で、良いことをしてくれたらその何倍も良いことをするけど、酷いことをしたらその何倍も酷いことをするのだと思う。勿論公に誰かを巻き込むことはしない。誰の迷惑になってもいけない。当人にですらも。ただ、誰も知らない秘密が出来るだけ。


嘘をつくなとは言わないけれど、嘘をついていいのはそれを墓場まで持っていける賢さ、器用さ、強かさ(図太さとも言う)がある人間だけである。どんなにあり得ない偶然が起こったとしても、知られてしまった以上はついた側の責となる。それだけは私も心得ているつもりだ。生半可な馬鹿が考えなしに無計画な嘘をつくせいで、それが露見し、傷つく人間がいる。そんなことはあってはならない。バレているのにシラを切る人、良心に負けてバレてもないのに自ら暴露する類の人は、要するに頭が悪いので一緒にいて疲れるのである。

だから私は嘘に対して少々敏感なのかもしれない。笑って許せなんて言うけど、許した時点でそいつは許されると味を占めてまた何度も繰り返すだろうし、何があろうともバレてしまった時点で嘘をついた方が圧倒的に悪者になるのである。だからバレてしまった方は非を認め、謝る他ない。嘘つきのレッテルを一生貼られ、全てを失う覚悟のある奴だけが、嘘をつく道を選んで良いのだから。


話は逸れたけど、結局当時のその人は段々私が酷い人間だということに気付いて受験を隠れ蓑に別れを告げたんだと思う。私も告げられる前からこうなることは分かっていて、(今なら絶対しないけど)ゴネるのはみっともなかったし、物分かりの良い振りをしてスッと別れた。スッと3年弱の関係が終わってしまった。尤も最後の方は、親に参っていた私は隠しもせず自暴自棄になっていたように思う。それがどんなにあの人を傷つけたかは知らない。だからあの人が未だに私を酷い女として位置付けていても納得はする。今更どう思われたってもう何でもいいけど。どうせ終わってるんだから、さ。

ただやり直せたらとは思う。今から、ではない。あの時を。本当は私怨で誰かを傷つけたくはなかったのだ。一度でも明確な悪意を心に飼ったら、きっと一生そいつと共存していくことになるから。修羅道なんて、簡単に堕ちるものじゃないよ。

幸いその後はそういう人に会うことは殆どなかったけど、このミラースタンスは変わってないし、私の中のいつ目覚めるとも知れぬ悪意もまだ浅い呼吸で眠っているままだ。

永遠やハッピーエンドの存在する世界線に生まれてくることが出来たら良かった。この世界が汚れているなんて、私は知りたくもなかったのだから。


気ままにどうぞよろしくお願い致します。 本や思考に溶けますが。