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我が内なる暴力主義を思う

暴力に対してほとんど脊髄反射的にそれを憎悪するほど反暴力への志向と思想が日本人に根付いているのであれば、それは賀ぐべきことかもしれない。だが私はその優等生的な「すべての暴力に反対する」とためらいなく主張できる人々の反応に、「暴力には屈しない」と宣言する政党人の発言に対するのと同じような違和感や、未来の世界への心配を覚える。果たして暴力を憎悪する人間たちは、暴力の本質を理解しているのであろうか、と。

私自身は暴力をどう思っているのであろうか。自分でもよく分からないところが正直あるが、テレビの「必殺」シリーズで、法律で裁けない悪人どもが仕事人たちによってことごとく殺害され葬られていくことに喝采する自分の感情や、戦争ものの映画で英雄的に主人公たちの暴力が描かれることに抵抗なく感情移入できたりする自分がいることを認めるだけの自省心はあると思っている。だが、「すべての暴力に反対する」とためらいなく宣言できる正義の人々は、自分の心の中の暴力性にきちんと向き合っているのであろうか? 「暴力は絶対に許せない」とテレビの前で正義漢的にいきり立って見せる人々は、許せないならどうやってこの事態に対応するべきだと思っているのであろうか? 結局裁判にかけて死刑にすれば「許せない」気持ちは治るのであろうか? だが死刑とは合法的な暴力ではないのか? まったく自分を疑わずに「許せない」という言葉を発することができる人の心に私は恐怖を覚える。

さらに、「暴力」に「民主主義」を対置させて語る向きも多いが、果たして民主主義政治は暴力を否定しているのであろうか? 民主主義体制のもとで警察も機動隊も存在するし、軍隊だって存在する。これらが民主主義体制下における暴力装置であるということを理解しているのであろうか? 多数決の原理を民主主義をだと思っている人も多いが、多数決は少数者を排除する暴力を前提としていることについてはどう思っているのであろうか? こうした民主主義を語る文脈で暴力を否定する言辞はニュースなどを見ていても非常に多いが、彼らが否定している暴力とは、民衆による力の行使のことしか言っておらず、政府による組織的でより大きな暴力の行使については、口を噤んで語ろうとしない。

暴力は拳銃のトリガーを引くことや棍棒や拳を振るうことだけだと思っていないだろうか? 例えば政権による弱者を無視した政策は暴力ではないのだろうか? お金をばら撒いて人を自分の支配下に置くような行為は暴力ではないのだろうか? 歴史問題を封印したり、過去の明らかな国家次元での間違いを間違いとして認めず、そうした歴史発言に政治が圧力をかけることは暴力ではないのか? 機動隊をはじめとして、民衆に向けられる警察力は暴力ではないのだろうか? 我々はすでに日常的な政権の振るう(振るうかも知れない)暴力によって日々痛めつけられていないつもりなのだろうか? 我々の自由な行動は潜在的に振るわれる可能性のある警察力などによってすでに抑圧されていないと言えるのだろうか? 現に政権与党の街頭演説にヤジを飛ばした人間を現場から排除することが平気で行われているが、これは暴力ではないのか? 政府による暴力を選択的に「暴力」と認定しない人々は、そうした暴力の行使が合法的な手続きを経ていることをもって、暴力ではないとでも言い募るのだろうか? 警察や軍隊とは振り上げられた拳なのだ。振り上げられている時点でそれは暴力であるとは思えないのであろうか? どうして振り下ろされた拳にだけ注意が向くのであろうか?

自分は合法的であるか非合法であるかという手続き上の問題や、誰が力を振るう側なのか、などという暴力主体によって暴力の本質は異ならないという考えだ。「合法なら暴力でない」などと言えるのであれば、いかなる戦争も非合法でない限りにおいて、暴力でないことになる。そもそも国家を超える法律の枠組みが機能していないのであるから、国家の行なう行為はすべて「非合法ではない」。あえて「合法だ」とは言わなかったが、こうした一連の明らかな暴力行為が「非合法ではない」範囲の行為なのだ。だが合法非合法は暴力の本質と関係がない。

暴力の本質は、立場やそれが行使される手続きや法律と関係がなく、あらゆる人間の行動を抑圧し、表現や行動の自由を制限する場面に存在し得る。

ひるがえって安倍晋三が政権を執っていた頃の彼の行動は、すべて「合法である」がゆえに受容すべきなのであろうか? あるいは司法によって裁かれなければ許容されるべきなのであろうか? 私は断じてそうは思わない。検察が起訴しなければどんな犯罪でも有罪にできず、したがって裁くことができない範囲で守られる。平等であるべき法の適用外に置かれ、そのような立場に君臨することが暴力的でないと言えるのであろうか。我々の多くは目の前に可視化された暴力にしか反応もしなければ語りもしない。政権が行なう明らかな暴力や非合法的行為も、権力者であるがゆえに許されてきていること自体が極めて暴力的な状況である。一体、現与党による政権によってどれだけの人が傷付られ死に追いやられてきたであろうか? あるいはこれから死に追いやられることになるであろうか?

ならば法で裁けない人を私怨で私刑することを許すのか、と問われることになるだろう。私はその問いに対して、「それが良いことなのか悪いことなのか分からない」と今は答えるだろう。こうした暴力を合法的に揮える立場にいる人を合法的に止められないのであれば、それを別の暴力によって止めることによって、被害の広がりは食い止められたのかもしれない。人質をとって立て籠もる犯人を、被害者が出る前に射殺することは正当防衛として許されることを知っている人は多いと思うが、国民を危険な場所に追いやる危険な人物が政権のトップにいるとき、それを殺すことは正当防衛でない、と断定できるのであろうか? どのような場面でも暴力は否定されるべきだと絶対に言い得るのであろうか?

これは問題提起に過ぎない。これをもってenteeは暴力主義者であるとか、反民主主義者であるとか、そのようなレッテル貼をしても何にもならない。一人一人が自分の内的な暴力性に対峙し、それを言語化して、よりよく理解すること以外に、これ以上の暴力の連鎖を止める方法があるとは思えないから、あえて「すべての暴力とは悪いことなのか?」と問題提起しているに過ぎないのだ。

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