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新型コロナワクチンについて(続)

昨日のワクチンについての続編(補足)。ワクチンは自分のためだけでなく、他人のためでもあるという理屈は理解できる。集団免疫の達成は皆で参加しなければ困難だからだ(つまりワクチン推進派は半ば強制的接種を前提とする)。しかし「他人のため」という口実はこの件について本質を理解することを難しくする。たとえそれが「他人のため」であったとしても、それは結局巡り巡って自分自身のためでもあるから、「他人からの協力」や「他人への協力」が前提となっているわけである。つまり一斉に実行し効果獲得を達成することで、自分や他人を助けることになる、ということに過ぎず、その理想は自分を除いた他者救済ではなく、自分を含む人類の生存である。したがって、ここでは「他人のため」という理屈は現状へのバイアスなき把握の阻害となるため、一旦排除する必要があると考える。

今の世界では、ワクチンを打ってでも生きていきたい人々[グループA]と、未知なところのあるワクチンを打つくらいならその病気に罹かるかもしれないリスクをとった方がいいという人々[グループB]が想定されている。言い換えると、グループAは、ワクチンによって生じるリスクも他人に押し付けざるを得ない(協力を要請せざるを得ない)グループであるとも言える。グループBは、疾病自体からの生命のリスクは自分で引き受けるが、全員が疾病からのリスクを等しく負うべきだという考えであるとも言い換えられよう。

この2つのグループは、それぞれ、他方のグループに対して、同じくらいの「迷惑を掛ける」関係にあると言えるかもしれないが、掛ける迷惑の種類は異なるのではないだろうか。グループAは、グループBを、他人の健康を顧慮しないエゴイストであると評するが、ワクチン(という人工物)によるリスクを他人に押し付けてでも生きていきたいという欲望はエゴと呼ぶに値しないのだろうか?

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その病気に罹って死んでもいいという人々は、その病気で死にたくない人々にも病死のリスクとともに自分の価値観を押し付けていることになる「かも」しれないが、ここで着目すべきは、グループBが疾病(ウイルス)を人間界にもたらしたわけではないという事実だ。ワクチンは人が人類にもたらすものだが、疾病(ウイルス)は自然が人類にもたらすものだ。つまり、ワクチン推進派のグループAは、人為によって人を死に至らしめる可能性があるが、ワクチン忌避のグループBは、グループAに対して積極的に死に至らしめるわけではない。グループAもグループBも等しくこの疾病によって死ぬリスクがあるが、それはグループBがAを殺すことを意味するわけではなく、ウイルスが人を殺すのである。(もし仮に誰かがウイルスとの戦いに敗れ死ぬとしても、それは人が殺したわけではない。)

こうした2つの相反する権利を主張するグループが同じ地球上に存在しようとする時、少なくとも、自然状態において、どちらがどちらに対して「強制力」を主張すべきなのだろうか? 自分の考えは、自然を制御できるという人類の驕った考えに基づいて作られた人工物によって、別のリスクを人類全体に及ぼすという賭けに出るべきではない、というものである。自分は自分が絶対に正しいと言い募るつもりはないが、この2つのグループの一方だけが正義であり、他方が不正義であるとか、どちらが一方だけがエゴイスティックであるとか、そう容易には決めつけられないことを理解してもらいたいのである。

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