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今さらながら、マーラー8番を知る

正直に書こう。すごいとは思うけど、あまり聴きたい欲求を覚えないマーラーの交響曲は、長いこと第8番(だった)。楽曲の持っている(持たされている)意味や役割は非常に重要で、このピースがマーラーサイクルの「この場所」を埋めなければならないのは分かる。だが、音楽として理解しようと思うと、音や声が飽和し過ぎていて、なかなか曲が構造として見えてこない。たまに思うのは、この曲って、マーラーの頭の中で鳴った音がこの世界で未だかつて具現化していないんじゃないか、と思えてくることさえあった。何か管弦楽や人声を超えたこの世ならぬ何かを以てしか、これを音楽として完成できないんじゃないか・・・などと思えてきたものだった。

第8番は、古いものを中心にこれまでわずかながらであるがいくつかの盤を聴いてきた。が、特に初期の頃はショルティ+シカゴ響(CSO)のレコードを聴いた。これは録音にあたって準備が大変で、関わる人間の数が多すぎるせいもあってか、一人の指揮者でこの曲を2度以上録音をしたというケースはほとんどないのではないだろうか(あったら教えて欲しい)。このCSOの録音の一つ気になることは、つぎはぎの箇所が聞こえてしまう(編集の傷跡がわかってしまう)こともある。ショルティは、マーラー・サイクルをロンドン響(LSO)で完成しようとして未完に終わり、2度目のサイクルをCSOで完成させた(そう自分は認識している)。第8番は、この2つの異なるサイクルの中間地点にあって、二つのサイクルを結びつけるような位置にある。マーラーを聴き始めた当初は、そもそも8番の録音は少なかったので、多くのマーラーファンにとって、この作品を聴こうとすると、ショルティ+CSOのレコードに行き着く、というのがどうしてもあったはずだ。だが、この録音は音質の面でも演奏の面でも、真に秀逸と言えたのであろうか?(もちろん私はショルティの業績を否定はしない。) 

次に私がマーラーを聴き始めた当初大変人気のあったテンシュテット+ロンドン・フィル(LPO)でこの交響曲を聴いた。ショルティ+CSOよりはオーケストラにも色彩があり、多少の分離の良さも出てきたので、この作品は悪くないかもしれないと思ったが、それでもやはり「音の過剰な飽和感」は否めず、どうしても楽しめない(あまり聴かない)盤、という憂き目を見た。

この曲を聴いていて以前よりも「快」を感じられるようになったのは、ベルティーニの録音を知った時だった。第8番に限らず、ベルティーニ+ケルン放送響(WDR)の録音の音の分離はとても素晴らしい。飽和一歩手前できちんとそれぞれの楽器、声楽が聞こえるように録られているのだ。すっきりと整理された第8番の演奏に感銘を受けた。これは日常的に聴けるようになるかもしれないと思ったのだ。

自分の狭い体験から推しはかって、飽和しがちな第8番の録音は技術が最新のものになるほど良くなるのかもしれないと一瞬思われたのであるが、それは大いに間違った認識であった。この度、バーンスタインの1960年代に録音されたボックスを聴いたLSOとの録音は、音質、分離、音楽の内容のどれをとっても極めて秀逸である。その中に件の第8番もあったのである。バーンスタインの第8番において、Boys Choirの部分は、マーラーはこれを目指していたのか!と納得できるほどの天上的な美しさであったのだ。

こうして、結局相当に古い録音に今さらながら「回帰」したことで、第8番がいよいよ自分の中で押しも押されぬ〈名曲〉の地位を占めるに至ったのである。バーンスタイン、恐るべしである。

(2023-12-29 Facebook投稿に加筆して)

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