見出し画像

暮らしの中の料理とひと休み

この文書は、5月の上旬に恵文社で行われる予定だったマルシェイベント「暮らしの中のひと休み」に寄せて、私の思う「ひと休み」について書き留めたものです。

いつかまた、みんなでイベント出来ますように。


「庄本家は、忙しいのが好きだからね」
そう、親に苦笑いされながら言われたことがある。

確かに、せわしない子どもだった。休日になるとクラスの連絡網の紙を引き出しから引っ張りだし、予定が空いてそうな友達の家に片っ端から電話をかけていた。一人でぼーっと過ごすのは苦手。社会人になってからも、固定電話がLINEに替わっただけで、性格はそのままだった。

そんな私の「ひとやすみ」っていつなんだろう?
強いて言うなら、料理がそれだったのかもしれない。
看護師の時が特にそうだ。
私にとって、多忙な勤務の後に欠かせないのは「料理の時間」だった。台所に立ち、包丁をもって野菜を切りだすと、嫌な事があっても、いつの間にか忘れてしまっていた。
家モードに切り替わるための、毎日の儀式のようなもんだったんだとも思う。

ごはんを食べている間は、じぶんで作った料理の美味しさに喜んだり、次の休みのことを考えたり、1日あったことを思い出し、自分の中で整理する時間だった。

私にとって「暮らしの中のひと休みは料理の時間」だった。
こう答えると全然休んでいない気がして、まさに「忙しいのが好きな一族」の答えっぽい。これは苦笑いするしかない。

料理を仕事にしてから数年、今回のコロナで、春の繁忙期の仕事がごっそりなくなった。
仕事はないが、そうは言ってもお腹は減る。久しぶりに料理が「自分のための料理」に戻った。

台所に立つと、まな板に置いた目の前の野菜がいつもより元気そうで、きらきらしているように見える。
どう料理してくれるの?どんな味に、形になって欲しい?と言われている気がする。こんなにゆっくり野菜を見つめたのは久しぶりかもしれない。

葉物が潰れないように包丁を引く。鍋の底まで目を落として、火の加減はどうか調節する。お湯に入れた野菜がすっと色が変わる瞬間を見逃さないように鍋の様子を見守る。

ひとつひとつ丁寧に向き合う料理は、野菜と向き合っているようで、自分が丁寧に扱われているような気持ちになる。

そんな間に、今後の不安もいつのまにか忘れている自分がいた。
この感覚は、看護師のころによく味わっていた。
私は料理に幾度となく助けられていたんだと気がついた。

料理を仕事にしてから、お客さんへの責任もあるし、量をこなすことや、時間に追われることもある。今まで思っていたよりも、肩の荷を張っていたのかもしれない。

暖かい日は、縁側に座って庭を見ながらご飯を食べることにした。
去年花がつかなかったハーデンヘルギアが次々と花を咲かせた。近所のおばあちゃんが挿し木でくれたモッコウバラが、来年こそは実をつけるんだと、どんどんツルを伸ばしている。

「そうだ、オンラインの手しごとの会をしよう。一般の方の向けのお弁当も始めたい。新月と満月に販売するのはどうだろうか…… 」
自分で作った料理に満足しながら食べていると、また、むくむくとやりたい事が浮かんできた。
やっぱり私はゆっくりしていられない人間らしい。
料理をして、食べて、また走り出せる自分がいた。

料理は自分を労る作業でもある。向き合い方によっては、手当てのような力があって、自分自身のひと休みの時間にもなりうる。
そんな料理の面白さも、伝えられるようになれたらなと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?