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転居

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2023年6月の記事一覧

転居22

 アルが上がろうとするとスリッパが差し出され、ありがたく感じ、礼を述べた、小さなオフィスで、風通しが悪いというわけでもなく、ただ小さいオフィスであるから風通しについて考えただけであるというもので、赤茶色の、来客用とペンで書かれたスリッパを履いてなんとなくの衝立のあるスペースに案内されて椅子に座る、質問をする人は、落ち着いた、でも鮮やかな印象のオレンジの服を着ていて、ほとんどの時間上半身しか見ていな

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転居21

 テレビが遠巻きに大音量で鳴っていて、次第にサスペンスドラマであることがわかる、サスペンスドラマの音だけを聴いていたら効果音がかなり多い感じがする、アルはオムライスを食べながらドラマでは炒飯の話をしている、死亡保険の話が始まった、CMだった、サスペンスドラマの間に死亡保険への加入を勧められる、これは名案かもしれない、健康を維持したり保険をかけることを勧められる、カント全集の購入を勧めるものはない、

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転居20

 犬の雲が犬の雲を追いかける群れ、月の前を過ぎる一瞬だけ輪郭が照らされる、月が黄味を帯びているのはなぜか、私は小さい私に教えてあげられるように調べた、小さい私は科学的に正しい説明を求めていたわけではないけど、いま私はそれについて問われたとき、自由に歌うこともできるし、以前と同じように言葉に詰まることもできるだろう、重要なのはその点だ、と宇宙化学者は話した、アルはお守りのように思う小説の一節を思い出

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転居19

 目を開けると雪が積もっていて線路の際に溜まった雪は、白い袋の土嚢だった、曇りの町は雪に馴染む色調だと思った、六月だった、アルは一人だったからカウンターでも構わないが、もう少し待ちますか、と店員の人に訊かれて、なんとなく遠慮して、待つことにしたが、実際その類の遠慮よりも、混雑してきたから、テーブル席には二人以上の人が座ったほうが、効率はよかった、アルは席について、向かいのテーブルで細いグラスのレモ

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転居18

 地面が大きな液体のように揺れ、傾いた角度でもとに戻らなかった、アルはもとに戻るのを待ってから立ち上がろうと揺れの途中で考え、戻らなかったために立ち上がらなかった、立ち上がらなかったために、そのまま眠った、あとから考えれば、あれは夢だった、それからしばらくすると、台風が近づいて来たらしい。これだけの水を移動させようとするなら、大変なエネルギーが必要になる、ずっと水が降ってきて、あちこちに溜まり、溢

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転居17

 いつのまにか町じゅうに紫陽花が咲いてそれはまるで眠りから目が覚めるような心地だった。死にたくないと思ったところで毎日意識は途切れ気が付けば始まっている、意識が途切れる最後どのような体勢だったかまったく思い出せない、目が覚めたそのとき最初に何を見たのかも思い出せない、紫陽花はそのように各地に咲いた、そのときのことを問うことはできなかった、みな出鱈目のことを言う、おまえの夢の話をしているのではない、

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