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転居

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2023年5月の記事一覧

転居16

 檻の中に生きる動物は、雨を見ていながら、雨に濡れることはできなかった、場合によっては、死ぬまで雨に濡れることができなかった、アルは雨を避け、コップの内側以外、外側、が濡れていることを気にし、テーブルが濡れていることを気にしている、手の一部が湿っていることを気にしている、植物が濡れているのも生々しい、早く髪の毛を伸ばしたいのだ、アルの住む家は小さな虫ならいつでも入れるようになっている、でも家はあま

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転居15

 学者に対面してなんとなく一突きで崩れ落ちそうなしかしなにかぬめぬめとして全体的にはやはり土くれのように坐している、それに硝子の巨大な重箱が覆いかぶさっているのかもしれない、大きすぎるために実態はよくわからないしかしその硝子の向こう側に傘を差した人間のようなものが横切っていくのに学者ともう一つのその体は傘を差していないのに皮膚は濡れて見えないからこの硝子は箱型であると考えるのが妥当だ、視覚的に見え

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転居14

 ちょうど七つ鐘が打つのを順当に予測しながら数えて左斜め後ろに位置する人間が手かなにかに吹き掛けたアルコールの匂いの粒を嗅ぎながら珈琲を飲む前から縁取られていた胃に珈琲を飲んでもう一層胃の内側から縁取りを確かにした珈琲は数日後から値上がりするということだ、詩人が綴った日記に記録された喫茶店は、冷たくべたついた石のiPhoneの中の Google mapsの検索によると既に存在しない、数冊の本にその

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転居13

 羽虫たちは夕立のある一粒に一撃で落とされるか、自ら脱ぐことのできない衣の重さに突っ伏した。雷の休まる隙にいちいち聴こえてくる子供らしい声は、雷が適当な場所に落ちる瞬間、何に守られていただろうか。淡いブルーのシャツを着たフォーク・デュオの歌は聴き終わるといつもなにか重い気分になった。アルは足の裏が冷たく汗をかいていくのを感じながら、パックの白米をレンジにかけて隣人が鼻をかむ音を聞き、そのあとベラン

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転居12

 アルは蝿が飛び交っていた星のようだった日の話を聴いてその光景を日に何度も自動的に描いては忘れることを繰り返していたらその十回目くらいにひと昔前に書かれたラテンアメリカ小説のなかで流れ星の降り続く夜空を見上げて、こんな夜には静かに闇を眺めたかったのに、というようなことを独りごちていた登場人物のことを思った、メキシコの猛烈に冷えて乾いた砂を呑み込もうとするようにぱっくりと開いた夜の空には流れ星が好ん

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転居11

 新しい家が左に追加されていく空き地の横を通る、アルがこの町に来る前にすでに壊されていた建造物、壊したことで開けた土の地面をもう一度コンクリートで固めてその上に細長く白く四角い家が左に追加されていく、家は随分前からあったのであろう歩道からその歩道と同じ幅くらいのレンガ風のタイルの新しそうな道を挟んで建っていてそこだけ道が広くなるから人はなんとなく縦に引き締めていた体を少しだけ緩める。今日の土は昨日

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転居10

 敬語で話していると折り紙の白をなにかしらの規則に従って折り目を付けていくようにせらせら文字の音が出ていって舌触りが癖になって質問や応答の範囲からはぐれてひとりでに喋り続けてしまいそうになって、強く均衡を保つことにする。敬語の音を聞きながら頷いているときもそうだ、音を意味としてイメージに置き換えたりしながら再構成している担当は監視の目が緩まる隙に悠長に職場を抜け出していつの間にか生成りのTシャツと

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転居9

 電車で一つ席が空いていたら、両側に座る人が、いまどんな気分で、なにを感じているかということを、想像しないままそこに収まる、その人の顔を、はっきり見ることもない、匂いは少ししている、アルの世界に他人が現れてから、誰一人として、アルとまったく同じように見たり、聞いたり、匂ったり、している存在はいないということを、少しずつ感じてみようとした、酒を飲んで、体のコントロールが弱くなって、そのとき初めて、毎

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転居8

 太陽の明るさのさなかに顔を置くと皮膚の緑色に見える部分金色に見える部分白色に見える部分がありそれぞれで瞬間が持続する場所にその通りに色の粉を載せようとするこれは化粧で、なんらかの像に近づくということではなく、地形に合わせて葉を茂らせるようで、体の輪郭が土と植物に少し溶け込む。小川のなかにも緑色や金色や白色や茶色があり日々異なる色がある、鯉と鴨はしばし休んでは移動し枯れた葉は数メートル先の岩へ花び

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転居7

 スクランブルエッグのような花が大量に咲く木の間にベルベットのピアノカヴァーのようなバラが二つ頭を出しているこの植え込みは人の庭で狭い土にスクランブルエッグの木を植えてバラを植えたとき記号的に花が咲くことを想像していたが実際ここまで育つということはすべての細部は常にすでに作られている。アルは一日小説を読んでそのあと家の外に出ると細部まで完璧に作り込みがありすべての隙間が埋められてなんと生々しいこと

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