王平伝 5-2

 相変わらず、漢中には人が増え続けていた。

 十二年前、蜀が漢中を奪り、秦嶺山脈以南を版図に組み入れたばかりの頃は、ここにいた住民の大半が曹操によって北へと連れ去られたため、主を失った家だけが寂しく立ち並ぶ寒村になり果てていた。

 そこに蜀の兵が大量に入り、その兵を相手にしようという商人が方々からやってきた。諸葛亮の、漢中での税は安くするという政策が効いたのか、漢中の人口は定軍山の戦い以前のそれより増えてきているようだった。

 特に、飯屋と妓楼が増えていた。休日の兵は旨いものを食いたがり、女を抱きたがる。自然なことだった。しかしあまりに商人が増え過ぎたのか、今では漢中で店を持とうとしても、国からの許可が下り難くなっている。国とはつまり、諸葛亮のことだ。

 また、税も昔の値に戻された。店を出し難くなり税の値も上がったということで、闇の飯屋や妓楼が増えるのではないかと思っていたが、そうでもなかった。わざわざ隠れてやっている小さな店に行かずとも、良い店はたくさんある。そして闇の妓楼はすぐに摘発された。闇の妓楼は他国の忍びの格好の隠れ家になるからすぐに潰さなければならないと、その役目にある句扶が言っていた。

 黄襲の飯屋は繁盛していた。男を五人雇い、厨房で働かせた。五人はいずれも軍人であった頃からの知り人で、戦に耐えられない体になった者達だ。女も五人雇い、そちらは妻の指示で注文を取ってきたり卓を片付けたりしている。

 他に立ち並ぶ飯屋に客を取られないよう、他店が何をやっているかを常に調査し、店で働く者が仕事に倦まずに力を出させるにはどうすれば良いかを考えた。忙しい時に働けば銭をはずんだ。それで働き手は目まぐるしい程に客がやってきても喜々として働くのだ。

 形は違えど、戦のようなものだ、と黄襲は思っていた。

 厨房の中は客が座る卓からよく見え、黄襲はそこで調理をした。野戦の中でやるような、豪快な料理である。一両日かけて丸焼きにした子豚か子羊を、常に厨房内の天井から吊るしている。吊るしたままの肉を切り分け、様々な香草をまぶして調理する。店の常連客の中には、どの香草をどれだけ使ってくれと言ってくる者もいる。客とのそういったやり取りも、黄襲にとって楽しいものであった。

 しかし、問題もあった。

 王平の子である王訓を、句扶の頼みで預かっていた。父である王平とは生まれた時から離れて暮らし、育ての親であった叔父が目の前で首を落とされたのだという。心に大きな傷を負った少年であった。

 一度だけ挨拶に来た王平の額には、大きな傷跡ができていた。父が来たぞと王訓を呼んだが、王訓は部屋の奥に籠り出てこようとはしなかった。籠城中だと冗談を言ってみたが、王平は愛想混じりに一つ苦笑を漏らしただけだった。

 血の繋がりがあるだけに、難しいものがあるのだろう。軍人と軍人なら、張り飛ばせばいいだけのことなのだ。それ以上、王平は自分の息子に会おうとはしなかった。

 厨房内で皿洗いをさせた王訓は、ただ従順に働いていた。皿を洗い終わって手持ち無沙汰になると、何か他にやることはないかとよく聞きにきた。飯屋の店主としてそれは有難いことだったが、妻はそんな王訓を見て、これからずっと一人で生きていくつもりなのではないかと言って心配していた。

 ある日、王訓が休みの日に川に釣りへと出かけて行った。魚の棲家がどこにあるのか見分けるのは簡単だと、得意気に言っていた。自分にしかできない仕事がしたいのだろう。そう思った黄襲は、魚の餌となる穀物の玉を何個か作ってやった。

 しかし、帰ってきた王訓は、顔を腫らしていた。魚籠の中には、一匹の魚も入っていなかった。どうしたのかと聞いても、王訓は何も答えず自分の部屋に戻ったまま出てこようともしない。後で妻が話を聞きに行くと、その川を遊び場としていた子供達に殴られ、釣った魚も全て取られてしまったのだという。よく考えてみれば、まだ王訓には友と呼べる者がいない。

 何かしてやらなければいけないと思った。王平から預かっている、大切な子なのだ。しかし店の仕込みや接客に忙しく、してやれることはどうしても限られてしまう。

 王訓はそれ以来、店の手伝いはするが、ほとんど外に出なくなった。

「どうするべきかな」

 黄襲は閉店後の厨房で、明日の仕込みをしながら呟いた。働き手は、もう全員帰してある。

 一人になると、黄襲は王訓のことを考えた。自分には、子がいない。それだけに王訓には親のような感情が湧くことがあるが、子がいないだけにどうすればいいのか分からないということも多々あった。それは、妻も同じく感じていることであろう。

 不意に店の戸が開かれた。もう五十になろうかという風体の男が入ってきた。この店の常連の一人であった。

「あら、もう終わってしまいましたかな」

 半開きにした扉から体を半分出しながら、その男は言った。

「構いませんよ。どうぞお入りください」

 いつもなら追い返すところだが、常連ということもありその男を中に招き入れた。一人で鬱々と思い悩んでいるより、同年代のこの男に世間話の相手でもしてもらうのがいいかもしれない。

「よかった、腹が減っていたのだ。今日は商談が長引いてしまってな」

 黄襲は肉を切り取り終えた子豚の骨を煮込んだ汁に穀物の玉を三つ浮かべたものと、余ったかす肉と野菜を煮たものを少し皿に盛って出してやった。自分と同じくらいの年なら、これくらいのものが喜ばれるだろう。

「うまい。私は、ここで出すこの汁が好きなのだ」

 初老の男は、汁を旨そうに啜りながら言った。そう言われて、悪い気はしない。

「よくここに来て下さっていますよね」

「おお、わしのことを憶えてくれているのか。嬉しいな」

 喜んだ男は、酒もくれと言った。一緒にどうだと誘ってきたので、黄襲も酒とともに卓についた。身なりは派手ではないが、金には頓着していないようなので、漢中でそこそこの商いをしているのだろう。

「先程、商談が長引いたと仰ってましたね。商いは、何をしておいでなのですか」

 黄襲は酒の入った椀に口を付けながら言った。

「北から、色々なものを。今は肉が多いな。北で育つ羊の肉は脂が乗って旨いということで、南に行けば良い値で売れる」

 北の羊の肉は、黄襲も欲しいと思っていたところだった。今年の初めに蜀軍が武都と陰平を攻略したことで、北の物産が漢中によく入るようになってきていた。

「成都では物が不足していると聞きます。あそこまで行けば、かなりの利を上げることができるのではないですか」

「そこまで行きたいところなんだが、わしももう若くなくてな。商いは漢中までということにしているのだ。しかし、やはり競争相手は多い。今日の商談も、他の商人との値の張り合いで長引いてしまった」

 漢中から利を求めて南へ下る商人も少なくない。それは蜀にとって決して小さなことではない、と黄襲は思っていた。

「良ければ、ここにも少し肉を売ってもらえませんでしょうか。そこまで多く買うことはできないのですが」

「わしから肉を買ってくれるのか。それは有難い。実はそんな話がないかと思ってこの店には通っていたのだ。おっと、わしの下心を悪く思わないでくれ。わしはここの料理が好きなのだ。この兵糧に模した穀物の玉は、実に面白い。こんな店と取引をしたいと思っていたのだ。しかしもう、しっかりとした取引先があるのではないかと思って言い出せなかった」

「私はついこの間まで軍人をしていまして、兵糧の担当をしていたのです。今の取引先は、その時の伝手です。北からの仕入れもしたいと思っていたところなのです」

「なるほど、私は運がいい。この汁に入っている香草は南で採れるものでしょう。何でこういうものが漢中にと思っていたんだが、これで合点がいった。安くしておきますぞ。ここでわしの仕入れた肉が料理されると思うと、商人冥利に尽きる」

 黄襲は褒めちぎられて苦笑した。

 その時、階上から誰かが下りてきた。不意に、初老の男が鋭い視線をそちらにやった。思わず黄襲は、後ろを振り返った。

「何か、手伝いましょうか」

 王訓だった。

「いや、わし一人で大丈夫だ」

 そう言うと王訓は頷き、自分の部屋へと戻っていった。体を正面に向けると、さっきと変わらぬ初老の男が旨そうに酒を舐めていた。

 気のせいか。そう思い直し、黄襲も酒を口に運んだ。

 酒を飲み終わった初老の男は、卓に銭を置いて帰って行った。

 黄襲は厨房に戻った。火にかけていた骨の入った鍋が、いい感じに煮立っている。その味見をして、幾つかの香草を掴んでその中に入れた。

 良い肉を仕入れることができる。そうすれば、この汁は格段に旨くなるはずだ。

 昔から料理に熱中していると、嫌なことを忘れることができた。黄襲の頭の中は、羊の肉のことだけで一杯だった。

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