王平伝 9-1

 煩わしいほど威勢良く馬群が地を鳴らして駆け回っていた。木の棒を持たせた騎馬隊を二つに分け、それぞれを馬岱と姜維に指揮させた模擬戦である。楊儀は少し離れた櫓の上からそれを眺めていた。

 成都に帰った楊儀に与えられた役職は、蜀軍本隊第二軍の軍師だった。第二軍は蜀の北方に異変があった際に駆けつける役目を負った二万の軍で、武具や兵糧に関する軍政は軍団長である鄧芝がやり、兵の調練は実戦指揮官である馬岱と姜維がやる。戦で策を建てるのが軍師の仕事だが、魏との戦が終わったばかりで北に戦があるはずもなく、楊儀は時を持て余していた。

 成都に戻れば政権の中枢に入り込めると思っていたが、与えられたのはこの閑職だった。実戦経験がある楊儀に期待する帝の意向があるからだと聞かされたが、その実はどうも蔣琬が自分のことを遠ざけているようだった。北の地で戦っている時に、蔣琬とその一派は政権の中枢をがっちりと固めていた。戦で功を立てれば高官になれるのだとばかり思っていた自分の考えが甘かったのだ。

 姜維が馬を駆けさせてくるのが見えたので、楊儀は櫓を下りた。

「騎馬隊の調練を終えました」

「よろしい。兵舎に戻れ」

 形式的に命じると、姜維は一礼して駆け去った。

 姜維は、北の戦線で魏軍と対峙している時、羌族との交渉に当たっていた。姜維は羌族だからということで期待されていたが何の成果も出さず、真面目なばかりで良い仕事のできない男だというのが楊儀の評価だった。あの戦で羌族の軍を動かすことができていれば、蜀軍が負けることはなかった。

 騎馬隊を率いた馬岱が調練場から撤収していく。魏延を逃がそうとした信用ならない男だった。それに同じ軍に属しているというのに、自分に対して妙によそよそしい。いざ戦となった時にきちんと命令を遂行させるため、一度痛い目を見せておいた方がいいかもしれない。

 調練が終わり、楊儀は厠に向かった。

 年齢はもう五十を越えていた。軍に何人かいる参謀の一人で終わりたくはなかった。大きな戦争で決して小さくない功を立てたのだ。狙おうと思えば、この国の宰相になることも不可能ではない。

 厠へ歩いていると、費禕が囲碁の卓を挟んで来敏に何かを言っていた。費禕の様子は何やら穏当でなく、白鬚を蓄えた来敏が宥めるようにしてそれを聞いている。それを横目で見ながら楊儀は厠に入った。

 人事を握る蔣琬を動かさないことには始まらなかった。宦官の黄皓から呼びかけられ、命令違反を犯した蔣斌を弾劾することで蔣琬を責め、人事の取引をしようと試みたが、蔣琬はあっさりと息子である蔣斌を放逐した。それはあまりに不義理ではないかということで蔣琬を責めようとしたが、周りからは公正で良いという声が大きく上がった。だがそれはどうも、蔣琬が蚩尤軍に流言を撒かせて公正だという論調に持っていったという気配があった。黄皓がさらに協力を求めてきたが、楊儀は蚩尤軍を敵に回したくなかったので断った。

 糞をして、傍らに置かれている縄で尻を擦って厠を出た。

 費禕がまだ来敏に向かって何か言っていた。珍しい光景だった。戦を経験する前の費禕なら、気の強い来敏にこうも何かを言い建てることはなかったはずだ。

「いい加減にしろ」

 黙って聞いていた来敏が大声を出して囲碁の卓をひっくり返した。楊儀はさすがに放っておけず、そちらに走った。

「どうされましたか」

「何でもない。大きな声を出して驚かせてしまったようじゃな」

「それは驚きます。兵も見ていることですし、ここは穏便に」

「もう言わんよ。ただこの若造があまりにしつこかったものでな」

「何を言っていたのだ、費禕」

「いや、気になさらないでください。少し言葉が過ぎました」

 費禕は、これ以上は言わないという風に踵を返し、肩を落として歩いて行った。

「大きな戦をしてきたからといって調子に乗ってもらっては困る。おっと、これは楊儀殿に言っているのではないぞ」

 そう言い、来敏もそこから去った。費禕の従者が足元に散らかった碁石を片付けていて、楊儀も膝をついて手伝った。

「あっ、私がやりますので」

「構わんよ。それより、あの二人は何を言い合っていたのだ」

 聞かれて、費禕の従者は言い淀んだ。

「同じ軍の仲間のことなのだ。何か問題があるのなら私も知っておいた方がいい。お前が言ったことは黙っておいてやるから、聞かせてみろ」

 従者は首を左右にして周りを気にし、小声で答えた。

「どうやら、今の地位に不満があるようで」

「やはりそうか。よく教えてくれた」

 楊儀は従者にわずかな銭を握らせた。

 費禕は第一軍の軍師に任命されていた。費禕も自分と同じように今の職に納得できず、蔣琬に近しい来敏に不満をぶつけていたのだろう。第一軍は成都周辺の返事に備えるための軍であり、戦があるとすれば相手は烏合の衆である山賊で、小難しい策略が必要になるわけではない。この軍の軍師も閑職なのだ。蔣琬と費禕は近いと思っていたが、長く離れた場所で働いていたことでその仲に亀裂が入っているのだろうか。

 楊儀は費禕の後を追った。

 戦場での費禕は何かと意見してきて、馬岱のように煙たがられていると思っていたが、利害が一致するのなら手を組めるかもしれない。

「どうされました、楊儀殿」

 楊儀に気付いた費禕が驚いた顔をして振り向いた。

「どうされましたではないだろう。あのような言い合いをしておいて、無視はできまい」

「つまらないことです。お忘れください」

「つまらないことであそこまで感情的になるとは思わん。当ててやろう。今の役職では不満なのであろう」

「そのようなことではありません」

「嘘を言うな、費禕。見ていればわかるぞ。私もお前と同じ待遇を受けているのだからな」

 楊儀は言葉を選んで言った。費禕の目が、じっとこちらを見つめてきた。

「それは、楊儀殿も不満を持っているということですか」

 楊儀も見つめ返し、考えた。費禕の従者が、費禕には不満があるとはっきり言っていた。ここは誤魔化さず、素直に肯定すべきだと楊儀は判断した。

「十万に近い軍の兵糧を差配したのだ。第二軍の軍師ではなく違う所で力を発揮したいという思いはある」

 費禕の口元が一瞬にやりとしたのを、楊儀ははっきりと見た。

「私も同感です。楊儀殿とは意見の違いはありましたが、能力に疑いを持ったことはありません。楊儀殿は別の仕事をするべきです」

「それは嬉しいことを言ってくれる」

 利害の一致を確認した。費禕は間違いなくそう思ったはずだ。ここからは、どこまで手を結べるかだ。

「楊儀殿、私は」

「待て、ここではまずい。どこに蔣琬の耳目があるかわからんからな。話があるのなら、私の屋敷で聞こう」

 ここでの不穏な会話は控えておいた方がいい。蔣琬は元々、郤正という句扶の選んだ忍びを宮中で使っていた。蚩尤軍が戦場から戻ったため、蔣琬の使っている忍びは強化されたと考えるべきだった。

 成都の街が寝静まった頃に費禕は屋敷にやって来た。楊儀は密かに招き入れ、費禕が持参してきた酒を互いの杯に注いだ。

「私は、つまらないことで腹を立てているのかもしれません」

 酒に口をつけながら費禕は言った。

 言葉だけ聞けば遠慮しているようだが、ただ慎重になっているだけにも見える。その態度に苛つきはしなかった。手を結ぶ相手なら、慎重すぎる程に慎重な者がいい。

「北の戦でお前はよく働いた。それなのにそれ相応の報酬がなければ怒るのは当然のことだ。そしてこの乏しい報酬は、周囲の者も見ている。よく働いても充分なものが貰えなければ、下々の者らはどうして力を奮って働くことがあろうか」

 費禕が膝を一つ叩いた。

「それです、楊儀殿。私は、私に与えられた報酬が少ないから腹を立てているのではありません。楊儀殿の言う通り、これは様々な者が見ているのです。これが原因で皆の働く意欲が削がれるのであれば、蜀軍の衰退にも繋がりかねません」

 楊儀は憤る費禕の言葉に大いに頷いた。そして内心、楊儀を嘲笑った。費禕はあくまで自分への報酬が少ないから腹を立てているのだ。それなのに周りのためにならないなどと言い、己の欲深さを隠そうとしている。全く浅ましい知恵ではないか。しかしこの浅ましさは、上手く扱えば利用できる。

「蔣琬殿はまだ若い。若いからこその誤りはあるのだろう。その誤りを正すのは私のような歳を重ねた者の役目だ。声を上げねばなるまい」

 こう言えば悪い感情を持たれないだろうという喋り方は、長い人生の中で身に着けている。考えずともこういう当り障りのない言葉は自然と口から出てくる。

「楊儀殿は蔣斌の命令違反のことで、蔣琬のことを責めておられましたな」

 楊儀が飲み干した杯に、費禕が注ぎ足しながら言った。

「李厳殿は平民に落とされたのだ。蔣斌が特別に許されたとなれば、それは不公平であろう。蔣琬殿が自分の息子をあっさりと平民に落とされたのは意外であったが」

「平民には落とさない、と読んでおられましたか」

 楊儀はその言葉に不穏なものを感じ、杯を口に運びながら考えた。蔣琬が蔣斌に罰を与えないことを前提で蔣琬を攻撃したのか、と聞かれているのか。もし蔣琬が息子の蔣斌を罰しなかった場合は、次にどういう手を打つつもりだったのかと。費禕もこちらのことを探っているのかもしれない。

「黄皓が、その点を取り上げて質すべきだと言ってきたのだ。黄皓は蔣琬殿と険悪で、なかなか自分から言い出し難いらしい」

 こういう時は、誰かのせいにしておけばいい。

「ほう、黄皓がそのようなことを」

「言われるがままになったわけではない。賛同できるところがあったからこそ、それに乗ったのだ。宦官の考えることなど卑しいものだが、黄皓はよく働くということで陛下から信頼されているようだしな」

「陛下の御意志を代弁しているのならば、黄皓の言葉でも無視すべきでないと思いますよ」

 費禕の目が座ってきた。かなり強い酒を持ってきたようで、楊儀も腹の底から酔いを感じ始めていた。これ以上飲むのは危険かもしれない。

「平民に落とされた李厳殿は何をやっているのでしょうな」

「成都の郊外で、李平と名を変えひっそりと暮らしているらしい。黄皓との書簡のやり取りがあると聞いている」

 余計なことまで言っている。そう感じた楊儀は、口につけた杯を置いた。

「私は酔ってきたようだ」

「酔いましょう、楊儀殿。もう戦は終わったのですから。酔って腹を割ることで、私は楊儀殿の信を得たいのです」

 酔いを警戒していたが、費禕のその言葉で、酔ってもいいかという気になってきた。自分の屋敷で互いに酔っているのなら、何も問題ないだろう。

「李厳殿は、戦に向かない男だった。戦のない治世であれば、必ず良い仕事をされたであろう」

「私もそう思います。現に、魏との戦が始める前までは、李厳殿は任された領地をしっかりと治めておられました」

「李厳殿は許されるべきだ、と黄皓は言っていた。その準備もしているのだと。蜀国には人材が少ないから、私はそれに賛成している」

 黄皓が宮中を、李厳が政治を、楊儀が軍事を握れば、蔣琬を追い落とすことは難しくない。そこに費禕が加わってくるとなればかなり有利になる。

「この国に人物が少ないのは確かです。しかしどうやって李厳殿を復帰させるのですか」

「文字通り、許すのだ。陛下の権威を背景に、許す」

「それは、大赦ですか」

 さすがに費禕は色をなして言った。一人の宦官が帝の権威を利用するというのなら、それは容易に許されるべきことではないと思っているのだろう。

「これ以上のことは私の口からは言えん。あくまで黄皓がそう考えているかもしれない、という程度の話だ。宮中のことに関しては、私はよくわからんからな」

 自分が言い出したのでなく、これは黄皓の意志なのだと、楊儀は繰り返して言った。費禕はそれを難しい顔で聞いていた。酔っているからこそ、考えていることがそのまま顔に出ていた。大赦のことについては、自ら触れずに黄皓に任せておいた方が良さそうだ。

「難しい話はこれまでにしておこう、費禕。今日は共に酔いに来たのだろう。これから料理を出させる。女も呼ぼうではないか」

 酔ってぼろを出すわけにはいかず、楊儀はその話を切り上げた。費禕も同じことを考えたのか、それ以上は聞いてこなかった。

 費禕は蔣琬に近いと思っていたが、自らこちら側に転んできた。それだけ蔣琬には不満があったということなのだろう。蔣琬派である来敏とも口論をしていた。今後はこの亀裂が大きなものになるよう画策してやればいい。

 料理が運ばれてきた。費禕と貪り食ったそれが、妙に美味いものに感じられた。

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