王平伝 6-14

 国中の兵糧が、漢中に集まり続けていた。その量は膨大なもので、漢中の大兵站基地である漢城の倉が見る見る内に満ちていった。

 張郃を討ち取った前の戦から、三年が経ったのだ。その間に蜀国内で生産されたもののほとんどが集まってきているのだ。

「多いな。これではまた民から不満が出るのではないか」

 兵糧庫の視察を共にしていた劉敏に、王平は言った。

「危惧するのではなく、よく耐え力を振り絞ったと、民を褒めるべきでしょう」

「褒めるだけで事が上手くいけば苦労はせんわ」

 前回の戦では、兵糧が十分にあったにも関わらず、長安まであと一歩という所で撤退を余儀なくされたのだった。民からいくら絞ろうとも、その絞ったものを扱う人物が愚かであれば全てが水泡に帰す。それをやったのが、蜀国の高官であった李厳だった。

 何百万の民が戦に力を傾けようと、ほんの一握りの者が愚かであれば、それは意味のあいものになってしまう。涼州を失う危機に面した魏国にとって、李厳の勝手な判断は天佑だっただろう。

「この量でどれほど戦うことができるんだ、劉敏」

「まず一年は楽に戦えます。武功の占領の足掛かりが盤石になれば、二年でも。それ以上の遠征となると蜀国内の情勢を見て決めなければなりません」

「国内の情勢とは、南方のことか」

「はい」

 成都からの搾取が続く南方地域の不満は、既に慢性的なものになりつつある。この三年の間に成都へ帰還していた蜀軍本隊が、南方で不満を口にする主立つ者を幾人か討っていたが、このような方法でいつまでも穏便に済ませることができるはずもない。武功を占領すれば二年留まれると劉敏は言うが、はじめの一年以内に長安を奪取できなければ、いくら兵糧があろうと蜀軍はかなり苦しい所に立たされることになるだろう。

 長安を落とせば、涼州の糧食が手に入る。そうすれば、蜀国は南方も含めて豊かになるのだ。

「こうなれば大義など霞むな。まるで食い物のために戦っているようなものだ」

「涼州でも司馬懿が食い物の調達に苦労しているようです。銭を使い周辺から人を集め、広大な地域を開墾しているという話です」

「飯のために戦うか。人とはとどのつまり、そういうものなのかもしれんな」

 王平と劉敏は漢城の軍営に入った。王平軍は既に漢城の外に集結しており、近くに魏延軍もいる。数日後には、成都を発した蜀軍本隊も到着する手筈だ。

 軍営にいると、北へ放っていた蔣斌が戻ってきたと従者が伝えてきた。

 王平と劉敏が座る中、威勢の良い声と共に蔣斌が入ってきた。

「ただいま戻りました」

「ご苦労だった。武功で見てきたものを言え」

 王平が言った。

「武功は渭水に恵まれた開墾に適した平地であり、村落多く、人が増え続けています。東には馬冢原、西には五丈原があり、戦になればこの二つの地が要所になると思われます」

「おい、蔣斌。そんなことは句扶殿からの報告でわかっているのだ。お前が独自に調べたものを言えと言っている」

 劉敏が咎める口調で言った。

「独自に、ですか」

 叔父である劉敏に睨まれた蔣斌が小さくなっていた。

「どんなつまらん話でもいい。いや、つまらん話をしてみろ」

 王平が言うと、蔣斌は少し考えた顔をし、喋りだした。

「私は武功で農民をしておりました。農民になれば、銭がもらえました。その銭は五日に一度やってくる市で使うのです」

「どの程度の銭が貰えるのだ」

「その五日に一度の市で使い切れる程の銭です」

「なるほど。その銭と市を目当てに人が集まるということか」

「私も市には何度も行き、その道中に武功の地を歩き回りました。用もないのに武功内を歩き回ると、役人に目をつけられるからです」

「馬冢原と五丈原に、兵はいなかったか」

「馬冢原には武功の平地を見渡せる櫓が二つ立っているだけで、警備は厳しいものではありませんでした。地元の住民がそこで野草を採っていたので、私もそれに混じって野草を採るふりをして調査をしていたのです。武功水から西の五丈原周辺はまだ住民少なく、櫓すらありませんでした」

 王平は腕を組み目を瞑り、黙ってそれを聞いていた。武功周辺の要所に櫓が少ないということは、司馬懿はまだ蜀軍がどこを予定戦場としているか掴んでいないということだろう。

「そういうことを言えばいいのだ、馬鹿者」

 劉敏が机の上で何かを書き込みながら言った。

「市には何があった」

「肉屋と妓楼が多かったです。細工物を売る商人もいましたが、少数です。野草と肉を料理する店もありましたが、穀物はほとんどありませんでした」

「妓楼の女はどうであったか」

「えっ」

「魏の女の味はどうであったかと聞いているんだ」

「それは」

「否定せんということは、任務中にも関わらず妓楼に通っていたということか」

 言い難そうにしている蔣斌を見て、王平は大笑した。隣では劉敏が、つまらなそうな顔をして何かを書き続けている。

「大義であった、蔣斌。戦は近いぞ。それまでに英気を養っておけ」

「御意」

 蔣斌は一礼し、退室して行った。

「司馬懿は上手く銭を使って兵糧を増やしているようだな。敵の兵站に弱点を見出すのは難しいか」

「丞相は、東国の呉と同時に魏攻めができないか模索中です。それが成れば魏の中央から長安への糧道を細くことが期待できますが、司馬懿はそのことも計算に入れているのでしょうな」

「誰にも頼らず戦をしようとしている司馬懿と、呉を頼みとする丞相か。丞相も呉などに頼らず、我ら現場の指揮官に頼ればいいというものを」

「それはそうですが、それでも呉との協力は蜀にとって不可欠なことです。なにせ魏にとっては、巨大な戦線を二つも抱えることになるのですから」

「司馬懿はそのことをよくわかっている。敵ながら見事なことよ。己の力のみを信じているのだろうな」

「心配なさらないよう。丞相も、戦になれば呉のことは忘れ、現場にのみ全力を尽くされるはずです」

 今頃、司馬懿は蜀軍がどこから攻めてくるか苦悩しているのだろう。蔣斌が伝えてきた馬冢原と五丈原の様子からそう思えた。

 三年ぶりの戦である。伝令が、成都からの第一陣が到着したことを伝えてきた。

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