王平伝 3-11

 本格的な戦が、足音を立てて近づいてきていた。王平は馬謖の副官として、二万五千を率いて張郃迎撃軍の先鋒となり、街亭の城郭を目指していた。二万五千は全て騎兵なので、駆け通せば冀城から一日半で到着できるだろう。城内に籠って張郃軍を食い止める。そして後から続く羌軍を含む諸葛亮の本隊六万五千が街亭に到着すれば、いくら張郃でも手出しはできなくなるだろう。作戦としては、上々である。

 上官となった馬謖は、意外なことに王平ことを笑顔で迎え入れてくれた。以前の模擬戦のことを根に持たれているかもしれないと思っていたが、そうでもないらしい。馬謖の両腕である張休と李盛も満面の笑みをもって親しくしてくれた。親切過ぎて少し気持ち悪いとも思えたが、小さなことを気にすることはやめておいた。

 王平は馬謖と轡を並べ、中軍にあってのんびりと馬上に揺られていた。揺られながら、互いに色々なことを話した。王平は洛陽にいた時のことや辟邪隊のことを話し、馬謖は荊州のことや南征のことを話してくれた。会話はすこぶる弾み、時を忘れてしまうほどであった。蔣琬が言うほど、この男は嫌な奴ではないのかもしれない。

 行軍速度が少し遅いということが、王平の気にかかった。これでは街亭まで一両日使えばいいところを、二日半も使ってしまうことになる。王平はそう思ったが、口には出さなかった。戦の前に、あまり角の立つようなことはしたくない。

 その日は、河川のほとりで野営をした。兵たちは思い思いに馬を曳いて、川で馬の体を洗ってやっている。大事なことだった。戦場では、馬に自らの命を預けるのだ。王平も兵達に交じって馬を洗った。天水滞在時に与えられた馬だった。涼州の馬は、馬体が大きくよく走る。この馬を与えられた時、王平は年甲斐もなく興奮した。やはり自分も一人の軍人の前に、一人の男なのだ。

 近くに、一際大きな馬が三頭入ってきた。馬謖ら三人の馬だが、洗っているのは兵卒達だった。あの三人は何をやっているのだ。そう思いはしたが、軍団長ともなると色々と忙しいのだろうと思い定め、深くは考えないようにした。

 夕餉の時間になると、王平は馬謖に呼ばれた。焚火の周りを、馬謖、張休、李盛、王平が囲んだ。

 出された食事は、炊いた米、そして蒸した肉と野菜であった。それらが、旨そうに湯気を立てている。まだ若い張休と李盛は、それを貪るように食い始めた。馬謖もゆっくりとそれに箸を伸ばしている。王平は心に決めていることがあった。それは、戦中にあっては兵卒と同じものを食するということだ。熟達の指揮官ならば、誰もがしていることであった。

「どうされた、王平殿。腹でも痛いのですか」

 その様子に気付いた張休が、飯粒を飛ばしながら言った。

「それは困りますな。これから大きな戦だというのに」

 李盛もそれに続いた。馬謖は無関心なのか、顔に微笑を浮かべながら箸を口へと運んでいる。

「私は、軍中では兵達と同じ物を食うことにしています。用意していただいて申し訳ないのですが、これは下げていただきたい」

 張休と李盛は箸を止め、その場の空気がしんとなった。馬謖だけが調子を崩さず、暗闇の中で赤々と炎を受けている面のような顔に、笑みを絶やさずにいる。

 その中で、張休が口を開いた。

「これは王平殿。少々それは堅すぎやしませんか。折角用意したのだから、今日のところは胃の腑に収めて片付けられればいいでしょう」

「もう一度言います。これはお下げください」

 張休と李盛は顔を見合わせた。

「これは困った御方だ。この飯を食ったからといって、どうなるというものでもないでしょう」

 張休が困ったような笑ったような顔をしながら言い、李盛もそれに続いて言った。

「お話によると、王平殿は女にもお堅いようで」

 王平は、自分の耳が熱くなっていくのを感じた。

「控えろ、小僧」

 目の前の膳を蹴り飛ばした。李盛はそれに狼狽し、飯を被った張休は王平を睨みつけた。

「もう一度、言ってみろ」

 王平は言いながら、自分の右手が剣にかかるのを懸命に堪えた。

「まあまあ」

 そこでようやく馬謖が立ち上がった。

「王平殿、そなたは大戦を前にして気が立っているのだ。こいつらの無礼は私が謝る。だから、ここは落ち着いてくれ」

 馬謖は、王平の肩に手をかけながら言った。

「それにな、こいつらは若い。旨いものを腹一杯食わしてやりたいと思うのが、長者の徳というものではないか」

 そう言われ、王平は腰を下ろして気持ちを落ちつけた。自分はとんでもないところに来てしまったのかもしれない。こんな奴らに兵の統率を任せ、戦に勝つことができるのか。

 膳をひっくり返した王平のために、兵糧が運ばれてきた。兵が食べているものと同じ、穀物を団子にして茹でたものだ。運んできたのは、馬謖軍の兵糧を管理している黄襲という男だった。

「張休、李盛、お前らも王平殿を見習え。こういうものを食うことで、将兵は常に心を一つにすることができるのだ」

 もう五十に近いだろうという黄襲は温和な笑みを顔に蓄え、二人に諭すように言った。それは遠回しに馬謖にも言っているのだ、と王平には思えた。

「王平殿も困りますな。陣中であのように怒鳴られますと、兵達に動揺が走りますぞ」

 その通りであった。王平は、素直にそれを詫びた。

 この男は飯の時間になると全軍を見回り、全ての兵の腹に兵糧が入ったことを確認してから自分も食う。今日もその確認が終わったのだろう。黄襲も王平の隣に腰を下ろし、自分の小鍋を焚火でよく温めてから兵糧を食い始めた。王平は内心ほっとしていた。黄襲が来てくれたことで、その場の空気がいくらか和んだからだ。

「王平殿、模擬戦の時はさすがでございました。あの時、王平殿の隊が一斉に反転したのを思い出すと、今でも全身が粟立つ思いがします」

 模擬戦の時、馬謖軍の騎馬隊を率いていたのが張休で、歩兵を率いる馬謖を李盛が補佐していた。実際に手を合わせたことがある張休にそう言われ、悪い気はしなかった。

「そんな王平殿が我が軍にいてくれてるんだ。心強いな」

 李盛も、そう言ってくれた。

 険悪な空気は消えつつあった。王平は焚火で温めた兵糧を口に運び、歯で砕き、飲み下した。味はない。しかし、力にはなる。軍人はそれでいいのだ。

 和やかになってきた空気の中で王平は、角が立つから進言を控えておこうと思っていたことを言ってみる気になってきた。角が立ったとしても、恐らく黄襲が取り成してくれるだろう。

「馬謖殿、行軍のことなのですが」

「おう、どうした」

 馬謖がはっと顔を上げ、小気味良く反応した。

「敵の張郃軍は、手強いです。恐らくあの軍は、神速をもって天水方面へと向かってきているでしょう。街亭はさほど大きくない城です。一刻も早くあの城に入り、防備に時を費やすことこそ上策と思うのですが」

 それを聞き、馬謖は難しげな顔をした。

「行軍速度を上げろというのか。しかしな、戦の前に兵を疲れさせたくない。我らが街亭に着けば、すぐに魏軍はやってくるであろう。私の理想は、魏軍が到着する直前に街亭へと入城する。そうすれば、兵は気持ちを緊張させたまま戦闘に臨むことができる。違うか?」

 言っていることが矛盾している。そう思ったが、黙って聞いた。

「それにそんなに焦れば、その焦りは兵へと伝わる。焦りは敗北を生むのだ」

 王平は、それ以上何かを言う気にはなれなかった。

 馬謖軍はゆるゆると軍を進め、二日半を費やし街亭に入った。

 街亭の城郭に入ると、さっそく軍議を開いた。敵の情報は、先に街亭に来ていた句扶が部下を使って収集してくれている。

「敵兵は、五万。全て騎兵です。二日後にはここに到着することでしょう」

 馬謖、張休、李盛、黄襲、そして王平を前にして句扶は言った。

「二日後・・・」

 王平は呟いた。さすがに速い。街亭は大きな城郭都市ではない。せめてあと一両日使い、城の防備を整えたかった。

 城攻めの兵力は、守りの三倍必要だと言われている。馬謖軍の兵力は、二万五千である。敵兵力はその三倍を満たさないが、この城ではなんとも不安であった。それに相手は、魏の名将張郃である。

 行軍速度が遅すぎたのだ。もう一両日あれば、例えば逆茂木を並べることができたし、城壁に泥を塗って火攻に備えることもできた。大がかりな防備ではないが、こういう細かな備えが兵に安心感を与え、力を出させることができるのだ。そう思ったが、もう言っても仕方のないことだった。

 馬謖は腕を組みながら句扶の報告を聞き、ここら一帯の地図を前に立った。そして木の棒を取り出して言った。

「ここと、ここと、ここ。陣取ることはできないだろうか」

 馬謖は、地図に描かれた三つの丘陵を指した。

 こいつは何を言っているのだ。王平は驚いた。後方からは、諸葛亮率いる六万五千が来ている。これが到着するまで街亭城を守ることが、今回の任務である。兵を城外に出す理由など何もない。全軍を城郭内に入れ、本隊が来るまでの数日間を堅く守ればいいだけの話ではないか。

「何か言いたそうだな、王平殿。まあ、先ず聞け」

 馬謖は棒を振り、地図の一点を指しながら言った。

「敵は、恐らくこの城を望んでこの位置に陣取るだろう。そして我々は、これらの三点に伏兵を置く」

「敵を囲むのに、絶好の位置となるわけですね」

 李盛が言った。

「その通りだ。お前もなかなか分かるようになってきたではないか」

 言われて、李盛が得意気に鼻をこすった。

「しかしこれでは、我らの少ない兵力を分散させてしまうことになります。それに、敵は魏軍の古豪です。伏兵が露見することでもあれば、各個撃破されてしまいますぞ」

 王平がそう言うと、馬謖は大きなため息を吐いた。

「王平殿は、敵を恐れているのか。それは、軍の士気にも関わることとなるぞ」

「そんな話をしているのではありません。今は、全兵力を城に入れ、この地を守ればいいだけのことではありませんか」

「この城は、小さい。三千もあれば十分に守れるではないか。この城に二万五千は、いかにも大袈裟過ぎるではないか」

 正論であった。この城に二万五千を入れても、かなりの兵が手持無沙汰になるだろう。しかし、それが兵を出していいという理由になるはずがない。

「王平様。ここは我々にお任せください」

「お前は、黙っていろ」

 言った張休を、王平が睨んだ。張休はそれに対して呆れ顔をして見せた。

「王平殿。そなたは勘違いをしている。何も、伏兵をもって決戦を挑もうというのではない」

「当然です」

「最後まで聞け。戦は、緒戦が大事だ。相手の虚を突き、一撃を与えたらすぐに城に入る。そうして敵味方に我らの勝利を印象付ければ、丞相が到着した後の戦が大分楽になるだろう。どうだ?」

「上手くはいきません。どうかお考え直しを」

 馬謖はもう一つ大きなため息を吐いた。

「頑固なのだな、王平殿は」

「蜀軍の勝利のためです。兵をこの城から出すことは、この私が許しません」

「許しませんだと」

 馬謖が眉をひそめた。二人の間に、緊張が走った。

「まあまあ、お二人共」

 今まで黙っていた黄襲が立ち上がり、二人の間に割って入った。

「馬謖殿が軍団長で、王平殿はその副官。王平殿、ここは一歩引きましょうじゃありませんか」

 意外であった。あなたまで、そんなことを言うのか。

「ここは私が王平殿によくよく話して聞かせます。抑えてくだされ、馬謖殿」

 それを聞いて、馬謖は声を立てて笑った。

「すまなかった。戦の前の仲間割れは禁物であったな。王平殿、悪かった。だがここは私に任せて頂きたい」

 もう何を言っても無駄だ。王平は絶望し、踵を返してそこから退出した。

 王平が自室に戻ると、すぐに黄襲がやってきた。何を話す気にもなれなかったが、王平は黄襲に椅子を勧めて向き合った。

「馬謖殿はね」

 俯く王平に、黄襲はゆっくりと腰かけながら話し始めた。

「あれはあれで責任を感じているのだ。何せ、二万五千の大将だからね」

 意外なことを言いだしたので、王平はふっと黄襲の方へ顔を向けてみた。

「馬謖殿の兄に馬良というお方がおられてな、大変優秀な方で、丞相とは義兄弟の契りを交わしておった。しかし残念ながら、馬良殿は呉との戦の中で戦死された」

「聞いております。だから丞相は、馬謖殿のことを大事になされておいでなのだと」

「その通りだ。ここだけの話だがな、馬謖殿の器だと、地方の県令あたりをやっているのが丁度良いのではないかと私は思っている。まして二万五千の大将ともなると、荷が重いのではないかな」

 黄襲は声を潜め、顔を近づけて言った。

「それでも組織が大きくなると、色々なところで矛盾が生じ、その器ではないのに大きな責任を与えられるということがある。それが、今の馬謖殿だ」

 平然と自分の上官を貶めることを言うので、王平は思わず笑みをこぼしてしまった。

「そういった者は、ほぼ必ずと言っていいほど下々の者から後ろ指を差される。当の本人は周囲のそんな目に怯え、なんとか名誉を挽回させようとするのだ。でもそういう時は、大体が裏目に出るものだ」

「今の馬謖殿が、正にそうではないですか」

「そうだ、王平殿。だからこそ、私は馬謖殿のそんな性格まで理解した上で、補佐せねばならんのだ。これは、張休や李盛のような若造にはできないことだ」

「馬鹿げた話ではありませんか。もう、子供ではないんですぞ」

 黄襲は身を乗り出させた。

「いいや、子供なのだ。大人の背格好をしていても心は子供なのだという者を、私は今まで何人も見てきた。そして、そういう者が自分の上官になるということも、十分にあり得るのだ」

面白いことを言う人だ。こうして自分らの上官を貶めることで、自分のことを慰めようとしてくれているのか。

「そのような方に、口答えをするべきではない。しても、その言葉はその人の耳には決して届かないからだ。王平殿が言うように、それは馬鹿げた話なのかもしれん。上手くやろうと思うのなら反対意見を出すのではなく、同調している風を装い少しずつ考え方の進路を変えてやることだ。少なくとも、私はいつもそうしているよ」

「馬謖殿は、子供ですか」

「そうだ」

 黄襲は静かに、しかし強かに頷いた。

「わかりました。黄襲殿がそこまで言われるなら、私もそう思い定めて馬謖殿を補佐しましょう」

 そこで黄襲はようやく笑みを見せた。

 翌朝早朝、また軍議が開かれた。昨日の五人の他、諸々の隊長が集められた。句扶は城外の調査をしているため、この席にはいない。その場の全員に、作戦内容が書かれた竹簡が配られた。馬謖は正面に立ち、その竹簡に書かれてあることの解説を始めた。王平は字を読めないため、竹簡を開かず馬謖の話を黙って聞いていた。聞いていると、突然馬謖が王平を指名してきた。

「王平殿。そなたには色々と意見があることだろう。ここに書いてある作戦について、何かあるか」

 嫌らしい男だ。この男は、自分が字を読めないことを知っている。答えに窮していると、隣の張休が言った。

「指揮官ともあろうお方が、その様子では困りますな」

 それに乗じて李盛が笑うと、諸隊長の数人もそれに続いて笑った。そう言われてしまうと、王平は何も言い返すことができない。

「やめんかお前ら」

 馬謖が宥めるように言った。

「何も心配することはないぞ、王平殿。そなたには、三千をもってこの城を守ってもらう。それだけだ」

 それだけだという言葉に反応して、また笑い声が起こった。もう、怒る気すら湧いてこなかった。

 そして馬謖は、諸隊長に細々とした指図を与え始めた。細か過ぎる。王平は聞いていてそう思った。細か過ぎる指図は、混乱を生む。大将が下の者へと与える命令は、もっと大雑把なものでいいのだ。何故、こんな奴が一軍の指揮をしているのだ。彼を大将に任命したのは自分ではなく、丞相だ。これは自分とは関係のないことなのだ、と自らに言い聞かせた。

 無理だと思ったら、退け。王平の頭の中に、魏延の言葉が甦ってきた。

 句扶は馬謖の命を受け、潜伏予定の丘陵を見に来ていた。馬謖が言う通り、位置は悪くない。魏の張郃軍が街亭へと真っ直ぐ攻めかけてくれば、魏軍を包囲し、あるいは寡兵をもって敵の大軍を潰走させることも可能かもしれない。しかし、それは相手に見つからないということが大前提である。見つかってしまえば、分散した蜀兵を各個撃破されるのが末路であろう。

 恐らく見つかるであろう、と句扶は思っていた。魏軍は曹操が軍を率いていた頃からの伝統で、斥候をよく使う。たくさんの斥候が持ち帰ってくる膨大な情報を分析し、作戦を練るのだ。句扶は長安で間諜をしていたことがあるので、そのことをよく知っていた。

 馬謖が九千を率いて丘に登ってきた。いずれも軽装の歩兵で、敵の騎馬への備えなのか、全員に長槍を持たせている。しかしそれがどれほど役に立つものか、疑わしいものであった。

 句扶は馬謖に会い、兵を留めておける広場と、兵を通せる道がどこにあるのかを説明した。句扶の部下らも張休と李盛のところへ行き、同じように報告しているはずである。

 説明が終わると、丘を下りて街亭城内に帰るようにと指示がでた。句扶の仕事はあくまで隠密であり、戦闘ではないからだ。言われずとも、さっさと退散するつもりであった。こんな所にいては命がいくつあっても足りはしない。

 この作戦に対して、王平はかなり反対したようだった。不器用な人であった。王平の言葉は確かに正論ではあるが、正論であるがために疎まれるということもあるのだ。そういう時は言葉を控えて出しゃばらず、一歩引いたところからものを言えばいいのだ。しかし王平はそういうことができない人であった。そして王平のそういうところは、句扶の目に魅力的なものとして映っていた。

 句扶は五人の部下を連れ、木々が繁る茂る小径から丘を下りていた。すると、頭上から妙な気配を感じた。誰かいる。句扶は部下と一緒にその場に伏せた。気配は続いている。どこだ。句扶は目を凝らし、気配の正体を探した。

 いた。木の上。黒装束に身を包んだ大男が、四肢を使ってその身をぶら下げていた。はて、と句扶は思った。どこかで見たことがある。

 司馬懿の館だ。長安で司馬懿の忍びに連行された時、司馬懿の隣でこちらに向けてただならぬ気を放っていた男だ。その男が、何故ここにいる。

「思い出したようだな、句扶」

 句扶はその言葉を半ば聞き流し、前後左右に意識を張り巡らせた。どこから、何が出てくるかわからない。

「そう気を張りつめることはない。今日はこの丘の様子を見に来ただけで、お前をどうこうするつもりはない」

 確かに、殺気はどこからも感じられなかった。ではこの男は何のために自らの身を晒しているのか。

「不思議そうな顔をしているな、句扶。それは当然であろう。自分から名乗り出る間諜など、私も聞いたことがない」

 よく喋る忍びだ。そう思いながらも、句扶は緊張を解かずに聞いていた。

「我らの仲間になれ、句扶」

「断る」

「お前はそう言うだろう。しかし、蜀は今回の戦に勝てると思っているのか」

 思っていなかった。しかし、それと裏切りとは別次元の話だ。

「お前が我々の手引きをしてくれれば、互いに犠牲を少なくしてこの戦を終わらすことができる。お前ならわかるであろう。句扶、賢明になるのだ」

「断ると言っている」

 軽口ではあるが、ただ者ではない。二人の間は近過ぎず、遠すぎない。忍び同士が会話できる、最適な距離だと思えた」

「それにな、句扶」

 男は目を細め、長い舌を出して舐めた。

「俺は、お前が欲しい」

 句扶は全身が粟立ち、背中に怖気が走った。こいつ、男色か。

 句扶は懐の手戟を素早く取り出し、放った。男の姿がさっと消え、手戟は樹木に突き刺さった。そしてその場の枝々が、さわさわと揺れた。

「俺の名は、郭奕という。句扶、また会おうぞ」

 郭奕の甲高い声が、周囲にこだました。

 句扶はしばらくその場に留まり、安全を確認してから動き出した。部下の二人を馬謖の元へ、句扶ら三人は街亭城へと向かって駆けた。伏兵が露見したのだ。このことを一刻も早く指揮官達の耳に入れるのが、句扶の務めである。露見するのは当然のことだと思えた。街亭城から大軍が出て三つの丘に陣取るところまで、あの郭奕とやらはどこかでじっと見ていたのであろう。

 それにしても、嫌な男に目をつけられたものだ。句扶は伏兵が露見したことよりも、そちらの方が気になった。

 街亭に到着した。強行に次ぐ強行軍であったが、兵の中には一人の脱落者も出ていなかった。これは張郃軍の兵が精強だということの証であるが、それ以上に馬が良かった。張郃は長安に着くと先ず、渋る夏候楙から半ば強引に涼州産の馬を引き出し、全軍に乗り換えを命じた。

 馬が代われば、人も変わる。それは騎馬隊に関わる者なら誰でも知っていることである。今の張郃軍は兵の下々にまで気性の荒い涼州馬の魂が乗り移っているかのようであり、頼もしかった。

 敵は、馬謖率いる蜀軍二万五千。できれば蜀軍の先鋒が出てくる前に街亭を押さえておきたかったが、さすがにそれは虫が良かった。こちらには五万の兵力があるが、全て騎兵で攻城兵器はない。数に頼って迂闊に攻め入れば、大きな被害を出してしまうだろう。しかも後方からは、五万以上の蜀軍本隊が近づいてきているという。この本隊が到着する前に、目の前にいる二万五千に痛撃を与えたかった。さて、どうするか。

 張郃軍は街亭の十里手前で全軍を止めた。傍らには副官の郭淮と、まだ若い夏侯覇がいる。夏侯覇は漢中で死んだ夏侯淵の次男で、蜀には大きな恨みを抱いていた。才気溢れる青年であったが、大きな恨みはいずれ己の身を滅ぼすことを張郃は知っていた。それを惜しいと思った張郃は、長安で軍務に励んでいた夏侯覇を自分の下に就けた。張郃は蜀と戦うために投入された将軍であるので、夏侯覇はそれに喜んで従った。

 三人は轡を並べて前方を睨んでいた。もうすぐ、放っていた斥候が戻ってくる頃である。

「夏侯覇」

 はい、という返事と共に、夏侯覇は馬上で背筋を伸ばした。

「お前が司令官なら、先ずどうするか言ってみろ」

 夏侯覇は両腕をやり場なく動かし、難しい顔をして考え始めた。もうすぐ老境に入ろうとしている張郃の目には、まだ若い夏侯覇のそんな仕草が何とも可愛らしく見えた。

「工夫を凝らし、蜀軍を城外へおびき寄せることが第一だと思います。その方法は、斥候が帰ってきてから練るべきだと思います」

 夏侯覇が、早口で並べ立てた。

「だそうだ。郭淮、お前はどう思う」

「私も、そのようにするのがよろしいかと思います」

「ではここは夏侯覇の言葉に従い、斥候を待つことにするか」

 張郃がそう言うと、そこで夏侯覇はようやく表情を緩めた。そんなやり取りをしていると、斥候が戻ってきた。

 郭奕である。この男は長安の「黒蜘蛛」と呼ばれる隠密部隊を率いる隊長であった。妙なところがある男であったが、その仕事は迅速適確であり、その点は父である郭嘉と同じであった。郭嘉は曹操軍の草創期を支えた優秀な軍師で、張郃も共に働いたことがあった。しかし若い内に病を得て死んだ。

 父の元同僚ということがあってか、郭奕は張郃の言葉によく従い、よく働いた。

「馬謖は、城を出て近くの丘陵に兵を伏せております。その数は、およそ一万」

「よし」

 張郃が言うと、郭奕はさっと姿を眩ませた。さらなる諜報に向かったのだ。

「お前は運がいいぞ、夏侯覇。敵兵をおびき出す手間が省けたな」

 しかし夏侯覇は腕を組み、また難しい顔をし始めた。何かを考えている。張郃はこの若者のそんな横顔をじっと見つめた。

「罠ではありますまいか」

 そう考えているであろうと思った。確かに、その可能性はある。

「まだわからんな。単に敵が阿呆だということもある。大事なことは、それを見極めることだ」

「しかし将軍、蜀軍の先鋒を任される程の将が、あのような安易な布陣をしますでしょうか」

「それは先入観だ。こちらがやられて困ることが、相手の目からは見落とされている。そういうことは、戦場ではよくあることだ。もう少し、待ってみようではないか」

 夏侯覇は難しい顔をしながら、正面を睨み続けていた。

 斥候が、続々と戻ってき始めた。敵の伏兵は、三か所に置かれているらしい。その数は、総勢二万。街亭の城には、五千程が入っているということか。

「真っ直ぐに街亭へと向かっていたら、我々は包囲されていたことになるな。危ないところであった」

 そう言う張郃は、呑気そのものであった。そんな張郃を見て、夏侯覇の顔から力が抜けた。

「こんなに簡単なものなのですか。私はもっと、戦場では知恵を使い合うものだと思っていたのですが」

「相手によるな。聞くところによると、今の蜀には人材が不足しているらしい。敵の大将である諸葛亮は、恐らく人選を誤ったな」

「そういうものですか」

「では夏侯覇、どう攻めてやろうか」

 夏侯覇はまた、考える表情を見せた。

「定石ですと、伏兵の拠る丘を一つずつ潰すといったところでしょうか。そして最後に、城を囲う」

「わしも、そうしようと思っていたところだ」

「しかし本当に罠が」

 郭淮が一歩出た。

「出過ぎているぞ、夏侯覇。お前も軍人なら、黙って将軍の言うことを聞かんか」

 叱られて夏侯覇はうなだれてしまった。夏侯覇の様子を楽しんでいた張郃は郭淮を黙らそうとしたが、やめておいた。ここで郭淮を黙らせてしまえば、血気盛んな夏侯覇が郭淮を侮る種になりかねない。それに、夏侯覇もちょっとしつこかった。しかし言葉を待つだけの者に比べれば、よほどましだと思えた。

「では各自、持ち場に戻れ。夏侯覇の初陣を華々しく飾ってやろうではないか」

「御意」

 二人は駆け戻っていった。軍全体に、戦闘開始の気配が漲っていく。張郃は静かに軍配を振り、兵を前へと進めた。

 目の前の敵が押し寄せてきた。整然と進む騎馬隊の中に、「張」「郭」「夏」の旗が浮かんでいる。

 戦闘開始の命令は、既に告げてある。張休と李盛が伏せる二つの丘とも、鏡の光を使ってその確認をし合った。あとは、敵兵が予定戦場区域に入ってくるのを待つだけだ。

 先程、句扶の部下が伏兵が露見したということを伝えてきた。馬謖はそれを一笑に付した。馬謖軍が拠る丘は、周囲を兵に隙間なく見張らせており、蟻一匹入り込む余地はないはずだ。それでも二人の句扶の部下は、何度も考え直すよう懇願してきた。馬謖はそれに苛立った。今更、これだけの大軍を陣替えできるものではない。こいつらはそのことを分かっていないのだ。あまりにしつこかったため、馬謖は兵達の前で二人の首を刎ねた。そしてその首を広場に晒して士気を上げようとしたが、兵達の反応は冷たいもののように感じられた。

 魏軍の動きが、予想していたものと違った。真っ直ぐに街亭へと来るのではなく、李盛の拠る丘に向かい、囲み始めた。馬謖は舌打ちをした。やはり、ばれている。しかしこれで、自軍の敗北が決まったわけではない。

 馬謖はすぐに連絡用の鏡を用意した。

「これから、助ける」

 何度か交信を試みたが、李盛からの返答はなかった。恐らく、突然敵の大軍に囲まれて狼狽しているのだろう。馬謖はまた舌打ちをした。

 馬謖は張休の丘にも鏡で光を送った。返答は、すぐに来た。それを確認した馬謖は兵をまとめ、丘から下りた。

 郭の旗およそ一万が馬謖の前を遮った。同数の騎馬隊なら、長槍を持つこちらの方が有利なはずだ。しかし敵は騎馬を前に出さず、矢を打ち込んできた。盾を用意していなかった馬謖の兵は、矢雨を受けてばたばたと倒れていった。馬謖は兵力に損害を出すことを恐れ、兵を丘へと戻した。そして高所に立ち、全体の戦況を見渡した。

 張休隊も敵に阻まれて前に出ることができないようであった。困ったことになってきた。一度そう思うと、馬謖の膝が細かく震え始めてきた。そして李盛の隊。激しく攻め立てられているが、囲む魏軍の一角が空いていた。罠だ。馬謖はそれを見て直観した。目下で郭の旗が、半数を連れて李盛の方に走った。

 案の定、李盛はその一角から下りてきた。郭の旗五千がそこに突っ込み、李盛隊は混乱した。そこに、夏の旗。李盛隊は一方的にやられ、見る見る内に数が減っていく。

 その中から、少数に囲まれた李盛が飛び出してきた。馬謖はすかさず下知をしてこちらに向かってくる李盛を援護させた。

 しばらくして、兵に支えられた李盛が馬謖のところにやってきた。丘の下では、まだ兵達が戦っている声がこだましている。李盛は体のあちらこちらに傷を受け、その太腿には茶色い物が垂れ出た跡があった。

 馬謖にはかける言葉が見つからず、短く、

「休んでおけ」

 とだけ言った。

 これはまずい。馬謖は自分の手を具足の中に入れて隠し、余人にその震えを悟られないようにした。伏兵の策が失敗しても、多少の犠牲に目を瞑れば城内に帰還することはできると思っていた。しかし、実際はどうだ。

 敵兵が馬謖の丘の下へと集まってきている。敵は、騎馬隊である。丘の地形を生かせばあるいは諸葛亮率いる本隊が到着するまでもつかもしれないが、手持ちの兵糧と水が圧倒的に不足していた。奇襲をして、すぐに街亭へと戻る予定だったからだ。

 丘を下りるしかない。しかし敵の馬郡が粛々且つ整然と、馬謖と張休がいる二つの丘を囲み始めている。丞相から与えられた二万五千が、一体どれほど減るのか。いやその前に、俺はここから生きて帰ることができるのか。

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