王平伝 9-3

 馬岱が、第二軍の指揮官からはずされることになった。魏延は実は生きていたという話が出て来て、そのことで楊儀が馬岱を追及したのだ。漢中の山奥で魏延を見た者がいるという報告があり、その真偽が判明するまで馬岱は一時的に軍から除籍されることになった。

 魏延の生死など、今の楊儀にとってどうでもいいことだった。この話が本当なら、恐らく魏延は馬岱に命乞いをして、罪人から替え玉を用意することによって逃亡したということなのだろう。李厳のように平民に落とされたのならまだしも、死んだことになっているのなら何も恐れることはない。

 魏延の生死より、これを申し立てることによって蔣琬を攻撃できるということの方が大事だった。蜀の人事を握るのは蔣琬で、虚偽の報告をした者を軍の指揮官に任命したとなれば、任命責任を問われることになる。気付いたらこの責任から逃れていたということがないよう、大きな声を上げていけばいい。

 魏延のことを楊儀に知らせたのは、李平と名乗り成都の郊外で暮らしている李厳だった。情報の売買を生業にしている者を雇い、蜀の高官を監視させ、落ち度はないかと探らせていたのだ。そのための銭は黄皓から渡されていて、李厳は平民だからこそできる仕事をしていた。その仕事の対価に黄皓は、大赦による李厳の復帰を約束していた。李厳の得た情報により蔣琬を攻撃するのは、楊儀の役目である。

 これに対し蔣琬は、ほとんど反論してこなかった。これが原因で失脚することはないと高を括り余裕を見せているのだろうが、反撃をしてこないのならとことん攻めるのみである。

 そんな中で、李厳から一度会って話がしたいという書簡が来た。それも楊儀の方から会いに来いということで、それはこれまでにないことだった。こちらから行くとなれば、忍んで行かなければならない。

 軍の調練は姜維に任せ、楊儀は変装をして一人で成都の郊外に足を運んだ。治安は万全とは言い切れないが、日が出ている内はさほどの危険はない。

 使い古された平屋の家に着き、楊儀は中に入った。

「用は何だというのだ、李厳殿」

 楊儀はだぶついた頭巾を取りながら言った。中は黴臭く壁には蛾が張り付いていて、使用人は老婆が一人いるだけだった。平民なんかにはなるものではないと、楊儀は心の中で思った。

 李厳の目は赤みを帯びていて、麻を吸っていると一目でわかった。楊儀は麻を吸わない。若い時に一度だけ吸ったことがあったが、気持ちが悪くなり嘔吐してしまったため、それ以来吸ったことがない。

「久しいな、楊儀。平民暮らしというのもなかなか悪いものではないぞ」

 会うのは、李厳が平民に落とされて以来初めてだ。髪も髭もだらしなく伸び、以前にあった威厳は全く失われていた。

「長居はできん。用件があるのなら早く言ってくれ」

 それを聞いた李厳は露骨に嫌な顔をして見せた。軍師と平民の会話ではあるが、李厳はあくまで以前と同じように接して欲しいのだろう。

「俺の手の者が、おかしなことを言い始めた。漢中で見た魏延は、やはり魏延ではなかったと言うのだ」

「なんだと。では誰だと言うのだ」

「ただの猟師であったと。それなら始めから魏延だと言うような奴らではないのだ。何か裏があるのではないかと思い、直接相談したかった」

 楊儀は心の中で舌打ちをした。魏延が生きているかどうかは本質的な問題ではないのだ。目的は、蔣琬を引き摺り下ろすことで、魏延だと思っていた者が猟師であれば、どうにかしてでっち上げてやればいいだけだ。

「その者らが疑わしいと思うのなら、体に聞いてやればよいではないか。話が進むのはそれからであろう」

「体に聞くって、俺に拷問をやれと言うのか」

 李厳が体を乗り出した。吐気に含まれる麻の香りが鼻を撫で、楊儀は顔をしかめた。

「復帰したいのであろう。ならば少しは手を汚されよ。どうしても嫌なら銭を使って他の誰にやらせればいい」

「酷なことを平気で言ってくれる。それで嘘をついていなかったらどうする」

「どうするもこうするもない。何もせずして一国の高官に返り咲けるはずなかろう。長安を目前にした軍を、たった一人の行いで漢中まで撤退させたのだ。李厳殿が魏国の臣であればかなりの出世ができたであろうが」

「俺に皮肉を言うなど、お前も偉くなったものだな。俺は諸葛亮のやり方に反発する宦官に乗せられただけなのだ。諸葛亮が失脚すれば、お前が次の丞相だと言われてな」

 この話は本当だったのか、と楊儀は思った。李厳と黄皓が近い理由がこれでわかった。これを聞かせることで、李厳は胸襟を開いているつもりなのかもしれないが、楊儀はそれを聞き流した。

「どんな手を使ってでも本当のことを聞き出すのだ、李厳殿。心配をされているのは手を汚すことでなく、拷問にかけられた者の仲間から報復されることであろう」

 言われて李厳が俯いた。

「それも、ある」

「蔣琬から政権を奪えば、蚩尤軍を使えるようになる。そうなれば李厳殿に誰が報復できるというのだ」

「それは政権を取ってからの話だろう。俺の住むこのぼろ家を見てみろ。お前が住んでいるような立派な屋敷ではないのだぞ。いつ誰が忍び込んできてもおかしくないというのに、人から恨みを買うような真似ができるか」

「直に大赦が為される。それまで辛抱されよ」

 李厳が苦虫を噛み潰した顔をし、楊儀は心の中でその顔に唾した。己の手を汚しもせず、楽をして力を得たいという者など、こんなものだろう。李厳の肝の小ささには失望したが、書簡で大仰なことを述べていても実際に会えば小粒だったというのはよくある話だ。李厳の息子は江州で力を持っているので、それを反蔣琬派の力にしたかった。小粒でも、今は十分に利用する価値があるのだ。

「もう一つ、聞いておきたいことがある」

 李厳が意を決したようにして言った。

「お前はここ最近、頻繁に費禕と会っているそうではないか。費禕と言えば、蔣琬の昔からの友であろう」

 つまらぬことを疑われていると思い、楊儀はまた失望して大きな息を吐いた。費禕を屋敷に招くのは楊儀の仕事の一環であり、李厳にとやかく言われることではない。

「費禕も蔣琬に対し不満を持っているのだ。何も疑うことはない」

「それならいいんだがな。手の者がたまたま見かけ、俺の耳に入れてきたのだ。だから、念のために聞いておこうと思った。悪く思わないでくれ」

 楊儀が不満な顔を見せたせいか、李厳は慌てて言い繕った。頻繁に会っているのを知っているということは、たまたまではなく監視させていたのだろう。

「それにしても、山奥の魏延のことを出したのは早計ではなかったか。俺の手の者が確たる証拠を得るまで、何故待てなかったのだ」

「そんなことを今更言ったところで仕方がないだろう。こちらにはこちらの事情というものがあるのだ」

「魏延のことで馬岱を責め始めた直後に、手の者があれは魏延ではないと言い始めたのだ。何か関連があると思わん方がおかしいではないか」

 李厳の暗い目がじっと見つめてきた。この男が疑っているのは、費禕ではなく自分なのだとはっきりわかり、楊儀は狼狽した。

「ここに呼びつけたのは、私のことを疑っていたからということか」

「一度だけ、直接会って話しておくべきだと思った。疑っていたというのは否定しないが、全く信じていなかったというわけではない」

 どっちつかずの李厳の物言いに憤りが湧いてきたが、楊儀は怒鳴りつけたい欲望を抑えた。所詮は平民に落とされた者の言っていることなのだ。

「気を悪くしないでくれ。俺も必死なのだ」

「それは私も同じだ」

 李厳が宥めるように言い、楊儀は短く答えた。怒りで、短く答えることしかできなかった。

「しかし会っておいて良かった。お前の様子を見て、俺が疑っていたことは全て杞憂だったのだと確信できた。手の者からは拷問をしてでも本当のことを聞き出しておこう。俺からの報告を待っていてくれ」

 李厳がにこやかに言い、話はそれで終わった。

 李厳の家を出てからも、腹の虫は収まらなかった。これだけ尽力しているというのに、何故あのような疑われ方をされなくてはいけないのか。自らの失敗で平民に落とされ、そこから引き上げてやろうというのに、酷く踏み躙られた気がして苛ついた。息子の李豊

が江州の太守でなければ、あのような薄汚い老人の相手などしていないのだ。敢えて触れはしなかったが、終始呼び捨てにされていたのも気に入らなかった。

 それでも利用価値がある内は我慢するべきだ。蔣琬を追い落とすことができれば、次は李厳を追い落としてやればいい。

 夜になってから、屋敷に費禕がやって来た。いつものように闇に忍んでという風だが、李厳の手の者に見られていることに気付いていない費禕がとんでもない間抜けに見え、また腹が立ってきた。

「どうかなさいましたか、楊儀殿。あまり機嫌がよろしくないようで」

「お前はいつまでそうやってこそこそとやって来るのだ。同じ軍人同士なら、堂々と来ればよかろう」

「それは、いつものことですから」

「李厳の手の者に見られているぞ。それで、私が蔣琬と通じているのではないかと疑われていたわ」

「李厳殿と会われたのですか」

「その話はしておらん。私の屋敷に来る時は、密かにではなく堂々とやって来いと言っているのだ」

「わかりました」

 費禕が気を落としながら返事をし、持参してきた酒を杯に注いた。

 楊儀は費禕が持ってくるこの酒が好きだった。飲んでいると気持ちが晴れ、飯が美味く感じられた。そして、よく眠れた。

 口に含んだその酒の風味が、何かに似ていると思った。昼間に行った李厳の家に、同じ匂いが漂っていたことを思い出した。

「これには麻が入っているのか」

「そうです。今、お気づきでしたか」

 昔から、麻は吸わなかった。体が煙を受け付けないのだ。

「麻はお嫌いでしたか」

 費禕が機嫌を伺うように言った。

「煙は好かん。しかし、この酒は嫌いではない」

「それは良かった」

 費禕が顔を明るくした。李厳から疑われ、費禕からも疎まれるわけにはいかない。これまで何度も酒を飲み、良い関係を築いてきたのだ。

 しばらく宮中の話をした。黄皓が帝に大赦をするよう勧めている。長く続く戦乱で人口が減っているため、蜀の国力回復が思うようにいかず、罪人を解放して労働力にすることでそれを補おうということだったが、来敏と董允がそれに猛反対していた。裏では罪人の関係者から黄皓に賄賂が贈られていて、その銭が李厳に回ったりしているのだ。

 自然と話題は李厳のことに移っていった。

「李厳殿には、いつ会いに行かれたのですか」

 あまり答えたくないことだったが、既に酔いが回り始めていて、答えてもいいかという気になった。李厳から言われたことへの愚痴も聞いてもらいたかった。

「今日の昼間だ。お前と会っているのを知っていて、私が蔣琬と通じているのではないかと心配していた。李厳殿も、胆の小さいことよ」

「慎重であることは、悪いことではないと思います」

「それはそうだが、慎重過ぎて自分まで疑われてしまえばたまったもんじゃない。李厳はお前のことも疑っているというのに、呑気なことを言うな」

 言っておかしくなり、楊儀は大笑した。酔いが心地良いものになってきている。

「全くです、疑われるべきは李厳殿だというのに」

 費禕が、脈絡も無いことを言った。何故、李厳が疑われるのだ。少しだけそう思ったが、酔いのためそれ以上は考えられなかった。李厳の態度を思い返せば、疑われても仕方がないという気がする。

「仲間だというのに口が過ぎるぞ、費禕。しかし間違っているとは思わん。だから私は言ってやったのだ。李厳殿が魏国の臣であれば、かなりの出世ができただろうと」

 費禕が口の中の物を飛ばしながら笑った。もうそれが不快に思わない程、楊儀も酔っていた。

「それが蜀では、出世どころか平民に落とされてしまいましたな」

「魏軍にいれば、ちょっとした将軍くらいの地位は貰えたのではないか。司馬懿がいないと何もできない郭淮のような者が将軍をやっているくらいだからな」

「司馬懿は確かに手強かったですが、それ以外の者は無能ばかりでした」

「司馬懿の手下だった辛毗も愚かであった。小細工を打ち、最後は王平に両足を飛ばされたのだからな。それで王平は鼠を捕まえた猫のように、その足を私のところに持ってきたのだ。すぐに捨てろと叱りつけてやったが」

 そのことを思い出すと、しばらく笑いが止まらなかった。世の大半の者が、愚かな者なのだ。文字の読めぬ者など、猫と同じでいい。

「戦に勝っても歩けなくなったのでは意味がありませんな。ところで楊儀殿が辛毗なら、司馬懿にどのような献策をされていましたか」

「そうだな、一つ秘策があるぞ。私を調略するのだ。黒蜘蛛を使って密かに接触し、然るべきものを与えてくれるならいつでも寝返ってやったが、辛毗はそれを思いつきもしなかっただろう。だから、無能だ」

 言って楊儀がさらに笑うと、費禕も遅れて笑い声を上げた。不穏なことを言っているが、同じ戦塵を浴びた者同士で酒を飲んでいるのだ。これくらいは何の問題もない。

「それで成都に帰還すれば閑職なのですから、たまりませんな」

「それよ、費禕。丞相が死んだ後に大きな分岐点があったのだ。成都に戻って閑職に就けられるとわかっていれば、私は成都に帰らず魏軍に降っていた。そこまで読めなかったのが私の誤りだった。漢王朝の復興という大義を失った蜀に、女々しくも未練を持ってしまったのだ」

 心の底から、溜まっていた言葉が次々と出てきた。いつもより酔っているが、他に聞いている者は誰もおらず、心配することなど何もない。

「楊儀殿は、いずれ蜀は魏に併呑されるとお考えですか」

「それはされるであろう。あれだけ戦をやって勝てなかったのだ。呉との同盟もいつまで続くかわからん。これでいつまでも蜀が続くと思う方がおかしいではないか」

「それで、魏軍に降るべきだったと」

 費禕が笑いながら言った。顔は笑っているが、目は笑っていないように見えた。さすがに楊儀は不安になってきた。

「何を言いたい、費禕。酒の席での冗談ではないか」

「いや、他意はございません。少し酔いが過ぎたようですな。この話はこれくらいにしておきましょう」

 不安になったが、費禕は自分のことを心配してくれているだけではないか。楊儀は心の中でそう言い聞かせた。

「お前の持ってきた酒が良すぎたのだ」

 自然と言い訳染みた言葉が口から出てきた。

 費禕が話題を変えて囲碁の話をし始めたが、心に芽生えた不安が徐々に大きなものになってきて、楊儀は空返事ばかりをしていた。不安が大きくなっていくのは、酔いのせいでもある。

 言ってはいけないことを言ってしまったのかもしれない。しかし酔いで頭が回らず、どの程度のことを言ってしまったのかも判断できなかった。不安が募り、その不安を紛らわせるためさらに杯を重ねた。

 いつの間にか寝ていて、目覚めた時には朝になっていた。費禕の姿はない。酔いが抜け切れておらず、頭がまだ惚けている。

「旦那様」

 ふらつく足で厠に行こうとしていると、女中が呼びに来た。

「郤正という方がお見えです」

「郤正だと」

 珍しい客だった。蔣琬の側近の一人で、句扶と繋がりのある男だ。

「待たせておけ」

「しかし、今すぐにと」

 女中の様子がおかしい。何をこんなに怯えているのだ。

 楊儀は厠に行くことも忘れて表に出た。朝日を背にして影になった郤正が、五人を従えて楊儀を待っていた。

「何用だ」

 言いながら、楊儀は昨晩のことを朧な頭で思い返そうとした。言ってはいけないことを言ってしまったのは、何となく憶えている。

「蔣琬様がお呼びです。御同行願います」

「用件を言え」

 強気で言ったが、まだ若い郤正の不敵な視線とぶつかり、楊儀はたじろいだ。

「用件は、蔣琬様がお呼びだということです」

「小僧、私が誰だかわかってものを言っているのか」

「成都第二軍軍師であられる、楊儀様です」

 郤正が顔色一つ変えずに言い、楊儀はわざと音を立てて舌打ちをした。この種の者にはどんな恫喝も通じない。

「わかった。行こう」

「ありがとうございます」

 身を正してから、郤正と五人に囲まれ政庁へと向かった。歩き方から、全員が蚩尤軍のような忍びの者だとわかった。蔣琬が自分を呼び出した理由は、昨晩の発言が原因なのか。だとしたら、費禕も連行されているのだろうか。それとも李厳が言っていたように、費禕は始めから蔣琬と通じていたのか。なら来敏と口論をしていたのも、見せかけの演技だったいうのか。疑問は次々に浮かんできたが、昨晩からの酔いが尾を引いていて思考が途切れ、明確なことは何も紡ぎ出せなかった。

 一礼して、蔣琬の執務室に入った。昔はここで諸葛亮の片腕として働いていた。諸葛亮が死んでからここに来るのは初めてだった。

 窓に向かって背を向けていた蔣琬が振り返り、椅子に腰を下ろした。その傍らに郤正が立ち、残りの五人は楊儀の背後に立った。

「これはどういうことですか、蔣琬殿」

 蔣琬が、少し頭をかしげた。

「聞くところによると、ずいぶんと不満があるようではないか、楊儀。一度、考えていることを全て直接聞かせてみろ」

 楊儀の中で、何かがかっとした。この若造に、そんなことを言われる筋合いはない。

「これはまるで訊問のようではないですか。そういう話をするのなら、酒の席でも設けてですね」

「費禕とそうしたように、と言いたいのか」

 言われて楊儀は息を飲んだ。蔣琬は全て知っているのだ。ならばやはり費禕は始めからあちら側だったのか。昨晩の会話が筒抜けなら、自分の立場はかなり危ういものになる。

「何を言いたいのだ、蔣琬殿は」

「魏に降りたいそうではないか。そんなことを言う者を軍師に据えておくわけにはいかん。任命責任を問われてれしまうことになるからな」

 蔣琬が顔をにやつかせながら言った。馬岱を責めたことへの皮肉を言われている。

「何のことだかさっぱりわからん」

 頭が朧で気の利いた言葉が出てこなかった。

「そうか、わからんか。費禕、入って来い」

 費禕が入ってきて、郤正の反対側に立った。費禕の目が、露骨に自分のことを敵視している。

「費禕、おのれ謀ったな」

「楊儀殿、昨晩のことはさすがに私でも擁護しきれません。だから、蔣琬に伝えておきました」

 楊儀の頭に沸々と血が昇ってきた。思えば、昨晩の酒はいつもよりきつかった。あれは自分を嵌めるための罠だったのか。

「お前だって不満を並べていたではないか、費禕。何故、私だけが咎められなければならないのだ」

「不満があることは構わん。これだけの人がいて、不満を持つ者が全くいないという方がおかしいだろう。お前が昨晩言っていたことは、不満ではなく叛意ではないか」

 蔣琬が卓に両肘を突きながら淡々と言った。

「酒の席だったのだ。酔っていて思ってもいなかったことを口走ることもあるではないか」

「酔っていたからこそ、心の底で思っていたことが口から出たのだ。これはどんなに言い繕おうと、見逃せるものではないぞ」

 背後から、五人の忍びが一歩近づく音がした。

「ふざけるな。私は北伐で功を立てたのだ。それで私が出世するのが面白くなくて、こうして罪人に仕立て上げようというのだろう」

「何が功だ。諸葛亮殿が死なれてから、お前はすぐに軍を分裂させたではないか。それも、お前のつまらん我儘によって」

「それは魏延が」

「魏延殿はお前の我儘を止めようとしたのだ。その魏延殿を殺し、成都に戻ればまた我儘だ。まるで子供ではないか。それも、大きな力を持った、恐ろしい子供だ。お前のような者が大きな声を上げる時、国は滅びるのだ」

 何を言われているかわからなかった。何故、自分が国を滅ぼす者だなどと言われているのだ。臣が出世を望むのは、当然のことではないのか。

「私は諸葛亮殿のように甘やかしはしないぞ、楊儀。お前は分をわきまえることを知らん。欲に任せて自分の能力以上のことをやりたがり、足りない部分は虚勢で補おうとする。それでお前の周りの者を巻き込んで、そこになかったはずの不幸を振りまいているのだ。お前のことをこれ以上使うことはできん。首を落とすぞ」

 楊儀は凍りついた。つい昨日まで、楽しく酒を飲んでいたのだ。それがどうして、今日になって打ち首なのだ。

「蔣琬殿の言っていることはわかった」

 わからなかったが、とりあえずそう言っておくことにした。

「しかし打ち首はやり過ぎではないか。確かに私に落ち度はあるが、私のしたことと馬謖のしたことが同等だとは思えん」

 馬謖は大軍を預けられ、諸葛亮の命令に背いて大敗を喫した。その後に処断された馬謖を訊問したのは、楊儀だった。

「そういうことは自ら言うものではないであろう。こういう時に人の本性が出るというが、無様なものではないか」

 言いたいように言わせておけばいい。ここは打ち首を回避することに全力を注ぐべきだ。そうすれば、黄皓の画策する大赦で許しを得ることができるかもしれない。

「平民だ、蔣琬殿。御子息の蔣斌殿も命令違反を犯したが、打ち首ではなかったではないか」

 蔣琬が少し肩を動かして反応した。ここは、蔣斌の名を出して反撃すべきだ。

「不公平だ。一国の宰相ともあろう者が、肉親には甘く、それ以外には厳しくするのか」

「自らに落ち度があった、と言ったな」

「あった。それは認めよう」

「ならば審議しよう。それが終わるまでは牢に入っていてもらうぞ」

 背後から腕を拘束され、そのまま地下の牢に放り込まれた。

 それから数日間、光の乏しい牢の中で過ごした。こんな扱いを受ける時が来るとは思ってもいなかった。

 暗闇の向こうから黄皓が現れて助けてくれることに期待したが、いつまで待ってもそれはなかった。宦官風情に、そんな根性があるはずもないと思い直した。それどころか、下手を踏んだ楊儀のことを、黄皓と李厳は笑っているかもしれない。逆にその二人のどちらかが牢に繋がれていれば、無能だったのなら仕方がないと笑いながら見捨てていたことだろう。

 なら自分は無能なのか。違う。卑劣な罠に嵌ってしまったのだ。悪いのは、卑劣なことをする者の方に決まっている。

 蔣琬が憎い。自分を嵌めた費禕はもっと憎い。打ち首を免れ平民になり、大赦によって復帰することができれば必ず復讐をしてやる。必ず、この仕打ちをしたことを後悔させてやる。

 牢から出されることになった。地下にいたため日の経過がわからなかったが、恐らく十日は経っている。

 申し渡されたのは、西方の漢嘉郡への流刑だった。蔣斌のことがあったせいか、打ち首を回避することはできた。とりあえずはそれを良しとすることにし、蔣琬の決定に大人しく従おうと思った。生きていれさえいれば、いつか復帰する機会は来る。全てを失い、それだけを胸に、楊儀は西へと護送されていった。

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