王平伝 9-10

 人里離れた山の岩肌に、一人の痩せ細った若者が口をぽかんと開けて立っていた。陽の光が眩しいらしくその男は目を細め、見知らぬ地に辿りついた旅人のように辺りを見渡していた。今のこの若者にとっては、空を飛ぶ小鳥すら不思議なものに見えているかもしれない。

 その目が岩に腰かけていた句扶を認め、ゆっくりと近付いてきた。

「お前の名は、何だ」

 若者は少し考える表情をし、手の腹で目を擦りながら答えた。

「…郭循」

「自分の名は忘れていないか。なら、郭奕は」

「郭…奕」

 呟いた郭循は顔を歪ませ両手を手につけ、嘔吐し始めた。ほとんど何も腹に入れてなかったため口から何も出てこず、黄色く粘ついた液が口から垂れ下がるだけだった。

 苦悶を浮かべる郭循の顔に、句扶は水の入った袋を投げつけた。袋の口を開けた郭循は、体が乾いた馬の如く、喘ぎながら水を貪り飲んだ。

 拷問の成果は上々だった。光の無い洞穴に閉じ込め一年以上かけて郭循の心を壊し、今や郭奕の名前を聞くだけで体が拒否するまでになっていた。元黒蜘蛛だったこの男は、どこかで役に立つはずだ。

「ついて来い」

 長い監禁のせいで弱まった足腰で、郭循はよろよろとついてきた。近くの村でたまった垢を落とし、粥を食わせた。それで幾らか力が出てきたようだ。

「私は、今までどこにいたのですか。よくわからない所で、あなたの声だけは常に近くにあったという気がする」

 句扶は郭循の顔をじっと見た。優秀な忍びであれば、これすら演技であるかもしれない。見たところ、その心配はないと思えた。あの拷問に耐え切れるほど、この忍びは優秀ではない。

「俺は、句扶だ。この国で忍び働きをしている」

「句扶。昔、聞いた覚えがある」

「余計なことはいい。俺の言うことを聞いていれば、心配することは何もない。食ったら漢中に行くぞ」

 二人は村を出て北へ向かった。郭循の遅い歩みは、肉を食って数日歩いていれば元に戻るはずだ。

「私はこれから何をするのですか」

「働いてもらう。漢中に行き、お前は商いをやるのだ」

「商い、ですか」

 短い会話を、ぽつりぽつりとしながら歩いた。今の郭循の心は空になっているはずだ。その空っぽの中に、句扶の言葉を詰め込んで満たし、蜀の忍びとして息を吹き返らせる。もし上手くいきそうになければ、死を与えるだけだ。

 漢中に着くと趙広が出迎えに来て、後ろにいた郭循を目にして顔をはっとさせた。

「句扶様、こいつは」

「漢中で使うことにした。郭循、この男を覚えているか」

 思い出そうとしているのか、郭循は顔を顰めさせていた。

「何も覚えていないというのか」

 趙広の問いに、郭循が頷いた。

「お前の部下がやっている酒屋でこいつを働かせろ。どう使っていくかは、これから決めていく」

 忍びが絡んだ商人は、蜀国内に幾らかいた。そうやって何か不穏なものがないか常に目を配らせているのだ。

「どういうことかわかりませんが、やれと言われるのならやります」

 郭循は物分からぬおぼこの様な顔でそう言った。趙広は部下を呼び、郭循が連れて行かれた。

「あいつ、大丈夫ですか」

「俺が信用ならんと言うのか、趙広」

「そうは言いませんが」

「郭循のことはもういい。次の仕事だ。近い内に、蔣琬殿が二万を率いて成都からやってくる。俺たちは、その下準備をしておく」

 趙広の顔に緊張の色が走った。

「漢中に忍び込んだ黒蜘蛛を、一度炙り出しておけ。多少強引な方法でもいい。それと、呉懿の周りを早急に洗え」

 毎日の行動を調べておけということだ。暗殺の前の下調べと言っていい。趙広は何も言わず頷き、姿を消した。

 句扶は町人の姿で頭巾を深く被って漢中の街を行き、黄襲の飯屋に入った。すぐに黄襲の妻がやってきて、何も言わずに句扶を一番奥の部屋に導いた。周囲に他の客を寄せ付けないその部屋に、王平が座って待っていた。

「久しいな、ここで話をするのは」

 王平が微笑みながら言った。

「私にとっては、片目を失った嫌な場所ではありますが」

 句扶も少し頬を上げて答えた。蚩尤軍の頭領として誰からも恐れられるようになった句扶が、唯一気を許せる相手が王平だった。

 黄襲自身が焼いた羊の肉と酒を持ってきて配膳し、少しの言葉を交わしただけで退出していった。元は軍人だった黄襲はよくわかっているのだ。密談をするなら、やはりここが一番いい。

「蔣琬は成都で苦労しているようだな」

「李厳と楊儀は始末しました。手強いのは黄皓で、帝の庇護下にあるため密かに消すということができません。蔣琬殿は、もう成都が嫌になったから漢中に行くと言っていました」

「そうか、嫌になったか。あいつらしいな」

 笑いながら王平は酒を呷った。句扶も焼いた肉を口に入れた。普段は食べ物を気にすることのない句扶だが、ここの肉だけは素直に美味いと思う。

「王平殿も、呉懿には悩まされているようで」

「頭の固い老人だ。あの人が漢中太守でなければ、馬岱殿は死ななくてよかった。俺にはそれが悔しくてならん」

「呉懿は、暗殺します」

 王平の杯が止まった。句扶は何でもないようにまた一切れの肉を口に入れた。

「蔣琬からの密命か」

「蔣琬殿が漢中に来れば、一番の敵は魏でなく、呉懿になるだろうと認識されています」

「お前が来ると聞いて、そんなことではないかと思っていたよ。それにしても、蔣琬は大胆な男になったものだな」

「同じ蜀の臣として、味方を殺すことに抵抗はありますか」

「そんなことはない。敵は属する国によって色分けすべきでないと、北伐を通してよくわかった。お前が李厳と楊儀を消したと聞いて、俺は心の中で喝采したよ。欲ばかりで動く者がでかい声を上げる世など、つまらんものだ」

「呉懿も、そういう人物ですか」

「大きな欲はない。老い先短い余生に波風を立てなければ、それでいいと思っているのだ。それを欲と言えば欲なのだが」

「太守の立場を利用してそうしているなら、早く消した方がいいですね。死ぬまでが世だと思っている老人に力を持たせるべきではない、と私は思います」

「その通りだ、句扶。それで後に困るのは、蔣斌や趙広のような若い者たちだ。そして、句安も」

 句扶が、左目を隠す蚩尤の眼帯をぴくりと動かした。句安は妓楼の女が産んだ句扶の子で、今は八歳になっていた。

「句安のことを知っているのですか」

「お前の子のことだ。漢中にいて知らんはずがなかろう。句安のことは、話しておかなければならんと思っていた」

 北伐で多忙になってから、女に銭を送れなくなっていた。全く忘れていたわけではない。あの女なら上手くやってくれているだろうと、何となく思っていた。

「句安の母は、呉懿の側近である李福に囲われている。悪くは思わないでくれ。これは俺が口を挟めるようなことではないのだ」

「悪くなどと」

 呉懿の側近に囲われているのなら銭に困ることはないだろう。自分が思っていた通り、あの女は上手くやっているのだ。妬みのような感情はない。子を産ませたのは、ただ子を残してみたいと思ったからだ。

「昨年、李福の子を産んだ。それで句安から母の情が遠ざかっているようなのだ。それが些か心配でな」

「そうでしたか」

「すまんな、お前には王訓が世話になったというのに、俺は何もしてやれそうもない」

 耳に入れてくれるだけで良かった。これは軍団長である王平より、忍びである自分の方が何とかできることだろう。

「礼を言います。それより呉懿の話です。呉懿の一日の行動を、知っている限り教えてください」

 呉懿は一日のほとんどを政庁で過ごしていること、軍の視察は稀で月に一度程だということ、夕食の際には必ず酒を飲むということを王平は詳しく述べた。さすがに王平は忍びの仕事をわかっていて、その話は一々要点を押さえていた。

「いつも飲んでいる酒は、成都から送られてくるものだ。そこが一つの狙い目になるかもしれん」

「わかりました」

 趙広に今の話の裏を取らせれば、呉懿の暗殺はすんなりと終わらせることができると思えた。難しいところは、周囲に暗殺だと思わせてはならないところだ。蔣琬の差し金で呉懿の暗殺が行われたと露見すれば、蔣琬は呉懿に近しい者からの報復を受けることになるだろう。それは避けなければならないことだ。

 句扶は王平と別れて黄襲の飯屋を出た。その足で、漢中の政庁へと向かった。成都のように、大きな建物があるわけではない。最低限の機能を備えた三つの棟があり、表には幾頭かの馬が繋がれていて、その敷地の隣に呉懿の屋敷があった。そのさらに隣には、李福の屋敷もある。

 もう暗くなった道を、なるべく人と行き交わないように句扶は歩いた。李福の屋敷の前まで来た時、中から声が聞こえてきた。

「まだ終わらんのか、句安」

 それに対しまだ幼い声が、もう少しです、と返事をしていた。

 句扶は周りに注意を払いながら塀に手をかけ、中を覗き込んだ。句安と呼ばれた男の子が、小さな松明の光の下で薪を割っていた。あれが、俺の息子か。そう思った時には、塀を乗り越え中に忍び入っていた。

「あとどれくらいなの、句安」

 屋敷の中から見覚えのある女が出てきた。句扶は闇の中に隠れながら凝視した。その女の腕には、小さな赤子が抱かれていた。

「あと、二十くらい」

「早くやってしまいなさい。さもないと何も食べさせないよ」

「うるさいな、やってるよ」

「なんなの、その口の利き方は」

 女の後ろから、男が姿を現した。李福だ。李福の姿に促されるように、女はさらに声を荒げた。

「うるさいとは何なの。仕事も碌にできないくせに。父上に謝りなさい」

 仁王立ちした李福が、腕を組んで小さな体を睨むように見下ろした。句安はそれに目を合わさず顔を俯けていた。

「そういう言葉遣いは許さんと言ったはずだ。言っただけではわからんのか」

 李福の蹴りが飛び、句安は尻から倒れた。句扶は思わず、あっと声を出しそうになった。

「働かなければ飯は食えん。屋根の下で眠ることもできん。そんな簡単なこともわからんから、そういう言葉が出てくるのだ」

 句安は立ち上がり、黙って薪割りの続きを始めた。

「きちんと物の道理を教えておけ。道理がわからんというのならこの屋敷から追い出すぞ」

 李福が女にそう言い、屋敷の中に姿を消した。怒鳴り声で赤子が泣き出し、それをあやしながら女も中に入って行った。外には、松明に照らされた寂しげな句安の影だけが残った。

 句安は薪を集めて抱え、薪置場まで運んだ。句扶は人気がないのを確認し、すっと句安の前に歩み出た。

「だ、誰」

「心配するな。悪い者ではない」

 句安は驚いていたが、怯えの色は見せていなかった。薪割りのせいか肩の肉はしっかりとしていて、句扶にはそれが悲しいものに見えた。句扶は腰を落として座り、句安の視線に合わせた。

「父上のことは好きか」

 李福のことである。句安はしばらく句扶の目をじっと見ていた。そして、首を横に振った。

「母上は、好きか」

 句安は黙っていた。もう一度聞くと、言った。

「わからない。でも、仕方ない」

 好きになれないけど仕方ない、ということなのだろう。

「新しい父上が怒るから、母上のことは仕方ない」

「何故、父上は怒るのだ」

「僕のことを好きじゃないから」

「そうか」

 抱えていた薪を置かせ、句扶は句安の手を取った。小さなその手に、まめが潰れた跡が幾つもあった。

「その目はどうしたの」

 句安が左目の眼帯を指差して言った。句扶は眼帯をはずして空洞になった左目を見せてやった。

「うわあ」

 言って句安は気持ち悪がった。その素直な反応を見て、句扶は少し笑った。そして眼帯を付け直した。

「痛かった?」

「お前の手よりは痛かったかもしれんな。仕事で失敗をしたのだ。あれは、お前が生まれて間もない時のことだった」

「おじさん、僕のことを知ってるんだ」

「ああ、知っているとも」

 屋敷の中から誰かが出てくる気配がし、句扶は咄嗟に句安の口を塞いだ。

「俺がここに来たことは誰にも言ってはならん。約束できるか」

 句安が小さく頷いた。

「句安、何をしてるの」

 女の声が近づいて来た時には、句扶は既に闇の濃くなった塀の上に溶け込んでいた。

「こんな所で油を売って、早くしてって言ったでしょ」

 句安の頬がぴしゃりと叩かれた音がした。それを横目に、句扶は屋敷を後にした。

 王平が心配していたことがわかった。しかし句安が嫌な思いをしているからといって、自分が何かを偉そうに言える立場ではなかった。自分は子が産まれた直後に少しの銭を送っただけで、子育てについては何もしていないのだ。

 句扶の父親は、まだ幼かった句扶を毎日殴り、盗みをさせた。体を弄ばれたこともある。それで自分の身を守るために、父を殺した。忘れようと思っても忘れられない、幼いころの嫌な思い出だ。

見たところ、句安はそこまで酷い目に遭っているわけではない。昔の自分よりははるかにましじゃないか。句扶はそう思い定めることにした。

 五日して、趙広が呉懿の洗い出しを終えたことを報告してきた。その報告と王平の言っていたことはほぼ一致していた。呉懿を殺すのは、やはり酒を使ったやり方が良さそうだった。

「俺が酒の樽を空にしてくる。お前は時を見て、酒を売りに行け。使うのは、麻を溶かし込んだものだ」

 楊儀を嵌める際に、費禕に渡したものと同じ酒だ。この酒を飲めば強く酔うが、死ぬことはない。

「酩酊させるだけでいいのですね」

「酒に毒を入れれば毒見をした者も死ぬ。死因は酒だと思わせてはならん」

「呉懿は麻を吸いません。二杯も飲めば深く眠るはずです」

「酒を売る準備をしておけ。俺は呉懿の屋敷に忍び込んで来る」

 趙広は頷き出て行った。

 夜が更けるのを待ち、句扶は呉懿の屋敷に忍び込んだ。難しいことではない。ここは蜀国内で、黒蜘蛛がこの屋敷を守っているわけではない。

 誰もいない調理場に屋根裏から音も無く降り立ち、酒が入った樽の木の継目に刃を立てた。抜くと、酒が漏れ出て床に広がった。朝になれば樽は空になっているはずだ。

 翌日、呉懿の屋敷に酒を売ったと趙広が伝えてきた。何も知らない郭循が懸命に売り込み、屋敷の家人はそれに押されるようにして買ったのだという。

 今度は趙広を連れて、呉懿の屋敷に再度忍び込んだ。句扶らが潜む真下では、呉懿が李福を招いて酒の相手をさせていた。運が良い、と句扶は思った。これなら酒を二杯以上は口にするはずだ。

「庶民の酒を飲むとは、呉懿様にしてはお珍しいですな」

「たまには民が飲むものも知っておかねばと思ってな」

「流石は呉懿様です」

 そんな会話が聞こえてきた。見栄を張っているのか、樽から全て流れ出てしまったことは言っていないようだ。そのことを李福に知られないのも、句扶にとっては都合が良かった。

「なら私が毒見をしましょう。呉懿様は大物ですから、いつ魏の輩が毒殺を狙ってくるかわかりませんからな」

「毒見はもう家人にさせてある。少し強い酒だと言っていた」

 句扶は、呉懿に媚びを売る李福を見て、こんな奴のところで句安は暮らしているのかと不快になった。

「これは、麻の香りがする酒ですな」

 句扶と趙広は目を見合わせた。

「ほう、麻の酒か。今時の庶民はそんなものを好むのか」

「おかしな酔い方をするかもしれませんが、飲まれますか」

「民が飲めて儂が飲めないということはなかろう。もし明日に酔いが残れば政庁には病だと伝えておけばいい」

 二人が酒を口にし始めた。それを見て屋根裏の二人は胸を撫で下ろした。

「酒が原因で出仕しないと知られれば、また王平あたりが怒ってきそうですな」

「酒の席であの男の名を出すな。まったく文字も読めん野蛮人のくせに、儂に偉そうに意見してきおって」

「馬岱が討たれたことを呉懿様のせいにしようとしていましたな」

「そうだ。自分が作戦に失敗しただけなのに何故儂のせいになるのだ。自らの誤りを人のせいにしようとするからあいつは野蛮人なのだ」

 下の二人はしばらくそのように談笑をしながら杯を重ね、時が経つにつれ酔いが深くなってきたのか口数が少なくなってきた。李福が料理の乗った卓に突っ伏し、呉懿がふらつく足で立ち上がり厠に向かった。梁を伝い、二人は呉懿の後を追った。

 夜が更け家人がほとんど寝静まった屋敷内である。殺害するなら、ここしかない。

 厠の外で呉懿が出てくるのを待った。頭が朦朧とする呉懿を誘導して井戸に落とせば、水を飲もうとして落下したのだと誰もが思うだろう。周囲の人の気配に注意しながらじっと待った。

 しかし呉懿はいつまで経っても出てこなかった。句扶は不審に思い厠に近付いてみると、中から鼾が聞こえてきた。中に入ると、尻を出した呉懿の体が厠の床に横たわっていた。

 句扶は趙広に目で合図した。句扶は着ていたものの袖を破り、手洗い桶の水でそれを濡らし、それで呉懿の口と鼻を覆って後ろで縛った。呉懿の体は、趙広が羽交い絞めにしている。

 呉懿が苦しそうに呻き始め、目を覚ました。激しく首を振ったが、口と鼻を塞いだものははずれない。一頻り暴れると、呉懿の体から力が抜けた。それでも趙広はしばらく羽交い絞めを解かず、句扶が脈を取って死んだのを確認してから体を解放した。厠の床に、寝ていた時と同じように呉懿の体が横たわった。句扶は死体の見開いた目を閉じ、屋敷から抜け出した。

 朝のなると漢中から南に向けての早馬が飛んだ。呉懿急死の報である。呉懿は厠の中で死んでいて外傷はなく、酒の飲み過ぎで心の臓が止まったのだろうという話になっていた。

 句扶にとって呉懿の死は、虫が一匹死んだことと変わりなかった。証拠を残さず殺せて良かったというのが少しあるだけで、それ以上のものはない。

それより句安のことが気になった。呉懿が死に、蔣琬が漢中に来ることになる。呉懿の側近だった李福は、必然的に政庁内での力を弱めるはずだ。それが句安に悪い影響とならないだろうか。

 呉懿の葬儀が終わり、李福は成都から謹慎を命じられた。呉懿が死んだ時に一番近くにいたということで、嫌疑をかけられているのだ。殺したのが李福でないにしろ、呉懿の近くにいながらその死を防げなかったことには少なからずの責任が生じるからでもある。

 蔣琬は呉懿の死の真相を知っている。知っていて李福に謹慎を命じたのは、蔣琬が漢中に入る前に呉懿に近かった者らの力を削ぐためだった。

 李福が荒れている、と部下から聞いて、句扶は自ら屋敷まで様子を見に行った。蔣琬の思惑が李福に見抜かれているか確認しておく必要がある。だがそれはほとんど建前で、句安のことが気になったのだ。

 李福の屋敷に着くと、中から王平が出てきた。句扶に気付き、話かけてきた。

「李福のことは心配するな、句扶。呉懿の死について怪しまれていることは何もない」

「中で何を話されていたのです」

「呉懿がすべきだった仕事の引継ぎの話だ。李福の様子を探るためでもあったのだがな。あれは事実無根の嫌疑をかけられ苛ついているだけで、それ以上のものはない」

「ありがとうございます。手間が省けました」

「句安のことも見てきた」

 句扶は行こうとした足を止めた。

「もう、ここから離しておいた方がいい。山がいいな。蔣斌がそうしているように」

 そう言い残し、馬を歩ませ王平は去って行った。山か、と句扶は呟いた。

 句扶はするりと塀を越え、庭の木陰に身を隠した。屋敷内に動く人の気配を伺っていると、句安が出てきた。幾らかの薪を抱え、風呂焚きを始めようとしていた。

「まだか、句安」

 中から李福の声が聞こえた。

「これからやります」

「これからだと」

 風呂に入るつもりだったのか、薄着の李福が外に躍り出て句安を張り倒した。庭に、句安が抱えていた薪が散らばった。

「お前の言葉は一々癪に障る。俺は今、気が立っているのだ。その気を逆撫でするようなことを言うんじゃない」

 李福は倒れた句安を叩いた。屋敷の廊下に赤子を抱いた女の影が見えたが、その影はすぐに中へと消えていった。句安は叩かれながら、じっとその影を目で追っていた。

 李福はしばらく叩いて満足したのか、息を切らせながら中に戻って行った。句安はよろよろと立ち上がり、薪を集めて火を熾そうとしていた。

 句扶は茂みから茂みに動いて句安に近付き、姿を見せた。泣きべそをかいた句安の顔があっとしていた。

「俺のことは誰にも話していないか、句安」

 句安は、うんと頷いた。

「よし、いいぞ。俺は、お前が泣いているのを見て、助けに来たのだ」

「どうするの」

「ここが嫌なら俺が連れ出してやる」

「もう、ここは嫌」

 句扶は句安の手を取った。

「なら、行こう。俺のことは恐くはないか」

「おじさん、悪い人なの?」

 句安が不思議そうに言った。八歳の子の純朴さに、句扶は苦笑した。

「いや、悪い人ではない。俺はお前の味方だ。いつまでも、お前の味方だ」

「なら、行く」

「母とは違う所で暮らすことになる。それでもいいか」

 句安は少し考える顔をし、頷いた。

「火は点いたか、句安」

 中から李福の怒鳴り声が聞こえた。

「行こう」

 句扶は句安の体を抱き上げ、屋敷から出た。自分の息子を抱いてやるのは、これが初めてだと思った。

 二人して漢中を出て、西の山中に入った。途中で日が落ち、句扶は枯れ木を集めて火を熾し、懐の干し肉を焙って句安に渡した。

「今頃、お前の母上は慌てているかもしれんな」

 言いながら、句扶も焙った肉を齧った。

「そんなことない。母上は僕のこと邪魔だと思ってるから」

「何故、そう思う。母上はそんな酷いことを言うのか」

「新しい父上と住むようになって、僕のことが嫌いになったみたい」

 よくあることだ、と句扶は思った。

「前の父上はどうしたのだ」

「戦で死んだって母上が言ってた」

「そうか。腑甲斐の無い男だったのだな」

 句安が顔を背けた。

「僕が小さい頃だったからよく分からないけど」

 焚火がぱちりと音を立てた。辺りは真っ暗な山中である。それで不安になったのか、母と別れたことが寂しいのか、句安は膝を抱えて静かに泣き始めた。句扶はその小さな背中を撫でてやった。それでも焚火の温かさが心地良かったのか、気付けば句安は眠りに落ちていた。

 句扶は句安の体を背負い、火を消して夜の山中を出発した。夜目は効き、星を見れば行く方角はわかる。山中のわずかな目印を頼りに進み、日が昇り始めた頃に魏延の幕舎に辿りついた。

 既に魏延と蔣斌は起きていて、朝餉の用意をしていた。二人は手を上げて句扶を迎え入れてくれた。句安は、まだ背中で眠りの中にある。

「魏延殿。申し訳ないが頼みがあります」

「王平から聞いている。その背中の小さいのはお前の子供だな」

 句扶は頷き、句安を魏延に預けた。魏延が既に知っているということは、前から王平は魏延にこのことを相談していたのかもしれない。

蔣斌が水の椀を渡してきたので、それを一息で飲み干した。

「この子は、自分の父は戦で死んだと思っています。本当のことを言う必要はありません」

 忍びなら、いつ死に直面するかわからない。なら始めから死んだことにしておけばいい。

「まあ、好きにするさ。これから朝飯をつくるから、お前も食っていけ」

「いや、いいです」

 句安が起きる前に離れたかった。既に、忍びには無用の情が湧き始めているのだ。実の父としてやれることは、これで十分だろう。

 句扶は来た道を蜻蛉返りで帰った。蔣琬が来る下準備はこれで整った。句安のことで心が乱れていたが、これでもう乱れることはない。李福に囲われた女にももう興味はない。抱いたのは八年以上も前のことで、既に名すら覚えていないのだ。

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