王平伝 8-4

 辛毗に従い武功水を渡った。

 前と同じように、蜀軍の兵が出迎えに来た。当然、友好的な雰囲気ではないが、忍びからの刺す様な視線は無く、前回程の命の危険はなさそうだと郭奕は判断した。

 漢の使者ではなく、魏軍からの使者という立場で五丈原を登った。武功の南に取り残された三万の将兵を人質としているのだ。自分たちを殺せばその三万を失い、五丈原の蜀軍は二万にまで減ってしまう。諸葛亮はそのことを熟知しているだろうが、この使者派遣に賭けの要素が消えたわけではない。しかし司馬懿は躊躇なく賭けた。それも、二度目である。

 蜀軍本営に近付くと、さすがに忍びの気配が強くなってきた。句扶の蚩尤軍は献帝の死を確認するため東に去っているため、ここにいるのは趙広率いる天禄隊のはずだ。

 句扶の蚩尤軍は手強いが、相手が趙広だけであれば忍び戦で圧倒できる自信がある。趙広は、句扶と組んでこそ力を発揮する男だった。趙広が無理にふっかけてこないのは、趙広自身が己の力量をよくわかっているからなのだろう。それを嘲笑おうとは思わない。忍びは、それくらい臆病なのが丁度いい。戦場での臆病さは、人を怯懦にするが、慎重にもさせる。趙広は後者の方で、それが黒蜘蛛にとっての手強さとなっていた。

「入ります」

 辛毗が声を張って言い、他の護衛を残して二人で幕舎に入った。

 諸葛亮が座っていて、傍らに楊儀と前回はいなかった費禕が侍っている。

「また会ったな、辛毗。生憎だが、まだ前に言っていたことの確証が取れておらん」

 言った諸葛亮の目は窪み、前に見た時よりさらに痩せているように見えた。あまり眠っていないのだろう。目の奥の光も弱くなっているという気がする。

「確証のことは構いません。本日は漢の使者としてでなく、魏軍からの使者として参りました」

 楊儀の顔が、あるかなきかの反応を示した。魏軍からの使者であれば殺せる、と思ったのかもしれない。費禕は顔色一つ動かしておらず、そこからは何も読めなかった。

「交渉です、諸葛亮殿。武功水に阻まれた三万を、五丈原に戻します。その代わりに、渭水北岸の羌軍二万に、領地に戻るよう言って頂きたい」

 諸葛亮はそれに何も答えず、楊儀が一歩前に出て言った。

「羌軍は漢王室の復興という志を我々と共有し、出張ってきているのだ。帝室からの勅令ならまだしも、魏軍に言われたから帰れなどと、言えるわけがなかろう」

「ではその羌軍は」

 辛毗がゆっくりと答えた。言葉を選んでいるのだと、郭奕は思った。

「その羌軍は、先日の戦で何故動かなかったのでしょうか。不本意ではありますが、あなた方にとって我ら魏軍は逆賊なのでしょう。なのに羌軍はその逆賊と戦おうともせず、蜀軍からも魏軍からも銭を貰い、あそこに居座り続けております。勤王を叫び、それを銭を得る手段としているならば、それこそ逆賊の所業ではありませんか」

 楊儀は言い返せず、ただ仏頂面をして両腕を組ませていた。辛毗は跪いていたが、腕を組む楊儀の方が小さく見えた。

 見かねたように費禕が前に出た。

「何故、三万を攻めないのですか。十万の軍をもって三万を壊滅させれば、残るは五丈原の二万のみです。司馬懿殿は、何故それをしないのですか」

 穏やかな言い方だが、嫌な質問だった。

 そうしないのは、諸葛亮を成都に逃したくないからだ。兵力が二万にまで落ち込めば、蜀軍は撤退せざるを得なくなる。そうなれば、諸葛亮を殺せなくなる。

「それは」

 辛毗はやはりゆっくりとした口調だった。答えるに難しい質問だった。費禕はこちらの真意を見越して聞いているのかもしれない。

「諸葛亮殿が、成都に御帰還となりますと、我らは困るのです。献帝陛下からの遺言を、諸葛亮殿に渡せなくなります」

「詭弁だ」

 楊儀が叫ぶようにして言った。諸葛亮が羽扇で楊儀の腹を軽く叩いて宥めた。費禕は静かに数度頷いただけだ。つまり狙いは諸葛亮の首にあるのだなと、費禕の眼が言っていた。

「その遺言とやらは、まだ渡してもらえないのですか」

「始めに申しあげました通り、本日は魏軍の使者として参っております。それに、献帝の死の確認にはまだ時がかかるとも、諸葛亮殿は仰っておりました」

「しかし、解しかねます。建前はよろしい。何故、そこまでしてその遺言を出し惜しむのでしょう。それには、どのようなことが書かれてあるのでしょう」

「今はまだ申し上げられません。遺言の内容を知っているからこそ言えないのです。これは、悪意があってのことではありません」

「主上の御意志を、お前の都合で出し惜しむのか。そんな身勝手な言い分で、我らが納得すると思っているのか」

「献帝陛下は寛大な御方でした、楊儀殿。これをここで言ってしまえば、私は殺されてしまうかもしれない。陛下はそれをよくわかっていて、私に温情をかけて下されました。だからこそ、遺言を伝えるかの判断は私に任せてくださったのです」

「死ぬことが恐いのか。戦陣の使者は死を覚悟してやるものではないのか」

「私の心積もりは、そうです。しかし、このことで死ぬなとも命じられました。それでも私を殺そうというのなら、それは受け入れなければなりません」

「なら、すぐに遺言を持って参れ。そのことでお前を殺さんと約束しよう」

 諸葛亮が、痰の絡んだ声で言った。風邪をひいているのかもしれない。

「しかし、先ずは確認を」

「もったいぶるな。蚩尤軍は、もう一両日で戻ってくるのだ。たかが数刻それが前後したところで問題はなかろう」

「これ、楊儀」

 諸葛亮の羽扇が、また楊儀の腹を打った。

 蚩尤軍の帰還はあと一両日。これは郭奕にとって重要な情報だ。

「わかりました。そこまで言われるのであれば、これより本陣に戻り、遺言書を取って参りましょう」

 それを聞いた楊儀が、言質を取ってやったという満足げな顔を見せていた。この言葉を引き出すために蚩尤軍のことを言ったのだとでも言いたげだった。馬鹿か、と郭奕は心の中で思った。遺言の渡しは、どの道すぐにやるつもりだった。

「お待ちください」

 費禕が言った。

「やはり、先ずは蚩尤軍の帰還を待つべきです。そのような重要なものを、軽々しく受けるべきではありません」

「何を言っているのだ、費禕。辛毗殿がようやく心を変えられたというのに、何故そんな横槍を刺す」

「待ちましょう、楊儀殿。せめて蚩尤軍が戻るまでは」

 費禕の眼が、何かを楊儀に伝えたがっている。郭奕からはそう見えた。しかし楊儀は何も感じなかったのか、怒って費禕を捲し立てるだけだった。

 費禕は気付いたのかもしれない。司馬懿の造った偽の遺言書が諸葛亮の手に渡れば、蜀軍は大きな打撃を受けることになる。具体的な遺言の内容まではわからないだろうが、費禕はこの遺言書の危うさに感づいた。辛毗が費禕を黙らせるべきだったが、放っておけば楊儀が費禕の意見を潰してくれそうだった。

「やめよ、二人とも。使者の前であるぞ」

 諸葛亮が二人を宥め、辛毗の方を見て言った。

「その遺言とやらは、この戦にどのような影響を与えるのか、想定でいいから言ってみろ。そなたほど聡明な者であれば、それがわかるであろう」

 郭奕は横目で辛毗の顔を見た。こめかみの辺りから、汗が一筋流れて落ちていた。

「……何も申し上げられません」

「そうか。なら、それはいい。羌軍は郷里へ帰そう。三万を、ここに戻してくれ。敵地の山中に取り残された将兵は不安にしていることだろう」

「御決断に感謝致します。これで肩の荷がおります。それで、遺言の方は」

 諸葛亮は目を瞑ってしばらく考えた。考えているその顔は、七十を越えた老人のように見えた。

「明日の正午。ここで昼餉でも共にしよう」

「かしこまりました」

 費禕がまだ何か言おうとしていたが、諸葛亮が羽扇で制した。

「それでは、本日はこれで」

「帰る前に、そなたに渡しておきたいものがある。謀略に優れた司馬懿殿に対する、ささやかな贈り物だ」

 それを聞いた楊儀が奥に入っていき、顔をにやつかせながら一抱えの木箱を持ってきた。

「中は何でしょう」

「司馬懿殿と共に確認してくれ。危険なものではない」

 郭奕はその箱を受け取った。大きさほどの重さはなかった。

「帝を謀略に使うなど、不敬極まりないことだ。戦うなら正々堂々とやれと司馬懿殿に伝えてくれ。そなたがやっていることは、男のやることではないと」

「それは」

「何も言うな。儂の言ったことを、そのまま伝えてくれればいい。その言葉をどう取るかは、司馬懿殿の勝手だ」

 辛毗はしばらく頭を下げたままで、わかりましたと答えた。

 話はそれで終わり、幕舎を出た。

外で待っていた部下が、蜀の兵と雑談をしていた。悪い雰囲気ではなさそうだった。部下らは出てきた二人を認めて周囲に集まり、蜀軍の本営を後にした。

 一人が近づき、郭奕の隣を歩いた。黒蜘蛛の一人である。

「どうであったか」

「漢の帝は本当に死んだのかと、しきりに聞かれました。前にここに来た時に、辛毗殿が叫ばれたことが噂となって広まっているようです」

「兵卒の反応は」

「本当だと言うと、微妙な顔をしていました。どうしたらいいかわからないといった表情です。そしてその瞬間から、相手から敵意が消えた気がしました。これはあくまで私が受けた印象に過ぎないのですが」

 前の使者の時に、辛毗が献帝の死を幕舎内で叫んだ。それは外にいた兵の耳に入る程の声で、そこから蜀の兵卒の間に広まっていた。辛毗が叫んだのは、それを流言とすることに狙いがあった。その効果がはっきりと表れている。

 五丈原を下り、武功水を渡ると、川の中から黒い塊が姿を現し、そのまま川原に打ち上げられた。よく見ると、その黒い塊は郭循だった。

 郭奕は部下が駆け寄ろうとするのを手で制し、郭循に歩み寄った。

「失敗したのだな」

 口から泥水を出しながら、郭循は顔を上げた。その顔には、恐れにも絶望にも見える表情が浮かんでいた。

「申し訳ありません。私以外は皆、討死しました」

 郭奕はそれ以上何も言わず、郭循に背を向けた。かつては可愛がっていたが、使えないものは使えない。郭奕が思うのはそれだけだった。句扶との忍びの戦いは、部下を可愛がりながらやれるほど甘いものではない。今は王平の暗殺より、諸葛亮の首だ。司馬懿の口調も、王平の暗殺はできればという程度のものだった。黒蜘蛛の力が削られる危険を冒すなとも言っていただから老練な者は選ばず、年若く経験の浅い者だけを選んだ。そして、失敗した。

 郭奕はもう王平暗殺のことを頭から消していた。

 背の向こうで、郭循が声を上げずに泣いていた。

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