王平伝 9-8

 成都近くの広都と呼ばれる城郭に、北からやってきた異民族を入れることになった。その二千を越える新住民に糧食を配るため成都の倉を開け、蜀の財政を司る孟光が牛車の列を指揮し、王訓はその最後尾にいた。

 蜀国内の人口減少を危惧したための移民だった。国は国土があればいいものでなく、広い土地があってもそこで働く者がいなければ生産は上がらない。生産力が落ちれば税を取れず国力は落ち、外敵からの侵略を受けてしまうことになる。外敵とは、つまりは魏だ。諸葛亮が死んでから休戦状態にはなっているが、それで敵対関係が解消されたわけではない。今の蜀には国力をつけるための頭数が必要だった。

 広都の広場に氐族の老若男女が列をなし、糧食が配られ始めた。配っている際にまた喧嘩にならぬよう、糧食を配る者は穏やかな老兵を選んでいた。王平軍が移動中の氐族と問題を起こしたため、五千近く入って来るはずだった移民が半分以下に減ったのだった。これ以上の問題を起こすわけにはいかないと、蔣琬が神経質になっていた。成都にいる黄皓を始めとする反蔣琬の勢力が、どんな小さな誤りでも見逃すまいとしているのだ。蔣斌が放逐されたことに憤りすら感じていたが、攻撃を受けている蔣琬を見ているとそれは仕方のないことだったのだと思えてくるほどだった。

 配給を監督する孟光が、氐族にこれからの仕事の説明をしていた。すぐにでも働いてもらう予定だった。そうしなければ、この氐族たちに食わせる糧食を無駄に消費してしまうことになってしまう。戦で疲弊した蜀にとって、それは決して少ない消費ではないのだ。

 力のある者は農作業に、そうでない者は手工業に従事するよう孟光が説明していた。しかし言葉が通じないのか、或いは始めから聞く気がないのか、氐族は配られたものに喜ぶばかりで孟光の話を無視しているように見えた。ここには食糧などいくらでもあるとでも思っているのかもしれない。一通りの配給と説明をし終え、氐族はそれぞれの居住区に帰っていった。疲れた顔をした孟光が老兵を取り纏め始め、王訓はそれを手伝っていると、広都の住民が話しかけてきた。

「若いお役人さんよ、なんであんな奴らに俺らが作ったものを配るんだい」

 元からここにいる農民らしく、三人の男の肌は褐色に焼けていた。言葉は粗野だが、嫌な感じのする者たちではない。

「あの者らには、広都で働いてもらいます。北の武都からやってきたばかりなので食べるものがまだ無いのです」

「俺らが作ったものを、あんなどこの馬の骨とも分からん奴らにくれてやるのか。先ずは俺らに配るのが筋ってもんじゃないかね」

 王訓がまだ若いせいか、男たちは嵩に懸かった態度で言ってきた。

「これから必ず働かせます。だから少しだけ我慢してください」

「あいつら臭いし夜はやけにうるさいし、あんたらお役人はその辺のことをちゃんと見ていないだろう。せめて広都じゃなくて別の所に住まわせればいいのによ」

 武都で魏国に酷使されている農奴を連れてきて、豊かな暮らしをさせてやることで人口を増やそうというが蔣琬の狙いだった。元からいた住民から不満が上がるのは予想されていた。ここは何とか説得して納得させるべきだったが良い言葉が思いつかず、王訓はしどろもどろとなってしまった。

「どうしたというのだ、王訓」

 見かねたのか、孟光が割って入ってきた。孟光が蜀の高官であるせいか、強気でいた男たちが後ずさっていた。

「俺たちが作ったものを、あんな奴らにくれてやらないでくださいよ」

 一人が言った。

「そのことか。そなたらの言うことは最もだ」

 そう言われて意外そうな顔をした三人に、孟光は手招きした。

「氐族の女に興味はないか。広都に入った氐族は、女の方が多いのだ」

 何か如何わしい話がされていると思い、王訓は顔を背けた。氐族の男たちの大部分は王平軍と喧嘩をして、蜀にはやってこなかったので、必然的に女が多かった。

「女が多ければ、体を売って銭を稼ぎたいという者も出る。そのための妓楼を作ろう。そなたら農民が一番良い思いができるよう、儂が蔣琬殿に便宜しておいてやる」

 男たちは顔を見合わせ苦笑し始めた。そして納得したような顔をして帰って行った。

「あのように言ってくる者がいたら、同じように言ってみろ」

 孟光が白い髭を撫でながら王訓に言った。

「不満を解消させるには欲を満たしてやることだ。しかしそれはやり過ぎてもいかん。よく覚えておけ」

 王訓は頷いた。

 孟光は他の仕事があるため成都に帰って行った。氐族のことに関しては蔣琬が全責任を持つことになっていて、王訓が代行して指示を出すことになっている。明日からは広都に残った王訓が兵糧の分配と監督をしなくてはならない。そして何かあれば、蔣琬に逐一報せることになっている。

こうして蔣琬から離れて仕事をするのは初めてだった。成都以外の城郭に入ったこともほとんどない。不安はあるが、嬉しくもあった。これは蔣琬から力を認められているということなのだろう。

 王訓は氐族の族長である苻健に挨拶に行った。族長ではあるが、広都では一人の民として扱うことになっていて、住む家は他の者と同じ粗末な長屋の一室を与えられていた。

「このような所で心苦しいでしょうが」

「いえいえ、武都での暮らしに比べればなんのことはありません」

 苻健は温厚な笑みを見せながら答えたが、傍らには苻健の従者が一人いて険しい顔をこちらに向けていた。苻健の待遇を良くしろという要求を断ったので、それを根に持っているのだろう。

「先ずは氐族の方々には、ここでの生活に慣れてもらわなければなりません。その上で何かありましたら私にお申し付け下さい」

 苻健はそれに深々と辞儀をした。

 問題が起こったのはその夜だった。広都城郭の門衛が王訓のところにやってきて、すぐに来てくれと言った。

 西の門に行くと、城外で何者かが騒いでいるのが聞こえた。狩りに出かけていた氐族の若者たちが、門の閉まる日没後に帰ってきて、すぐに門を開けろと言い募っているようだ。本来なら、城内に入るには門の開く日の出を待たなければならない。

 放っておけばよいものだが、門衛たちがかなり苛ついていて、今にも戟を手に飛び出していきそうだった。身勝手に振る舞う新住民たちに怒っているのだ。

 王訓は悩んだ。法に従えば門外で騒ぐ氐族を捕らえて牢に繋いでも問題はない。しかしそれをやってしまえば、新しくここにやってきた氐族から反感を買ってしまわないだろうか。蔣琬は、魏から人を連れてきてでも、労働力を得たいと言っていた。法に従うことで、労働力を失うことになってしまわないだろうか。

 周りの者がさらに苛つきだしていた。それに背中を押され、王訓は決断した。門衛に、外で騒ぐ氐族たちを捕らえてくるよう命じた。門が開かれ衛士が出て行き、騒いでいた五人の男たちが後ろ手に縛られて連れてこられた。そして棒打ちの刑に処した。夜の城郭の片隅に、氐族たちの声が響いた。これでいいのだと、王訓は自らに言い聞かせた。全身を散々に打たれた氐族の男たちを苻健に引き渡し、その場を収めた。

 何か報復があるかもしれないと、王訓は宿の蒲団の中で考えた。昼間の男たちのように、王訓がまだ若いからという理由で侮り、力で訴えてくる可能性は大いにあった。門限も守れないような奴らなのだ。しかし報復が怖いからといって譲歩するわけにはいかない。ここに住むからには、ここの法を守ってもらわなければならない。報復を恐れて法を曲げることなどあってはならないことだ。

 翌日、王訓の宿に苻健の従者が会いに来た。昨日とは違い和やかな表情をしているその男は、昨晩の詫びがしたいから苻健に会って欲しいと言ってきた。苻健の従者が来たと聞いて心を構えていた王訓は胸を撫で下ろし、すぐに支度して宿を出た。

 王訓は苻健の従者について街を歩いた。まだ広都の町並みに詳しくなく苻健の従者に追従するに任せていたが、途中で苻健の長屋に行く道から逸れていることに王訓は気付いた。

「この道は違うと思うのですが」

「苻健様は向こうにある食堂で待っておられます。こっちは近道なのですよ」

 従者が笑顔で言うので、王訓は訝しみながらもついて行った。昨晩のことがあっただけに、怪しくとも苻健の誘いを無視するわけにはいかない。

 大通りを外れた小道をしばらく行くと、前方から顔を腫らした三人の男が現れた。棒打ちにされた氐族の男たちだった。後ろからも二人が出て来て、退路を塞がれた。

「昨晩はよくもやってくれたな、小僧。おまけに狩りの獲物まで没収しやがって」

 王訓は舌打ちした。やはりこういうことだったのか。予測はできたが何の対処もせず、苻健に失礼がないようにと馬鹿正直に、ただ言われるままについてきた。

「あんな目に合わせてただで済むと思うなよ」

 一番体の大きい男が拳を鳴らしながら言った。

「黙れ。ここに住むのなら法に従え」

 緊張で声が小さくなってしまった。それを察したのか、氐族たちが揃って笑い出した。

 胸元には、蔣琬から何かあった時に使えと渡された短剣があった。いざという時にはこれを使うべきなのだろうが、王訓は武器を使ったことがない。

 後ろの一人が羽交い絞めにしてきた。そして前から拳を打ち付けられ、王訓は転倒した。

「五人分の倍返しだ。覚悟しろ」

 王訓は転がりながらも胸元の短剣に手をやった。しかしこれを使ってしまえば、相手を逆上させてしまいはしないだろうか。氐族との関係が決定的に悪くなってはしまわないだろうか。

 不意に一人の背中が音を立てて燃え出した。男は火を消そうと地を転げ回り、他の者は唖然としていた。

 やったのは蚩尤軍だと、王訓はすぐにわかった。

 街路の影から湧くようにして幾つかの人影が現れ、静かに氐族の六人を囲んだ。そして乱闘になることもなく、瞬時にして六人が拘束された。王訓は胸元から手を離し、尻を叩いて立ち上がった。

「なんだ、お前らは」

「新参者に教えてやる。ここで不埒を働けば、蚩尤軍に裁かれる。この眼帯をよくおぼえておくことだ」

 句扶が言い、蚩尤軍の手の者が男たちをどこかに連れて行った。これから彼らがどんな目に合わされるのか、王訓は少し考えただけで止めておいた。

「ありがとうございます、句扶殿」

「不用意だな、こんな所に呼び出されて。あのような獣を飼おうというのなら、それでは命が幾つあっても足りんぞ」

 句扶が素っ気なく言った。

「だからと言って、法を曲げて阿るわけにはいきませんでした」

「それはいい。次からはもっと上手くやれと言っているのだ。筋を通そうと思っても、従わせる力がなければどうしようもないこともある」

 そう言い残して句扶は行ってしまった。

 何事もなかったかのように、人のいない裏路地だけがそこに残っていた。王訓は殴られた頬を摩りながら表通りに出て、苻健の長屋に向かった。気は乗らないが、これからのためにも、今のことを苻健に伝えておかなければならない。

 苻健のいる長屋の前まで行くと、何やら人だかりができていた。人垣の上から絢爛な輿が頭を覗かせていて、成都から誰か来ているのだとわかった。しかしこんなところに誰が来るというのだろうか。

 近づくと、見知った顔の宦官が長屋の中から出て来て、王訓に気付いて声をかけてきた。黄皓だ。

「大義であるな、王訓。こんな若い者にこんな大役を押し付け、蔣琬殿も酷なことをされる」

「黄皓殿が、こんな所に何の用ですか」

「氐族の苻健殿に、陛下の代理として会いに来たのだ。蜀の民になるということは、陛下の民になるということであるからな」

「そうでしたか」

「昨晩に何やら問題が起きたようだが」

 この周辺で問題が起きれば、すぐに成都に報告が上がるようになっている。その報告を聞いたことあって黄皓はやってきたのだろう。もしかしたら、蔣琬を責めるための種を探しているのかもしれない。

「門限を破った者が、私に報復してきました。その者たちは蚩尤軍によって捕縛されたところです」

「そうか。いきなり不慣れな地で暮らすことになり、氐族の者たちは困惑しているのだろう」

 黄皓は悲しみを表情に蓄えてしみじみと言った。それは周りに見せ、聞かせているようでもあった。

「申し訳ありませんでした」

「お前が謝ることではない。まだ慣れない内は、色々と問題が起こるものだ。何かあれば成都の私に報せてこい。全てを一人で片付けようとすることはない」

「ありがとうございます」

 王訓は深々と頭を下げ、黄皓は輿に乗って供の者らを引き連れ行ってしまった。

 氐族の六人が捕縛されたことを苻健に伝えなければならない。黄皓は苻健に何を言ったのだろうと思いながら、王訓は長屋に入った。

 苻健は満面の笑みで王訓を出迎えた。当然ながら、難しい顔をした苻健の従者はそこにいない。代わりに、太平百銭がたっぷりと入った壺がそこに置かれていた。

「黄皓様が来て、陛下からの贈り物だとこれを下賜して頂きました。私は固辞したのですが、これで粗方の不都合は解消できるだろうと言ってくれました」

「左様でしたか」

「黄皓様はお優しいお方だ。魏にいれば、我ら一族は死ぬまで搾取され続けていたことでしょう。ここに移り住んできて本当に良かった」

 苻健は心から喜んでいて、昨晩に問題を起こした氐族のことをすっかりと忘れているようだった。

「昨晩、棒打ちに処した者たちのことなのですが」

 喜んでいるところに水を差すようで気が引けたが、王訓がそう言うと苻健は思い出したように顔つきを変え、身を繕って座り直した。

「苻健殿の従者が、私を呼びにきました。それで宿を出たのです」

「なんだと。私は黄皓様が来たから席を空けておけと言っただけで、王訓殿を呼べとは言ってませんぞ」

 王訓は、路地裏で襲われそうになり、氐族たちが蚩尤軍に捕縛されるまでの経緯を話した。

「そうでしたか。あれらは負けん気の強い者ばかりでした。申し訳のしようもないことをしてしまった」

「それで苻健殿も罰しようという話ではありません。そういうことがあったのだと、ただ伝えに来ただけです」

「その捕縛にさらに腹を立てる者が出るかもしれません。そういう者がいたら、必ず私が叱りつけて黙らせます。私の言うことには従順な者ばかりですから」

「そうしてもらえると助かります」

 この一件で氐族から多少の反感を買ってしまうかもしれないと思っていたが、それは杞憂のようだった。黄皓から渡された銭が効いているのかもしれない。

 それから次の配給の話をし、王訓は長屋を後にした。

 陛下の代理としての黄皓の訪問は、王訓にとっては有り難かった。新天地で暮らすことになった氐族の不安感は、これでかなり和らいだものになるだろう。

 黄皓は政庁で蔣琬と対立することが多かったが、王訓には親切で、今回も何かあればすぐに伝えてこいと言ってくれた。王訓にはどうも黄皓が政庁で嫌われている理由がわからなかった。

しかし費禕は、黄皓の甘い言葉に気を付けろと言っていた。親切にされている時は目が曇るものだとも言っていた。

 王訓は氐族の居住区を通って宿に戻った。誰かが絡んでくるかと思ったが、それはなかった。黄皓と親しく話しているところを目にしたからか、氐族たちの自分を見る目がどこか変わっているという気がした。

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