王平伝 9-6

 魏国の西端でおかしなことが起こっていた。武都を守る地方軍が賊徒に襲われ大きな痛手を負い、襲われた村落からは住民が一人残らず姿を消していた。賊徒は全員が騎乗で、出動した地方軍が何の成果も出せずにやられていた。

賊徒が村落を襲う理由は食糧や女を奪うからであり、そこの住民を全て殺したり、連れて行ったりすることはない。村を潰してしまえば、また掠奪に来ることはできないからだ。

 軍議で牛金からその話を聞かされた夏侯覇は先ず王平の騎馬隊を思い浮かべたが、漢中から軍が動いた気配はないのだという。

 賊徒が襲った村には空になった家々だけが残り、住民はどこに行ってしまったかもわからず不気味だった。長安から離れた辺境での出来事ではあるが、地方軍で対処できないとなれば長安の軍が出張るしかない。

「我らの出動はありますでしょうか」

 軍議から戻った夏侯覇に、徐質が聞いてきた。

「魏国の民が消えている。この謎を解明するために一万が出ることになった。我らは五千の騎馬を率いて明日に先発する。賊の正体はまだわかってないが、王平の騎馬隊でないことだけは確かなようだ」

「では、一体誰が何のためにそんなことを」

 長安軍におかしな噂が流れていた。賊の正体は、山に住む物の怪だという噂だ。

「生き残った者が山よりも大きな影を見たと言っていた。噂は本当かもしれん」

「山よりも」

 徐質が顔を青ざめさせていた。今や実戦を経た立派な騎兵となっていたが、目に見える相手には強くとも、目に見えない正体不明の相手には臆病だった。それがおかしくて、夏侯覇はからかって面白がった。

「冗談だ。そんな報告は入っていない」

 言って夏侯覇が笑うと、徐質は迷惑そうな顔をした。

「騎馬隊を見た者がいるというのは間違いない。それも、かなり精強な騎馬隊だ。王平の騎馬隊ではないというが、蜀軍が隠密に動いていると考えるのが妥当だろう。黒蜘蛛の主力がいれば詳細がわかるのだが」

 諸葛亮率いる蜀軍を撃退した司馬懿は中央に戻った。その時に黒蜘蛛は一部を長安に残して司馬懿に従い去って行った。黒蜘蛛は魏軍の一部というより、司馬懿の私軍といった方がいい。

 夏侯覇は旗を持つ徐質を伴い、牛金の属将として長安から西へと出陣した。

 渭水の大流を左手に、戦場だった武功と五丈原が過ぎていく。漢中から山間を縫ってやってきた十万近い蜀軍を、司馬懿は粘り強く戦い追い返した。消極的で自分からは決して動かない指揮官で、自分も含めて武官たちはかなり苛ついていたが、司馬懿は真綿を絞めるようして蜀軍を追い詰め、勝利した。勝ったのは、諸葛亮が死んだからだった。病死だと聞かされていたが、夏侯玄があれは黒蜘蛛による暗殺だと零していた。司馬懿の私軍である黒蜘蛛の力を隠すために病死ということにしたのだとも言っていた。

 その夏侯玄は中央に戻り司馬懿の近くで働き、王平に両足を飛ばされた辛毗は一戦から退き療養している。

 王平の騎馬隊とは武功での初戦と、蜀軍が五丈原に後退する時に二度ぶつかった。一度目はもう一歩で首を奪れるというところで蚩尤軍に妨害され、二度目は撒き菱にやられて逆に首を奪られそうになった。助かったのは、王平が自軍の歩兵を救助しに行ったからだ。

 その失敗のため、戦後に大した出世はできなかった。逆に出世した郭淮は長安軍の頂点に立つことになり、費耀はどこかに左遷されて荊州から赴任してきた牛金が郭淮の副将となって夏侯覇はさらにその下にいた。出世できなかったことに対する不満はなかった。王平との戦いで成果を出すことができなかったのだ。夏侯家の名に嫉妬する者がいるのだと言う者がいたが、それは気にしなかった。

 瀧関を抜け、天水の冀城に入って情報を分析した。賊徒の正体は、最近成都で更迭された馬岱ではないかと言われていた。賊だと思っていたのは実は蜀軍の正規兵で、武都の住民を蜀に移住させているため村から人が消えているのかもしれない。

 まだ確報ではなかったが、夏侯覇は自軍に戻って敵は馬岱であると伝えた。馬岱も手強い指揮官だったが、正体がわかり部下は幾らか安堵しているようだった。

「物の怪などと言っていた者は許せませんな」

 徐質が言った。

「お前も言っていたではないか。あんなものは冗談として聞いていればいいのだ」

 夏侯覇はすぐに策を建てにかかった。冀城から民の消えた村までは百里もない。相手は少数なので、大軍で向かい捕まえようとすればすぐに逃げられてしまうだろう。夏侯覇は手勢の五千を十に分け、十の村を監視させて異変に備えた。

 都から離れているからか、貧しい村ばかりだった。田畑は痩せていて、道は手入れがされず草が繁っている。茅葺家の外で寝ている女が死体だったと気付いたのは、監視を初めてからかなり経ってからだった。こんな村でも子供はいて、痩せ細った犬を追い掛け回して遊んでいた。

 こういう村から吸い上げたものが長安に入り、一部の民が豊かになり、その豊かさを守るために軍があった。搾取をされる者は不満を抱くだろうが、搾取されているため力を持つことができず、ただ従うか、殺されるかしかない。これでは蜀から誘われればすぐに靡いてしまうだろうと思えた。

 夏侯覇のいる村の近くで、馬岱と思われる三千騎を補足したと部下が伝えてきた。夏侯覇は五百を率いてすぐに向かい、その三千を追っていた一隊と合流した。確かに動きは賊でなく、軍のものであり夏侯覇は警戒した。こちらは千騎だが、相手は多勢にも関わらず南に向かって逃げるように駆けている。

 一度蹴散らした方がいいと判断したのか、背を見せて走っていた三千が反転して向かってきた。夏侯覇は剣を抜き、部下もそれに続いた。ぶつかる直前、右手から徐質の五百が現れ敵の横腹に突き刺さった。夏侯覇はすかさず乱れた三千の中に躍り込んで剣を振るいに振るった。それで敵は四散し、また南に逃げ始めた。

 味方が次々に合流してくる。二千に減った敵は逃げることを諦めたのか、小さな岩山に拠って守りを固めた。夏侯覇は五千の手勢で、その二千を慎重に包囲した。

「よいと突撃だった、徐質」

 返り血を浴びた徐質が得意げに頷いた。

「おかしな奴が来ていて、隊長と話がしたいと言っているのですが」

「おかしな奴だと」

 目を血走らせた細身の男が連れてこられた。見た目から、ここらに住む異民族であることはすぐにわかった。

「苻双と申します」

「その苻双が俺に何の用だ」

「私の兄は苻健といい、氐族の長をしております。その苻健が蜀軍の馬岱という者から蜀に来ないかと誘われ、千戸の民を引き連れ移住しようとしました。私はそれを良しとせず、私に同調する半数を連れて陽平関から逃げて参りました」

「よくぞ蜀に降らずにいてくれた。後で褒美が出るよう取り計らっておこう」

「褒美は要りません。私の姪が、蜀軍に殺されてしまったのです。その仇を取ってください」

 苻双の目が血走っているのは涙の跡だったのかと夏侯覇は思った。

「陽平関の方に蜀軍の兵糧を運ぶ部隊がおります。私達はその兵糧隊を襲いました。その隊長の名は王平といいます」

「王平だと」

「兵糧隊を襲った時に逃げられてしまいましたが、それが名の仇の名です」

「わかった。覚えておこう」

 夏侯覇は励ますように苻双の肩を叩いた。

 もう王平は遠くに逃げ去っているだろう。それでも夏侯覇は陽平関から近付ける所まで斥候を出した。

「包囲しましたが、相手に投降する気はないようです」

 徐質が言ってきた。馬岱の拠る岩山は、既に水も漏らさぬ程に囲まれている。

「投稿する気がないということは、援軍を待つということだ」

「漢中から、王平が来ますか」

「間違いなく来る。岩山の包囲は武都の地方軍にでもやらせておけ。俺たちは、救援に来る王平を迎え撃つ」

 血が滾ってきた。賊徒の正体がわかればいいと思い長安を出たが、王平という大物がこれに絡んでいた。出世したいからではない。あの男は、どうしても自分の手で討ち取りたかった。今までの復讐だとか、張郃の仇とかいう話ではない。勝って自分の力を示したいというわけでもない。ただ、戦いたかった。

「牛金殿に伝令だ。三千の正体は馬岱軍。岩山に拠っているため騎馬では攻めきれないと伝えろ」

 牛金はすぐに歩兵をよこしてくるだろう。馬岱を捕らえる手柄は、欲しい奴に呉れてやればいい。

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