王平伝 4-7

 追撃は、やはりないようだった。報せによると、張郃軍が陳倉に到着するにはあと二日ほど要するらしい。

蜀軍の先頭は、もうかなりのところまで進んでいるはずだ。初めての殿軍を任された趙統は、陳倉城の敵がいつ襲ってくるかということに、身を緊張させていた。

出てくるはずがなかった。二十日に渡って攻め続けたのだ。出てきたくても、一戦を交えさせるほどの力はないだろうし、その必要もないだろう。四千の兵力で、四万を撤退させたのだ。

「門が開きました」

 まさかと思いはしたが、部下にそう言われたため、王平は櫓に上り、城の方を眺めた。

 四騎の米粒ほどの人影が、城外に姿を現した。この殿軍を襲おうという気はないようだ。

 その四騎は馬足を速めつつ、真っ直ぐこちらに向かって来ていた。人影が徐々に大きくなってくるにつれ、その先頭にいる者が見えてきた。隻腕の男。加えて、右目が大きな傷で塞がっている。王双であった。

「馬」

 王平は従者に向かって小さく呟いた。すぐに鞍が用意され、王平はそれに飛び乗った。

 味方の兵達は、たった四騎で近付いてくる敵にどう反応していいか分からないといった顔をしている。王平はそんな兵達を尻目に馬を進ませた。それに何騎かが付いて来ようとしたが、王平はそれを下がらせた。

 王双が、俺に会いに来ている。劉敏が何かを言っているが、それは無視した。戦はもう、終わったのだ。ただ、友に会いに行く。それの何が悪いのだ。

 軍の輪から出て、王平は近づいてくる王双らの前に立った。後ろでは、味方が黙ってその様子を見守っている。何から話せばいいのか、王平は束の間考えた。

 四騎の中の一騎が、王平に近付いて来た。王双。右手に、剣が引き抜かれていた。話す前に、やらなければならないことがある。そう言われているようだった。

 王平は軽く馬腹を蹴り、剣を抜いた。腿だけで馬を操る王双の姿が、どんどん大きくなってくる。馬が止められる気配はなかった。こちらの馬も、既に駆け足になっている。

 剣が、交叉した。あまりの衝撃に、王平は馬上でよろめいた。

「久しいな、隊長殿」

 十一年ぶりに見た王双の体は、傷だらけであった。それを見ただけで、王平の口からは何も言葉は出てこなかった。

「こんな所で、今まで何をしていた」

 王双の言葉が胸に響いた。一度は洛陽を故郷だと思い定めたことを、この男は知っている。しかし、今は、蜀の軍人の一人だった。

「仕方の無いことだった」

それは、便利な言葉だった。仕方の無いことを、そうでないものにするための努力を、自分は何かしてきたのか。

「こんなことでしか語り合えないのかな、俺らは」

 王双についてきていた三人は、遠くに馬を止めてその様子を見ていた。後ろからは、異変を見て取った蜀兵が近づいてきている。

「これで十分だという気がするぞ、隊長殿。大事なものを忘れた男と、心を開いて語り合えると、俺は思えん」

 何も、言い返すことはできないと思った。

「会えたかと思うと、生意気なことを言う。お前に俺のことなど、何が分かるというのだ」

「分からん。分かろうとも思わん。分かっているのは、隊長殿が俺らのことを捨てたということだけだ」

 言い返すことはできなかったが、頭はかっとなっていた。王双がまた馬を駆けさせた。やり合おう。王双の右手に掲げられた剣が、そう言っていた。

 後ろからは、味方が近づいてくる声が聞こえてくる。逃げ込もうか。その考えがよぎった時には、既に斬撃がきていた。

 王平はそれを剣で受けたが受けきれず、額から血を噴き出させた。頭なので出血が多く、王平の右目はそれで塞がれた。駆け抜けていく王双を追うように、王平も馬を駆けさせた。こんなところを丞相が目にしたら、激怒することだろう。だがその考えは、すぐに頭から追い払った。

 また、馳違った。剣と剣が弾ける。視界が不十分で、力が出せないと思った。しかし王双も同じで、左腕さえないのだ。こんな言い訳を、いつからするようになったのだ。

 また、王双が来る。剣を受けた腕がしびれていた。それでも王平は、向かってくる王双に剣を振った。右腕が飛ばされたかと思った。まだついている。飛ばされたのは、剣であった。

 王双。見ると、こちらに馬首を返していた。彫像の様に身を崩すことなく、王双は馬上で剣を掲げている。こちらの手には、武器すら無い。奪られる。そう思うと、様々なことが思い返されてきた。王双と辟邪隊を作ったこと。王歓と慈しみ合ったこと。定軍山陥落後の、死んだように生きていた時のこと。小さくなった思い出が、唐突に大きくなったような気がした。小さくなったと思っていたことは、自ら小さくしようとしていただけなのか。

 傷だらけの王双が、目の前に迫っていた。こんな体になってまで、お前は何故戦おうとするのか。お前が戦うことで大切にしようとしているものは、何なのだ。昔は、自分にもそんなものがあったような気がした。それは、目の前に迫っている王双が持つものと、同じものだったのかもしれない。

 王平は、左手でもう一本の剣を引き抜いた。左手で長い剣を遣ったことはない。

 来る。王平は剣を前に出し、身を防ごうとした。これでは不十分であると思えたが、そうする他なかった。死ぬ。ふと、王双の剣に少しだけ血が付いているのが見えた。あれは、自分の額を斬った時の血か。なんとなく、そう思った。

 気付くと、馬を疾駆させていた。

 考えてそうなったのではない。体が自然とそうなっていた。

 王平も剣を抜いていた。逃げることを肯じないその姿は、初めて軍営で王平と喧嘩をした時のそれと同じだと思えた。

 一合。剣と剣が重なり、火花が散った。重い一撃だった。

久しぶりに聞いた王平の声は、昔のままだった。どんな会話をしているかは、自分でもよくわかっていなかった。目の前に、ずっと会いたかった隊長殿がいた。その隊長殿に、言いたかったことをただ言っていた。

 言いたいことはたくさんあると思っていたが、あまり言葉は出てこなかった。それよりも、馬を駆けさせていた。

二合目。斬れると思ったが、斬れたのは薄皮一枚だけであった。馬を返した王平の頭からは、血が流れていた。それだけしか斬れなかったのは、王双の心の中で拭い切ることができない何かがあったからだ。その何かは、悪いものだとは思えなかった。

 王平と交わした剣は、やはり重かった。さすがは隊長殿と思いながらも、今までの鬱憤を晴らすように打ち込んだ。鬱憤がある分だけ、こちらが勝っていると思えた。

 後ろでは、付いてきた三人が王訓と共に待っていた。王訓はこれを見て、何と思っているだろうか。

 三合目で、剣を飛ばした。首を飛ばせたと思えたが、やはりできなかった。ここまでしておいて何を迷っているのだ。自嘲のようなものがこみ上げてきて、王双は大きく息をついた。

 蜀の陣営から、兵士達が殺到してきていた。打ち合えても、あと一合か。

 王平が左手で剣を抜いた。王双は馬を疾駆させた。その程度で腕が使えなくなるようで、王訓を守ることができるのか。

 死というものが、目の前にあった。ここで王平を討ったとしても、自分は蜀兵に捕えられ、首を落とされてしまうだろう。人に与えたことはあるが、自分では味わったことのないものだった。

 死ぬことよりも苦しいことは、今までにたくさんあったという気がする。妹が死んだ時が、一番辛かった。王訓を育てるのだと思い定めることで、生き続けてきた。死んでいれば楽だったのにと思ったことは、数え切れずあった。

 籠城中、王平のことを本気で敵だと思ったことはなかった。斬り合いをしている今でも、その思いは変わらない。その王平を、斬る。それは王平のことを憎んでいるわけではない。言葉では説明しきれない何かが、王双の胸の中にはあった。

 王平は左手で握った剣で身を防ごうとしている。打ち込める箇所は、少なくなかった。

 王双は剣を掲げる右腕に力を籠めた。もう何も考えることはない。言葉で説明できない何かを、右腕に籠めた。今度こそ、間違いなく斬れる。

 右が、見えなかった。振り下ろしたと思った剣は、下りてこなかった。代わりに、王双の体が馬上から落ちていた。地面に叩きつけられ立ち上がろうとしたが、上手くできなかった。数歩先には、剣が自分の腕と共に落ちていた。そして、蜀の騎兵隊に囲まれていた。

 斬り飛ばされた右腕から、血が噴き出ていた。その王双に、若い将校が近づいてきた。斬り飛ばしたのはお前か。これではもう、白翠の体を抱いてやることができないではないか。

「趙統という」

 若い将校が言った。聞いたことのある名だと、王双は思った。

「趙雲の子か」

「そうだ」

 趙統は短く答え、両腕の無い王双の頭を掴んで引き起こした。その顔は、怒りに満ちていた。

「父の仇」

 王双は膝立ちにされ、趙統は剣を構えた。

 王双はふと、どこかで趙統の顔を見たことがあると思った。趙雲の幕舎にいた、朴胡を討った男だ。それが分かったからと言って、どうなるものでもなかった。俺は、ここで死ぬのだ。王双は静かに目を閉じた。

「待て」

 暗くなった目の前で、王平の声が聞こえた。王双は、それで目を開けた。

「少し、この男と話をさせてくれ」

 趙統は不満そうな顔をしながらも、剣を下ろした。

 馬から下りた王平は王双に近寄り、血が噴き出している腕にひもを巻きつけてきつく縛った。

「頼む、通してくれ」

 蜀兵の人垣の向こうから声が聞こえた。陳倉城から付いてきた三人だ。王訓は馬上で、王生に体を預けている。

「通してやれ」

 王平が言うと、三人と王訓が人垣の中に入ってきた。そして三人は馬から下り、王訓も下ろされた。

「隊長殿、その子が誰だかわかるかい」

 王双は王訓の方に目を向けながら言った。ようやくこの時が来たと思えた。川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますように。妹が願っていたことだった。ただ落馬した時に打ち付けた頭が痛いのが、少し煩わしい。

「あんたの子だよ」

 王訓のことを見ていた王平の顔が、はっとなった。

「歓は、どうしたのだ」

「死んだよ、十一年前に。王訓を生んで、すぐに死んだ」

 王平が狼狽するのが、はっきりと分かった。狼狽するということは、少しは気にかけていたということなのだろう。それだけで、王双の心は幾らか軽くなった。

 部下の三人が、前に出た。そして顔面を蒼白とさせた王訓が、王平の前に出された。奥歯を震わせていることは、見ているだけで分かった。

「叔父上、腕が」

「泣くな、訓。このようなことで、男は泣いてはならんのだ。なに、一本しかなかったものが、無くなっただけのことだ」

「何故、こんなことをするのですか。叔父上は、友に会いに行くだけだと言っていたのに」

「黙れ」

 王双が叫び、王訓の体がびくっとなった。

「女々しいことを、男が言うものではない」

 王訓は泣くのをぐっと堪え、口をへの字に結んだ。

「隊長をこんな目に合わせるとは、酷いことをしやがる。俺らはあんたに、あんたの子供を返しにきただけだというのに」

 王生の後ろにいた一人が言った。

「そのことには、礼を言う。お前らは、名をなんと言うのだ」

 そう言う王平の姿に軍人らしい冷静さはなく、何とか喋れているというふうに見えた。

「隊長、俺らは先にいってますよ」

 王生が王平の言葉を無視してそう言った。そして、剣を抜いた。蜀兵の間に、緊張が走った。しかし王生は、その剣を自分の首筋に当てた。

「うちの隊長の勝ちだな」

 そう言って、剣を引いた。首から血が噴き出し、王生は倒れた。倒れたその体からは、既に生の色が消えていた。後ろの二人もそれに続き、自分の首を掻き切った。

馬鹿野郎。王双は口の中で呟いた。

「どういうつもりなのだ、王双」

 王平が言った。

「どうもこうも、あんたに子を届けに来ただけだよ。それは、死んだ妹の望みだった」

 目が乾いて霞んできた。少し血を失い過ぎたのかもしれない。しかし不思議と、痛みはそれほど湧いてこなかった。

「王平殿」

 趙統が前に出てきた。首を切って死んだ三人には、何の興味もないという顔をしていた。そんなものだろう、と王双は思った。

「首を、落とします」

 何かを言おうとした王平が、口を噤んだ。この中にも、軍監のような者がいるのかもしれない、と王双は思った。

「思い悩むことはないよ、隊長殿。俺はここに、死にに来たのだ。俺の役目は、もう終わったのだからな」

 王平が顔を歪ませ、頭を抱えた。悩んでいる。悩み苦しめばいい。王双はそんな意地の悪い気持ちになっていた。

王双の隣で、趙統が剣を構えた。

「何か、言っておくことはないか」

 はっと顔を上げた王平のその一言で、趙統は振り下ろそうとした剣を止めた。

「言いたいことか、そうだな。長安の若い軍人が使っている宿に、白翠という女がいるんだ。長安に攻め込むことがあっても、その女には手を出さないでくれないか。俺の女だ」

 王平が頷いた。二度、三度と、赤くなる目で頷いていた。

「おい、小僧」

 趙統の方を向いて言った。

「お前の親父、強かったぜ」

 剣が下りてきた。金属が合う音がした。見ると、王平が趙統の剣を弾き飛ばしていた。そしてそのまま王平は、返す刃で王双の首を落とした。

 空と、歪んだ王平の顔が、反対になった。王訓が何か叫んでいた。しかし何も心配することはない。お前の親父は、立派な男だ。落馬した時に打った頭を、また地面で打った。痛みはなかった。ようやく、心から休まる時が来たのだ。

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