王平伝 6-13

 一連なりの山々が、緑を繁らせ横たわっていた。

 北へ向け、そこを三日で抜けろと王平から命じられていた。蔣斌は道なき道を、木の枝を払いながら進んだ。

 漢中から斜谷を抜け、魏領に入った所で句扶と合流することになっていた。そこで何をするのかは、まだ聞かされていない。

 日差しが強かった。頭上では蝉が喧しく、山全体が鳴いているようだった。蔣斌は谷に流れる川の岩場に腰を下ろし、竹筒の水を飲んで干し肉を齧った。この川を辿って行けば、涼州の主要河川である渭水と合流する手前で、武功という集落に到着するのだという。句扶がいるということは、そこで何らかの工作をしているのだろうか。

 三日目の昼、川に沿って歩き続け山を抜けた。かなりの長い距離を歩いてきたが、大きな疲れはなかった。軍内での生活で、体がかなり強くなっていたし、見た目にも大きくなっている。軍人になる前の成都にいた頃なら、五日かかってもまだ到着できなかっただろう。

 王平からの話によると、川から東側の平野が武功であり、西側にある南北に伸びる胴長の丘が五丈原のはずだ。この武功という平野に点在する村のどこかに、句扶がいる。

 蔣斌は川の流れから外れて東へと歩いた。ここはもう、魏領である。十九になった蔣斌にとって、蜀から外に出るのは初めてのことだった。

 涼州の州都である長安からは大分離れているが、田畑広がる武功の人の営みは決して少ないものではない。誰もが鍬を手に地を耕し、農作業に従事している。

 その光景を何となく眺めながら歩いていると、背を丸めた小男が目の前を横切り、片目の潰れたその顔をこちらに向けてきた。句扶だ。

 句扶は何も言わずに歩き始めたので、蔣斌も何も言わず、距離を開けたままその後ろを歩いた。

 やがて農村からはずれ、南の谷から流れてくる武功水まで戻り、川べりの岩と岩の間の隙間に入った。

「よく来た、蔣斌。今からこれに着替えろ」

 岩の隙間には程良い空間があり、そこには様々な物が置かれていた。句扶はその中から農民の着るものを無造作に掴んで渡してきた。

「私は、武功で農民になるのですか」

 渡されたものを着ながら蔣斌は聞いた。

「長安に人が集まり続けている。司馬懿はそれを方々に分けて住まわせ、農耕をさせているのだ。何のための農耕かは、わかるな」

「軍備としての農耕ですか」

 句扶は頷いた。

「武功の集落は大きい。それに長安から離れている。つまり、司馬懿の目が届き難いとうことだ。蚩尤軍の任務は武功の農民に紛れ込み、戦が始まると同時に武功を制圧してここの農作物を奪うことだ」

 それを聞いて、蔣斌は腹の底から熱いものが湧いてくるのを感じた。同じことを繰り返す軍の調練に比べると、こっちの方がずっと面白そうだ。

「勘違いするな。武功の制圧は、蚩尤軍の任務だ。お前は半年をここで過ごし、武功の東端にある馬塚原から川の向こうにある五丈原までの地形を頭に叩き込め。戦になれば、お前が王平将軍の道案内となるのだ」

「わかりました」

「黒蜘蛛にはくれぐれも気を付けろ。少しでも目を付けられたと感じたら、すぐにでも漢中へ帰れ」

 言われて、蔣斌は唾を飲み込んだ。自分はもう、敵国内にいるのだ。

 最低限のことを確認し、句扶がそこから出てしばらく経ってから蔣斌も出た。身なりはどこからどう見ても農民だった。

 武功の農民になることは難しくなかった。役人に願い出ると、何やら暗号のような文字の羅列が書かれた木札を渡され、王其村という武功水から目と鼻の先にある村落に行けと言われた。

 武功水から近場であることに、蔣斌は安堵した。何かあればすぐにでも漢中に逃げ帰れる場所である。

 与えられた仕事は農地の開墾であった。王其村に農地はあったがまだ少なく、これを広げていくのだという。力仕事であったが軍の調練に比べればどうということなく、蔣斌は幾日も地に鍬を振り下ろし続けた。

 働けば役人から銭を貰え、それは五日に一度開かれる市場で使えた。市を開く商人は長安からだけでなく、遠くは魏の都である許昌からも来ていて、長安周辺の村々を回り開墾に従事する者らを相手に商いをしているのだという。

 商人が多いということは、それだけ田畑を広げる仕事に就いている人が多いということなのだろう。魏もこうして増産を重ねることで、いずれ再び来る蜀との戦に備えているに違いない。過去に蜀軍は、兵糧の欠乏を理由に何度も煮え湯を飲まされ続けているのだ。

 蔣斌は、市が開かれれば必ずそこへと足を運び、その行きと帰りに武功内をくまなく歩き回った。東は馬塚原を調べ、役人の目を盗んで武功水を渡り五丈原を登った。今まで学んだ軍学を思い浮かべながら、その地形を頭に入れていった。そして月に一度は、蚩尤軍の拠点で句扶と密かに会い、見たこと気付いたことを全て話した。こうして蔣斌の得た情報は、蚩尤軍を介して漢中へと送られ、やがて成都の諸葛亮のところへと届くのだろう。

 句扶と会ったその日の帰りに、王其村の中で一人の女に声をかけられた。

「お兄さん、こんな時間にどこ行ってたの」

 蔣斌は全身を緊張させた。見た目はただの村娘だが、黒蜘蛛は男だけとは限らないと句扶から言われているのだ。

「どうしたの。そんな恐い顔して」

「魚を釣りに行っていた。俺は魚が好きなんだ」

 いつ役人から聞き咎められてもいいよう、川辺で句扶と落ち合う時は、武功水の魚を釣って魚籠に入れていた。

「ふうん、見せて」

 言って女は近づいてきて、魚籠の中を覗いた。覗くその胸元から日に焼けた肌が見え、思わずそちらに目がいってしまった。

「この魚、ちょうだい」

 女が魚籠の中を指差しながら言った。

「何言ってんだ。これは俺のだ」

「けち臭い。お代は体で払ってあげてもいいのよ。さっき、あたしの胸見てたでしょ」

「あっちへ行け、この売女め」

 蔣斌は手を振って女を追い払った。

 黒蜘蛛に気をつけろ。煩悩を押しのけるよう、句扶から言われたその言葉を思い出した。体が女を求めれば、市で銭を払えばいいだけのことだ。

 次の日、蔣斌は王其村内を歩き回った。昨日の女が黒蜘蛛でないただの村娘であれば、今頃どこかで農作業をしているはずだ。その確認だけはしておくべきだと思った。

 昨日話しかけられた道の近くに、その女はいた。

 女は、女子供がするような軽作業ではなく、男に混じって鍬を手に畑を耕していた。蔣斌は繁みに隠れながらその様子を眺めた。何故、女が男の仕事をしているのだろうか。あの女が黒蜘蛛であるならば、もっと普通に振る舞っているはずではないだろうか。

 蔣斌は繁みから出て、さり気なく女の耕す畑の傍を通ってみた。

 すぐに女はこちらに気付き、声をかけてきた。

「昨日のお兄さん、どこ行くの」

 よく見ると美人でもなんでもない、と思った。しかし汗を拭うその女の姿は、どこか淫靡なものに見えた。

「市に女を買いに行くんだ」

「あっ、市に行くんならさ」

 女は蔣斌の言うことを無視するようにして言い、近寄ってきた。

「銭は渡すから、何かおいしいもの買ってきてよ」

「なんで俺が。自分で行け」

 女が腕を組んだ。

「若い娘が村を出て、そんな遠くまで行けるわけないでしょ」

 市までは王其村から歩いて二刻程かかる。女の歩みならもっとかかるかもしれない。この距離は女にとって遠いのか、となんとなく思った。

「他に誰かいないのか。お前の父上とか、兄弟とか」

「お父とお兄は、戦で死んだ。家にはお母しかいないもん」

 戦で死んだということは、蜀軍に殺されたということなのだろうか。あえて聞き確かめることはしなかったが、蔣斌はそれに後ろめたさを感じた。

「いいだろう。何がいいか言ってみろ」

 それを聞いて、女は白い歯を見せて笑った。

「気色の悪い女だ。家族が死んだ話をして笑う奴があるか」

「もう十分悲しんだもん。こっちはこっちで生きることに大変なんだから」

「わかったから、何が欲しいんだ」

「あたし、肉が食べたい。羊の肉でも、牛でも豚でもいい」

「わかったよ」

「銭は後でいい? 今は作業中だからさ」

「わかった、わかった」

 蔣斌ははしゃぐ女を横目にそこを後にし、市へと向かった。

 女に言われた通り肉を買い込み、妓楼にも行った。句扶に女を教えられてからしばしば妓楼には通っていて、武功に来てからも市に行く度にそうしていた。それが悪いことだとか不埒なことだとは思わない。むしろ煩悩が溜まり仕事に支障が出れば、その方が悪い。ただなんとなく、成都にいる父には知られたくないという気はする。

 市からの帰りは遠回りをして武功を見て廻った。平野に点在する村落の位置関係は、もうほとんど憶えている。武功に広がるのはほとんどが麦畑で、その穂は市が来る度に青々と実りを太らせ続けていた。この年に戦はないが、いずれ戦が始まればここの収穫は全て蚩尤軍によって接収されるのだ。行く道々の農夫らも、あの売女も、気付かぬ内に蜀のために働いているということになるのだろう。

 辺りが暗くなってきた頃、王其村に辿り着いた。昨日と同じ場所に、女はいた。

「よう、売女。肉を買ってきたぞ」

「なによそれ、酷い言い方」

「ここで体を売っているんだろう」

「家にいたらわからないと思って、ここで待ってたんだよ」

「ほう、俺のことを待っていてくれていたのか」

「ううん、肉を待ってた」

「そうかい。少し多めに買ってきたから、好きなのを選べよ」

 そう言い蔣斌は堤を開いて見せた。それを見て、女が目を輝かせていた。

「銭を払うからさ、うちにおいでよ。あたしが肉を焼くから、ついでに食べて行けばいいじゃない」

 女に言われるまま、蔣斌はついて行った。もう、黒蜘蛛のことは頭になかった。

 粗末な茅葺の家に入ると、中から嫌な臭いがした。汚物の臭いだ。土を掘り返しただけの囲炉裏に女が火を入れると、そこで初めて隅に誰かが寝ていることに気付いた。

「お母、肉が手に入ったよ」

 蔣斌は一目見て、女の母が病であるとわかった。それも、かなり重い病だ。だから魚や肉を欲しがっていたのか。

 横たわりながらそのまま糞尿を垂れ流していたようで、女はその始末を始めた。それを横目に、蔣斌は肉を小さく切って木の枝に刺し、囲炉裏の火でそれを焼いた。すぐに油が滲み出て火に落ち、じゅっと音を立てた。

「ほら、焼けたぞ」

「それじゃだめ」

 言って女が小さな鍋を取り出した。それは、悲しい程に小さな鍋だった。

「焼いただけじゃ固くて飲み下せないの。肉は粟と一緒にこれから煮るから、それはあなたが食べて」

「じゃあ、お前が食えよ」

「いちいちうるさいな。黙ってそこに置いとけばいいじゃない」

 言われて蔣斌はむっとしたが、女が真剣な顔つきで鍋に火を入れ始めたので、黙ってそれを見ていた。

 小さな鍋は、すぐにくつくつと音を立て始めた。

「篤いな。母者はいつからこうなんだ」

「前の戦でお父とお兄が死んでからよ」

 女は母に鍋で煮たものを食べさせながら言った。食べ終え母が眠るのを確認すると、女も焼いた肉を口に入れた。

「もう、長くないな」

「言われなくてもわかってる。そしたらあたしは独りだってこともね」

「独りになったらどうするんだ」

「妓楼にでも入るわよ。というか、それくらいしか行く所はないし」

「そうか」

 言って、蔣斌も焼いた肉を口に入れた。

「じゃあ、銭をくれよ」

 女が食べていた手を止め、俯いた。

「銭は、ない」

「ないって、働いてるんだから、役人からもらってるだろ」

「もらってるけど、ここで得たものは銭も作物も、全て村長に差し出さなければいけない。作物はあとから食べる分だけもらえるけど、銭は返してもらえない。その替わりに、あたしらはこの村に居続けることができるのよ。一応、村の男にも守ってもらえる」

「つまらん村だな。俺なら逃げ出してる」

「戦の世だからね。弱い者は、搾り取られる。仕方の無いことなのよ。お父も取られて、お兄も取られて、今度は病がお母を取ろうとしてる。せめてあたしが男ならって思うんだけどね」

「男は男で、大変だけどな」

「女よりはましよ。じゃあ、こっち来てよ」

 言って女は家から出て行ったので、蔣斌もそれに続いた。

 家から少し離れた草むらで、女は衣服を落とし肌を晒した。日に焼けた、さして大きくもない胸が、月の光に照らされていた。

「銭がない分は、体で払う」

「いや、いいよ」

「あたしじゃ無理ってこと?」

「そうじゃなくて、あんな話を聞いた後じゃ、抱く気になれん」

「なによそれ」

 言って女は衣服を着直し、そっぽを向いた。女の勝手さに閉口しながらも、蔣斌は何か自分が悪いことをしているようになってきた。

「肉だけ置いて帰ってよ。ここには、もう用はないでしょ」

 言った女のその背中は、やけに小さく見えた。さっき見た鍋と同じようだ。そう思うと、蔣斌の体の底から何かが込み上げてきた。

 帰ろうとする女の背に、蔣斌は抱き付いていた。そして顎を掴み、唇を吸った。女も、すぐに吸い返してきた。虫の音が響く草むらで、二人はしばらく交ぐわった。

「あたし、体の逞しい男の人好き」

 女が蔣斌の体に指を沿わせながら言った。

「ねえ、あたしの旦那になって。それであたしのこと守ってよ」

「ううん」

 蔣斌は生返事をした。下賤の女だが、それも悪くはないという気がする。しかし、父や王平は何と言うだろうか。

「ううんって、旦那になってくれるの」

 蔣斌は上半身を起こし、女の体をどかせた。

「俺はもうすぐ、ここを離れる」

「あたしも行く。ねえ、連れてってよ」

「お前の母者はどうする」

 言われて、女は黙った。

「でもしばらくしたら、戻ってくる。そしたらまた会いに来るよ」

「本当に? それでもいい。また会いに来て」

 蔣斌は頷いた。

「まだ、名を聞いていなかったな」

「あたしは、琳」

「琳か」

 良い名だ、と出そうになったのを、蔣斌は飲み込んだ。琳ともっと一緒にいたいという気持ちもあるが、これ以上情を移してはいけないという気持ちも強くあるのだ。

「あなたは、何て言うの」

「蔣斌」

「ここを離れても忘れないで。早くあたしのことを迎えに来て、蔣斌」

「そろそろ行くよ」

 悲しそうな、不安そうな顔をする琳を尻目に、蔣斌は立ち上がった。横目でちらりと見るだけで、なるべくその顔を見ないようにした。

「また、会いに来るよ」

 そう言い残し、その場を離れた。

 帰りの道中、後ろ髪を引かれる思いと同時に、激しい自責の念に駆られた。任務中だというのに、自分は何をやっているのだ。女が欲しければ銭で買えるし、成都に帰ればもっといい嫁を得ることもできるはずだ。あの下賤の女は、己の不幸な境遇故に自分のことを求めている。ただそれだけのことなのだ。

 そんなことを考えながら歩いていると、二人の歩哨を連れた役人が目の前に立ちはだかった。

「こんな時間にどこへ行く」

 蔣斌は心の中で舌打ちをした。夜間の一人歩きはこうして呼び止められることがあるということは知っていた。この村は蜀との国境に近く、魏の役人は人の出入りを強く警戒しているのだ。この役人自身が黒蜘蛛であるということもあり得る。

「市に行っていたのです。つい遊び過ぎてしまい、こんなに遅くなってしまった」

「市に行っていたにしては、何も持っていないではないか」

 買ってきた肉は、全て琳の家に置いてきていた。

「女を買っていたのです。それで、荷は何もありません」

「なら、少しは銭を持っているはずだろう。見せてみろ」

 賄賂を寄越せと言われているのだろうか。蔣斌はわずかばかりの銭を役人に見せた。市で肉と女を買ったため、ほとんど手元に残っていなかった。

 すると突然、役人は大声を立て始めた。

「荷も銭も無いとは怪しい奴め。これから役場にまで来てもらおう」

「待ってください。私はここで開墾をしている一人の農民です。怪しくもなにもないのです。家に戻れば、それを証明する鑑札もあります」

「詳しいことは、役場に行けば全て調べはつく」

 連れて行かれるのはまずい。証拠がなくても疑いがあれば、牢に入れられかねないのだ。そうなってしまえば、与えられた任を果たすことができない。場合によっては、首を打たれることもあり得る。

 不意に、腰の曲がった一人の小男が闇の中から現れた。その男はよぼよぼと歩き、そこを通り過ぎようとしていた。

 なんだという顔でその男を見ていた役人が歩哨に命じて止めさせようとすると、小男は跳躍して二人の歩哨を斬り倒した。その小男は、句扶だった。

 蔣斌も隠していた小刀を素早く手にして、役人の首を払った。鮮血が、さっと蔣斌の体を濡らした。

「馬鹿者、早く逃げるぞ」

 句扶に続き、蔣斌は走った。

 闇の中から、一つ二つと気配が湧き始めた。追われている。

 句扶は後ろを伺いながら、さっと飛刀を闇の中に投げつけた。気配が一つ消えた。しかし、まだ追われている。走るこちらの足元にも、飛刀が数本突き立った。

 武功水が見えてきた。川辺に着き岩陰を縫うようにして走り、岩のわずかな隙間に句扶の体が吸い込まれたので、蔣斌もそこに体を滑り込ませた。

 追手の気配が近づき、離れていった。しかしまだ油断はできない。

 一言も発することなくただ息をするだけで、かなりの時をそこで過ごした。もう日はかなり高く昇っている。

 句扶が指で蔣斌の体を軽く叩いてきた。

「お前の偵察は露骨すぎる。市を出た時から、お前は見られていたのだ。それに気が付かなかったか」

 言われて蔣斌は愕然とした。あそこで役人に止められたのは、偶然ではなかったということなのか。

「気付かなかった理由を言ってやろうか。女のことを考えていたな、この青二才め」

 その通りだった。しかもどこにいたのかすらわからなかった句扶に見抜かれていた。その時のことを思い返し、未熟であった自分を愧じた。

「あの女も、黒蜘蛛だったのでしょうか」

「恐らく、違う。黒蜘蛛は、長安から送られてくる者らに混じっているのがほとんどだからな。あの女は、土着の者だろう」

 蔣斌はそれを聞いてさらに驚いた。まだ会って二日の女なのに、蚩尤軍はもうそんなことまで調べ上げているのか。

「申し訳ありません」

「お前を泳がせることで、黒蜘蛛の動きが浮かんできたということもある。そういう意味で、お前の愚かさは無駄ではなかった」

ただ愚かだった。一人の女に心を動かしたため、命を落としかけたのだ。

「武功一帯は頭に入っただろう。もう、漢中に帰れ。それとも、女に未練があるか」

 蔣斌はかぶりを振った。もう黒蜘蛛に顔が割れてしまっているのだ。これ以上武功に留まることは、自殺に等しい。

「漢中に帰ります」

「三日後だ。それまでここにいろ」

「そんなに」

「黒蜘蛛を舐めるな。俺の言うことが聞けないのなら、試しに今からここを出てみるといい」

 それから三日三晩、句扶の持つ干し肉だけで二人はそこで過ごした。そして四日目の夜、句扶が先に出て周囲を確認し、蔣斌もそこから這い出た。

「すみやかにここを離れろ。追手は常にいるものと思いながら走れ」

 言って句扶は姿を消し、蔣斌は南へ走った。ずっと岩の間にいたので体の節々が痛かった。

 黒蜘蛛の気配は無かったが、句扶に言われた通り、まだ追われているのだと思いながら南へと走った。

 一人になると、琳の顔が浮かんできた。蔣斌は必死にそれを頭の中から払いのけた。

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