王平伝 3-12

 他愛もない敵だった。三つあった伏兵の一つは既に壊滅させた。こちらには数の利があるが全てが騎兵であるため、丘に籠って抗戦されたら厄介だと思ったが、包囲の一角を空けてやると敵はあっさりそこから下りてきた。で

 そこに郭淮と夏侯覇の精鋭を突っ込ませた。虎豹騎と呼ばれる、魏軍騎馬隊の中も最も勇猛な部隊である。その虎豹騎一万を半分に分け、郭淮と夏侯覇に与えてあった。

 戦意を失って逃げようとする蜀兵は、面白いように倒れていった。しかし、その兵を指揮していた敵の将は逃げてしまったようであった。

 敵の一隊を壊滅させた夏侯覇が帰ってきた。その顔は、明らかに血を見て興奮していた。

「馬鹿者」

 美酒に酔ったような顔をした夏侯覇に、張郃の怒声が飛んだ。

「あそこまで攻め立てておきながら、敵将の首一つ持って来れんのか」

 夏侯覇は、緩んだ顔をさっと引き締めた。

「申し訳ございません」

 本当は、あんな首のことなどどうでもよかった。逃したとはいっても、この戦いの大勢には何の影響もない。張郃は轡を寄せ、夏侯覇の若い顔をじっと見た。臆するところのない、いい顔だった。そしてその口元には、若者らしい無精ひげがちょろちょろと生えていた。

「あそこに張の旗がある。見えるか」

 自軍にある張郃の旗でなく、敵陣にある張の旗だ。

「見えます」

「あの首を、奪ってこい」

「はい」

 大きな返事をし、夏侯覇は勢いよく走って行った。幸い、敵は弱い。この内に、この若い将にたくさんの経験を積ませてやりたかった。

 敵の主力らしい馬の旗には郭淮を当てている。見る限り、その主力が夏侯覇に横槍を入れてくることはないだろう。張郃はその戦の様子を、勝ちが決まった闘犬を見物するような気持ちで眺めていた。

 思うように馬を動かすことができなかった。敵兵を倒せば倒すほど、地面は死体と武具で埋め尽くされていく。これは、戦場に来てみて初めてわかることだった。

 夏侯覇は丘から下りてくる敵に、五千の先頭に立って突っ込んだ。敵の顔には恐怖が浮かび、抵抗らしい抵抗もなく、夏侯覇は麦でも刈るように敵の首を狩っていった。

 敵将を見つけた。そちらへ走ろうとしたが、敵兵が阻んできた。夏侯覇は剣を振り、倒れた兵を馬で踏みつけながら進んだ。しかし地面が死体と武具で散らかっているため素早く進むことができず、ついには敵将を逃してしまった。

 自陣に戻ると、将軍から怒声を浴びせられた。普段は穏やかな将軍が初めて見せる顔だった。当然だ、と夏侯覇は思った。あの将は、討てた。それを、俺はできなかったのだ。

 夏侯覇は気持ちを引き締めなおした。張の旗。次に与えられた俺の獲物だ。五千の先頭で、馬腹を蹴った。右前方には、郭の旗。そちらから敵が出てくる気配はなかった。

 人垣が待ち受けているところへ、夏侯覇は真っ直ぐに突っ込んだ。槍。馬を飛ばせて敵を踏み潰し、剣を振った。後ろから続く虎豹騎隊も、夏侯覇の後に続いて飛んだ。中には槍を突き立てられるものもいたが、虎豹騎の圧倒的な勢いにより敵は崩れ始めていた。崩れたところを幾つかにわけた小隊が追い打ちをかける。敵を潰走させるにはもう少しだ。夏侯覇は一度敵から離れて千騎をまとめて一丸となり、敵陣の一番堅そうなところに勢いをつけて突っ込んだ。大きな壁が崩れる手応えを感じた。夏侯覇は敵中に深く入り込み、馬上から敵を斬りまくった。

 潰走が始まった。こうなると、軍はもろい。逃げ惑う敵の背中に虎豹騎の槍や戟が突き立てられていった。

張の旗。見つけた。夏侯覇はそちらに馬首を向け、馬腹を蹴った。俺は、お前の首が欲しいんだ。

周囲を守る兵を失った張の旗は、見る見る内に近づいた。敵将。こちらを見ているその顔が、ぐにゃりと歪んだ。夏侯覇は雄叫びを上げた。首が、宙に飛んだ。夏侯覇は違和感を覚えた。剣を持っていたはずの右腕が嘘のように軽い。力み過ぎて、首を飛ばした時に剣も一緒に飛んでいったのだ。夏侯覇はそれに気付いて苦笑し、腰にあるもう一本の剣を抜いた。そして剣を掲げ、叫んだ。

「敵将、討ち取ったり」

 夏侯覇の大音声が、戦場に響き渡った。小さい頃から、一度は言ってみたいと思っていたことだった。

 味方が次々とやられていく様を、王平は城門の上から眺めていた。張郃軍に動きに無駄はなく、李盛の拠る丘をあっという間に包囲し、壊滅させてしまった。そして張郃はその大軍をさらに前へと押し出してきた。

王平は城門から下り、手勢の千に出撃準備をさせた。漢中で育てた、文字通り自分の手となり足となる軍勢である。千は全て馬に乗せ、各々が得意とする武器の他に、小振りの弓を持たせている。具足を締める紐をよくよく確認し、王平も馬に乗った。

 敵将討ち取ったり、という声が微かに聞こえた。そしてすぐに、鬨の声が続いた。王平は舌打ちをした。遅かった。やられたのは誰だ。李盛か、張休か、それとも馬謖か。

すぐに句扶の部下が、討死したのは張休であることを伝えてきた。外ではまだまだ戦が終わる気配はない。急がねば。

 城門が開かれ、王平隊の千はゆっくりと城外へと出た。城内には二千を残し、指揮を句扶に任せてある。左に馬謖隊。右に張休隊。どちらも敗色濃厚だったが、将を失った張休隊の乱れは散々たるものだった。馬足を上げ始めた王平隊は、馬首を右へと巡らせた。千は縦隊となり、先頭を行く王平に続いていく。

 必死に城内へと逃げようとする張休隊の兵がそれを見て喜びの声を上げた。逆へと走る蜀軍歩兵をかき分け、王平隊は前へ前へと進んだ。夏の旗。目の前の敵は張郃ではないとわかり、少し気が楽になった。

「構え」

 縦隊で走る王平隊の千が一斉に弓を引き絞り、矢を構えた。絶好の間合いである。

「射て」

 千の矢が夏の旗に襲いかかった。張休隊の追撃に夢中だった敵騎馬隊は突然の矢を受け、ばたばたと倒れた。

 王平は弓を吊るして剣を抜いた。いくぞ。口の中で小さく呟いた。矢を受け乱れた敵に、王平隊は一体となって突っ込んだ。一つ、二つ、首を飛ばした。深入りする前に、王平は馬首を返した。数は圧倒的に向こうが多いのだ。迅速に離脱しなければ、こちらが囲まれてしまう。離れる直前、王平は視界の端で敵将の顔を見た。まだ、若い。表情までは分からなかったが、その顔はしっかりとこちらに向けられていた。

 弓。一定の距離を置き、敵が体勢を整える前にまた射こんだ。敵兵が、乱れた。奪れる。そう確信した王平は剣を掲げ、手勢と共に腹の底から吠えた。咆哮する一匹の龍が、敵の体内に突き刺さった。勢いのついた王平騎馬を止められる者は誰もいない。夏の旗。手が届くところまできている。敵の将は逃げることなく剣を振り上げ、雄叫びを上げてこちらに向かってきた。小僧、奪れるものなら奪ってみろ。

 剣を持つ右腕に力を込めた時、敵の顔がはっきりと見えた。王平ははっとした。夏候栄。何故、お前がここにいるんだ。王平は思わず馬首を返し、敵中から脱出した。離れると、すかさず敵騎馬隊が二隊の間に勢いよく割り込んできた。王平は背中を冷やりとさせた。もう一歩遅れていれば、王平隊は完全に包囲されていた。見ると、張の旗。敵の総大将張郃が率いる騎馬隊だ。

 夏の旗が下ろされ、張の旗が敵中に翻った。兵の動きからも、指揮官が代わったというのがはっきりと見て取れた。もう一度騎射をと思ったが、張郃は絶妙の間合いを維持している。この距離では、矢に威力が出ない。かといってこれ以上近づけば危険である。

 王平は周りを見渡した。張休の歩兵はほとんどが逃げ込んでいた。そして、城門に馬の旗が翻った。馬謖を収容したという句扶からの合図だ。目的は果たした。王平は張郃に注意を払いつつ、街亭城へと戻っていった。

 夏侯覇が、敵将の首を奪った。それを遠くで見ていた張郃の喉から、よし、という声が小さく出た。そして城内から王の旗の騎馬が出てきた。数は、およそ千。敵将の名は王平だということは、黒蜘蛛の調べにより分かっていた。その名を聞いた時に張郃は、どこかで聞いた名だと思った。

 王平騎馬隊は、他の隊に比べて動きが良かった。その王平隊が、夏侯覇の方へ真っ直ぐ向かっていった。

「まずい」

 張郃は馬腹を蹴った。背後からは、麾下の五千が従ってくる。

 夏侯覇は体力の全てを使い果たしているはずであった。実戦では体力の減りが激しい。しかもこれは夏侯覇の初陣である。兵の喚声と血を全身に浴び、正常な判断ができなくなっていてもおかしくない。

 王平隊は縦隊を乱すことなく騎射を放ち、夏侯覇隊に突っ込んだ。思わず張郃は唸った。これは、良い騎馬隊だ。

 馬首を翻した王平隊はもう一度騎射を放ち、勢いをつけて夏侯覇に向けて一直線に駆けだした。首を狙っているのだということが、はっきりと見て取れた。王平騎馬隊は一本の槍となり、その槍は咆哮を上げて虎豹騎を蹴散らした。王の旗が、夏の旗に見る見る内に近づいていく。間に合うか。いや、奪られる。そう諦めた張郃は、馬首を王平の背後へと向けた。夏侯覇を囮とすることで、敵将を討ち取る。それしか、選ぶ道はなかった。

 才能に満ちた若者が戦場で死んでいくのは、今までに何度も見ている。身を置く場所が戦場である限り、それは仕方の無いことであった。しかしそれは、指揮官である自分の責任である。

 やられた。そう思った瞬間、敵は馬首を返してその場から離れた。張郃はそれに目を見開いた。

「見事」

 激しく揺れる馬上で思わず呟いた。王平隊は魏軍の包囲をするりとかわし、城内へと帰っていった。張郃は夏の旗に馬を寄せた。全身に血を浴びた夏侯覇は、肩で激しく呼吸をしながら顔面を青くさせていた。

「夏侯覇」

 こちらに向けられた目は、真っ赤に血走っていた。

「なんだ」

 その目ですぐに張郃のことを確認し、夏侯覇ははっとなった。張郃はそれに、にやりと笑って返した。

「大きく吸って、大きく吐け。それを、何度か繰り返すんだ」

 夏侯覇は言われた通り、何度か深呼吸をした。それで幾らか落ち着いたようであった。

「俺の旗についてこい」

 張郃は夏侯覇を従え、街亭城から離れた。戦果は上々であった。奪った敵将の首は一つであったが、二万五千いた蜀兵は一万前後にまで減っているはずだ。こちらにも被害は出ているが、蜀軍に比べればその数はずっと少ない。

 張郃は街亭城から五里を置いて陣を布いた。そしていつでも攻撃に移れる体勢を整えた。

「郭淮」

 呼ぶと、陣を布き終えた郭淮が、粉塵まみれとなった顔で近づいてきた。

「一万を率いて敵の後方に回れ」

「御意」

 優秀な副官であった。それだけで全てを理解した郭淮は、一万と共にこの場から離れていった。

 夏侯覇は、幕舎の中で休ませていた。幕舎に入ると寝台にばったりと倒れて泥のように眠り始めたのだという。戦場で甘やかすつもりはなかった。魏軍は初戦を制しただけで、むしろこれからが本番なのだ。それを、あの小僧にも見せておかなければならない。張郃は顔を引き締めてその幕舎へと向かい、寝ている夏侯覇を蹴り飛ばした。

 城内に戻ってきた馬謖と李盛は憔悴しきっていた。王平は帰ってきた兵に手当てをさせ、まだ戦える者を城門に登らせた。

 句扶は、城内の警戒に当たらせた。先程城門を開けた時に、敵の間諜が紛れ込んだ可能性がある。句扶は部下に命じて水が入った桶を大量に用意させ、城内の火事に備えた。

 日が傾き、落ちようとしていた。王平は城壁の中央に床几を置いてそこに座った。前方では、魏軍が一万の方陣を三つ並べてこちらを睨んでいる。

 城内の兵は、一万を切っている。五千もいれば、諸葛亮本隊が来着するまでこの城を守り通すことはできるであろうが、目を覆いたくなるほどの敗戦であった。

 今一番恐れるべきことは、目の前で殺気を放つ魏軍に恐怖心を抱いた兵等が恐慌状態に陥ることだ。恐れによって大声を出す者がいれば即刻斬れ、という命令を全軍に伝えた。

 篝火の数も増やし、見張りの近くに置いた。兵の体を冷やさせないためだ。空気が乾いた涼州の夜は寒い。体を冷やせば、心も弱る。城内に入った敵の間諜がそれに付け入り火事を起こすことは十分に考えられたが、背に腹は代えられなかった。そして飯を炊き、家畜を屠ってその肉を焼き、兵の腹に入れた。腹がふくれれば、体は温もり力も出る。

 日が落ちると、魏軍も篝火を増やした。同じことを考えているのかもしれない、と王平は思った。涼州の夜に、二つの大きな炎の塊が轟轟と浮かんでいた。王平は腕を組み、一方の炎の中に座り続けた。

 夜も更けてくると、句扶がひょっこり城壁に上がってきた。

「兄者、そろそろお休みくださいませ。お体を冷やしますぞ」

「なんの。戦いの最中だというのに休んでいられるか。兵らは、俺のこういう姿を見て力を出すのだ」

 句扶もそのことはよくわかっていたので、それ以上は何も言わなかった。

「二度目の突撃をされた時、私は胆を冷やしました。間一髪で敵陣から抜け出してきたときは、ほっとしましたぞ」

 こういう言い方をして、あまり無茶をするなと咎めているのだろう。王平はそれに、苦笑いをして返した。

「そういえば、敵に夏の旗を持つ将がいた。あれは何者か、句扶は知っているか」

「恐らく、夏侯覇という者だと思います。長安で下級将校をしていた若造で、漢中で討ち取った夏侯淵の息子の一人だと聞いております」

「なるほど」

 と、王平は唸った。

「それが、何か」

「いや、なんでもない。もう少しで首が奪れそうだったので、気になってな。ところで城内の様子はどうだ」

「忍び込んでいた六人の首を討ちました。まだ城内に忍んでいる者がいるかもしれませんので、警戒は解かせておりません」

「馬謖殿と、李盛殿は」

「部屋に籠ったきり出てきません。本来なら、あの人がここに立っておくべきだと思うのですが」

 句扶が苦々しげに言った。

「まあそう言うな、幾らか怪我もされていることだろう。それにな」

 王平は句扶の耳に近づいて言った。

「あの人には、今は寝ていてもらった方がいい」

 それを聞いて句扶が少し笑ったので、王平も笑った。二人のこんなところは、昔のままであった。

 両軍が対峙し、二日が経とうとしていた。その間に王平は一睡もせず、ただ城壁の床几の上に座り続けていた。辟邪隊で鍛えた忍耐力があったので、王平にとってそれはなんでもないことであった。

 目前の敵も、相変わらず陣を組んだまま攻めの姿勢を崩していない。そして時折、兵を後方と入れ替えている。さすがは張郃の軍であった。その動きに、無駄はない。

城内の蜀兵の顔には段々と疲れの色が出始めてきたが、それは向こうも同じことだろう。兵が馬上にある分、敵の疲れの方が濃いかもしれない。しかし張郃軍から発せられる殺気は、微塵も揺るぎはしなかった。

諸葛亮率いる本隊が、ようやく姿を現した。城内に到着すると、魏延がばたばたと城壁に登ってきた。

「王平、よくぞ生きていた。話は聞いたぞ。馬謖の阿呆が、やらかしてくれたそうじゃないか」

 王平はほっとした。正直なところ、あの軍と相対することはとても体力のいることだった。魏延に拱手をすると、王平はがくっと膝を折った。その王平を、魏延の大きな腕が支えた。そして、持ち場にいる全兵士に向かって叫んだ。

「お前ら、今までよくぞ持ちこたえた。俺が来たからにはもう大丈夫だ。全軍持ち場を交代し、しっかりと休め」

 城壁から喚声と笑い声が上がった。やはり大将はこうでなくてはならない。王平は姿勢を正しながら、そう思った。

 最悪の報がしらされてきた。街亭で馬謖が兵を出して戦い、散々に打ち破られたという。どんな理由があってそんなことをしたのか。諸葛亮はその報せを聞いたとき、にわかに信じられなかった。諸葛亮は歯噛みした。そして無駄だとわかりつつも、馬謖に言ってやりたいことを伝令に対して怒鳴った。その怒りは、諸葛亮の身辺を警護している趙統が狼狽するほどだった。

 行軍中、続々と敗戦の詳細が伝えられてくる。馬謖に与えてあった二万五千の兵は、今や一万にも満たない兵力になっているという。街亭という一点を守り、本隊を待つという使命を果たすためには十分過ぎる兵力を与えていたはずだった。

 馬謖に対する不安は確かにあった。今まで諸葛亮が見てきた英傑に比べると、幾分も見劣りする。だからこそ、五千で防げる城に二万五千を差し向けたのだ。あるいは兵を与えすぎたから、この結果を生んでしまったのか。

 諸葛亮は後方の兵糧集積所に後詰として残していた羌軍三万の内、二万を街亭へと向けるよう命令を出した。これで一応の補填はできるが、やる気のない羌軍はできれば前線に出したくなかった。

 街亭に到着した。着くと、すぐに守将と兵卒を交代させた。守将の王平は一睡もすることなく城を守り、本隊の到着を待っていたのだという。そこまでできるなら、何故馬謖の暴走を止めることができなかったのか。諸葛亮の心には王平に対する感謝より、恨みの念が強く湧いた。

 城から目と鼻のさきに、馬謖を破った張郃が布陣していた。全く隙の無い陣である。騎馬を整然と整列させた三つの方陣からは強い殺気が放たれていて、今にも攻撃をしかけてきそうであった。王平はこの緊張感の中でじっと堪えていたのか。そう考えると、王平に対する悪感情は自然と消えていった。

 先ずは、この張郃軍を叩かねば。そう思った諸葛亮は城内の警備を趙広とその部下に任せ、句扶を外に放って張郃軍を調べさせた。

 そして、馬謖がいる部屋へと足を向けた。城へと帰ってきた馬謖は、怪我を理由に部屋に籠ったきり一歩も外へ出てきていないという。情けない話だった。例えば昔の劉備軍を支えた関羽や張飛なら、体の一部分を失ったとしても城壁に登り、兵を叱咤していたことだろう。

 部屋の前にいる衛兵を無視して、諸葛亮は勢いよく扉を開けた。そして驚く馬謖の顔を、思い切り平手で打った。寝台に倒れたその馬謖の顔には、反抗の色すら垣間見えた。こいつはもう、使い物にならない。そう思うと、諸葛亮の口からはいかなる言葉も出てこなかった。

「私は」

 何かを言おうとする馬謖を尻目に、諸葛亮は無言で部屋から出て行った。そして何故負けたのかを細かく調べるよう、部下に命じた。

 そうこうしている間に、句扶の諜報が第一報を伝えてきた。報せは、句扶が直接持ってきたのだという。嫌な予感がした。会った句扶は、全身が汗にまみれていた。敵に見つかったのかと聞くと、そうではないという。

「敵陣に、郭淮と一万の姿が見えません」

 それを聞き、少し考えた。そしてすぐに頭の中が真っ白になった。すぐ目の前で殺気を放っていたあの張郃軍は、囮だったのだ。敵の本命は、兵糧庫。それも弱兵一万で守る兵糧庫である。

 諸葛亮は麾下の部将である馬岱に一万の騎馬を与えて兵糧庫へと走らせた。しかし今からではもう遅いだろう。諸葛亮は祈るような気持ちで次の報を待った。

 翌朝、目の前にいた張郃軍は忽然と姿を消していた。それが何を意味するか、諸葛亮には痛いほどわかった。兵糧庫が焼かれたという報が諸葛亮に届いたのはそれからすぐだった。これでは、もう兵を前に進めることができない。

 諸葛亮は自室の椅子に座りこみ、天を仰いだ。

 取り返しのつかないことをしてしまった。魏を倒すことは、劉備が存命だった時からの蜀の悲願であった。そのために蜀は呉と結び、南蛮を征し、羌と結んだ。そして満を持して臨んだ魏との戦で負けた。それも、二万に近い兵を失うという大敗北である。こんなことになろうとは、夢にも思わなかった。負けることがあっても、少数の損害を出して城内に逃げ込めばいいと思っていた。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。

 これからの蜀軍はどうするのだ。そんなことは、考えたくもなかった。自分が考えても、もはやどうすることもできないことだった。部屋に籠って寝台に潜り、二日が経とうとしていた。部下には怪我だと言っていたが、その実は大したことなどなかった。部屋の外にいる、馬謖を見てくる人々の目が怖かった。

 兄が、優秀であった。兄の馬良は諸葛亮と組み、奪ったばかりの益州の仕組みを整えていった。その仕事振りは、誰もが認めるところであった。自然、兄弟である馬謖にも周りからの期待が寄せられた。そう思われていることを、馬謖は痛いほどにわきまえていた。

 兄のようになりたくて、書をよく読んだ。そして学んだことは、必ず誰かの前で口に出して言ってみた。言うと誰かしらが認めてくれるからだ。

「さすがは馬良殿の弟だ」そう言われるだけで、馬謖は十分満足できた。

 呉との戦で、兄が死んだ。成都から兵を送り出す時にその死は覚悟していたとはいえ、それは辛いことだった。そして諸葛亮は、自分のことを近くに置くようになった。いずれお前は蜀を背負うのだ。諸葛亮からは口癖のようにそう言われた。しかしそれは兄の馬良に対して通すべき義だったのであり、自分の能力を評価してくれてのことではなかった。

 それでも、色々と教えてくれる諸葛亮の気持ちに応えようと、馬謖は努めた。しかし歳が三十を過ぎる頃にもなると、徐々に気付き始めるのであった。自分は、凡庸である。兄の馬良や諸葛亮のように、天才的なところは欠片もなかった。そしてそれを痛感させられたのが、王平との模擬戦であった。

 自分は天才ではないが、それでも多少の才には自信があった。しかしそんなちっぽけな自信すら、王平によって打ち砕かれた。それを見た蔣琬や費禕が陰で何と言っているか、想像しただけで毛が逆立つほど苛立った。

 南征の時、諸葛亮は常に自分に先鋒を命じてきた。そして与えられた策に従えば、必ず勝てた。その策は諸葛亮が考えたものだということ知らない部下たちは、馬謖に尊敬の眼差しを送ってくるようになった。それは、気持ちの良いことであった。

 魏との戦では必ず大きな戦功を立ててやろうと心に決めていた。誰かに操られてではなく、自分一人の力で魏軍の先鋒を打ち破ってやれば、周囲の目はもっと自分のことを尊敬するようになるだろう。そうして戦功を立て、蔣琬らの鼻を明かしてやりたいと思っていた。

 しかし魏軍騎馬隊は、南蛮軍とは全く異質なるものであった。その統制は隅々にまで行き届いており、兵の動きに無駄がなかった。話が違うじゃないか。馬謖はそう叫んでしまいたかった。

 今になって思い返してみれば、何故あんな浅はかなことをしてしまったのかと思わざるとえない。もし策を誤ってもそこまでの損害は出ないであろうと、根拠もなく思い定めていた。失敗しても、どうにかなるであろうという気持ちがあった。

 何故、李盛は見え透いた敵の策にかかったのか。何故、張休はもっと奮戦してくれなかったのか。何故、王平や黄襲はもっと必死になって自分のことを止めてくれなかったのか。何れも、声に出して言えるようなことではなかった。

 唐突に、部屋の扉が開かれた。諸葛亮。何を言うわけでもなく、自分の顔に平手打ちをくらわし、黙って出て行った。言い訳をする余地すら与えてくれなかった。あんなに冷たい目をする諸葛亮を、今まで見たことがなかった。俺は、これからどうなるのだろう。

 しばらくすると、今度は扉を叩く音がして、楊儀が入ってきた。戦の様子はどのようであったか、取り調べが行われるようだ。

 馬謖は楊儀に連れられて、地下の小部屋に通された。石造りの壁に、幾つかの灯が揺れている。

 少し間を置いて、李盛も入ってきた。粗末な服に身を包んだ二人は並んで座らされ、正面には楊儀が座った。その周りを、剣を携えた衛兵が囲んでいる。

「これは、まるで囚人のようですね」

 顔前面を脂汗で照からせた李盛が言った。囚人のようなのではなく、囚人なのだ。李盛の言葉を聞いた楊儀が、低い声で苦笑していた。

 馬謖は楊儀の質問に、包み隠すことなく答えた。その都度、楊儀は竹簡に筆を走らせた。李盛は楊儀の質問に、何も憶えていないと言うのみであった。糞を漏らすくらい恐ろしい体験をしたのだ。恐らく李盛は、本当に何も憶えていないのであろう。しばらくすると李盛はこの場の物々しい雰囲気に気付いたのか、自分がどれほど勇敢に戦ったのかをまだ体にある生傷を見せながらまくし立て始めた。その間、楊儀は表情を変えることなく黙って聞いているだけだった。

「楊儀殿」

 馬謖は楊儀のただならぬ様子を前にして、思わず聞いてしまった。

「我らは、どうなるのだ」

 楊儀は視線を虚空に泳がせ、大きく息をついてから言った。

「我ら蜀軍は、ここから撤退することになりました」

「蜀軍のことではない。俺と、李盛のことを聞いているんだ」

 楊儀は首を横に振った。

「こんな時になっても、まだ自分のことしか考えることができないのか」

「何」

「あなたは何人の兵を殺したと思っているのだ。蜀軍の撤退を聞いてもまだ己のことしか案じることができないとは、情けないことだ」

 以前とは、口調が違った。

「このままだと、死罪はまぬがれないな」

「待ってくれ」

 李盛が席を立って叫んだ。卓についたその手は、小刻みに震えている。

「俺は、この人の言う通りにしていただけなんだ。それなのに、何故俺も死ななきゃいけないんだ」

 周りの衛兵が、李盛の体を取り押さえた。

「俺は騙されたんだ。この人について行けば出世できるって、張休にそう言われたんだ」

「出せ」

 楊儀が言った。衛兵は李盛の体を拘束し、担ぎ上げた。

「待て、そうだ。俺のことを平民に落としてくれ。俺が悪いわけじゃないんだから、それで十分なはずではないか。だから、平民に」

 李盛が部屋から出され、扉が閉ざされた。外からはまだ李盛が何かを喚いているのが聞こえたが、すぐに聞こえなくなった。

「馬謖、お前は何かあるか」

 馬謖は卓に肘をつき、頭を抱え込んだ。どうしてこのようなことになってしまったのか。

「俺は、自分で望んで出世をしてきたのではない。諸葛亮という男が、勝手に仕立てあげてきたことなのだ。俺の器は、そんなに大それたものではなかったのだ」

「それに気付く機会は、今までに十分にあったはずだ。ここへと辿り着く前にそのことに気付けなかったのは、お前の罪だ」

 楊儀は静かに言った。

「お前に何がわかる。周りから期待され、励まされて、やっぱり自分は無能だから勘弁してくれとでも言えばよかったというのか」

「言えばよかったのだ。言えば、認められる。しかしお前は言わなかった。自分で自分のことを無能だと認める勇気がなかったのだ。己の無能を認めていれば、周りはお前のことを助けてくれただろう。認めなかったからこそ、お前は己の破滅を招いたのだ」

 馬謖ははっと顔を上げた。楊儀の変わらぬ顔が、そこにあった。

「俺は、死ぬのか」

 壁にはまだ灯がゆらゆらと揺れている。馬謖の目にはそんな灯の揺らめきすら、羨ましいものに見えた。

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