王平伝 9-7

 歩兵を率いる牛金が岩山に籠る馬岱を討ち取り、武都を後にして長安への帰途に着いた。結局、あれから王平は漢中から出てこなかった。最悪の状況を考慮して長安の郭淮に後詰を要請していたが、漢中軍が出てこなかったのでそれは無駄になった。

 夏侯覇は漢中からの援軍に備えていて、遅れてやってきた牛金の歩兵部隊に大将首の手柄を譲った。長安への着任早々に武功を上げたことで牛金は上機嫌であった。しかし長安からの援軍を無駄にしたことで、郭淮は怒っているかもしれない。元々、夏侯覇と郭淮は馬が合わなかった。

 武都で拾った氐族の苻双が、なかなか上手く馬を乗りこなすようになっていた。他の氐族の若者たちも続いて馬に乗りたがり、中には馬に振り落されて大怪我を負う者もいたが、かなりの数の氐族が騎兵になりたがっていた。蜀軍に反抗した千人以上の氐族は荒々しい者ばかりで、兵士となるに相応しいと思えた。この中のどれだけが兵として使えるかまだわからないが、体格が小柄な者ばかりなので、軽装で揃えた俊敏に動ける騎馬隊を一つ作れるかもしれない。

 行軍しながら、夏侯覇は時々氐族の様子を見物しに行った。

「大分慣れてきたではないか、苻双」

 夏侯覇の言葉に振り向いた苻双が、馬上で態勢を崩しそうになっていた。騎兵にするにはまだまだ練度が足りないが、この調子ならかなりの上達が期待できそうだった。

「もう、落馬はしません。落ちても、二日か三日に一度くらいです。これで兵になれますか」

 体中を痣だらけにした苻双が白い歯を見せて言った。

「一度も落ちないようになれ。戦場で一度でも落馬をすれば、それは命を落とすということだ」

 他の氐族の若者も同じように痣を作りながら長安までついてきた。道中で脱落した者もいたが、残った者らはなかなかの根性を見せていて、しっかりと調練すれば良い騎馬隊ができあがりそうだった。

 長安に到着した。夏侯覇は空いている兵舎に氐族を割り当て、牛金と共に郭淮への報告に向かった。後詰の要請が結果として無駄になってしまったので、それで何か言われてしまうかもしれない。

 夏侯覇の考えていることを察したのか、牛金が声をかけてきた。

「必要のなかった後詰のことを気にしているのか」

 夏侯覇は苦笑して頷いた。

「あれは軍権のあった俺に責任があるのだ。お前の気にすることではない」

「そうかもしれませんが、郭淮殿はそう見てはくれないかもしれません」

 郭淮は、どういう経緯と判断があって要請を出したのかまで調べてくるだろう。こういう所は細かい男なのだ。

「何か言われれば俺がかばってやる。心配するな」

 夏侯覇はそれに軽く礼を言っておいた。牛金は夏侯覇から手柄を取ってしまったと思って気を遣っているのかもしれない。

「事件を解決して、蜀軍の将を討ち取って帰ってきたのだ。文句を言われる筋合いなどない」

 牛金の中には、郭淮への対抗意識もあるのかもしれない。二人の軍歴はほぼ同じで、今の序列は実力によるものでなく、ほとんど運であると言っていい。場合によっては牛金が郭淮の上に立っていてもおかしくなかったのだ。馬岱を討ち取ってきたことで、長安軍内での牛金の発言力は上がるだろう。郭淮がこれを面白く思うはずがない。夏侯覇がいつまで待っても来ない漢中軍を迎え撃とうとしていたのは、牛金に阿り手柄を譲るためだったと邪推すらしているかもしれない。

 夏侯覇と牛金は郭淮の執務室に入った。

「大義であった。賊の正体を突き止め、蜀将馬岱を討ち取った功績は大きい」

 労いの言葉とは裏腹に、郭淮は険しい顔をしていた。

「大義ではあったが、大きな無駄もあった。相手は三千騎で、一万で向かったのにどうしてさらなる後詰が必要だったのだ」

 咎めるように言った郭淮のその目は、夏侯覇の方に向けられていた。後詰の要請には夏侯覇の提案があったことを知っているのだ。

 夏侯覇は一歩前に出た。

「あの地は陽平関から近く、いつ漢中から兵が出て来てもおかしくありませんでした。漢中から二万も出てくれば、我らの一万は敗走する他ありませんでした」

「戦を終えてまだ時が経たないというのに、蜀にそんな力があるものか。だからこそ馬岱軍は賊に擬装して動いていたのだ。事実、漢中軍は出てこなかった」

「郭淮殿、それは結果がそうだから言えることだ。あの地で行動していれば、漢中軍に警戒するのは当然のことではないか」

 牛金が多少声を昂ぶらせて言った。

「ならば漢中軍が来る前に夏侯覇が馬岱を攻めていればよかったのではないか。牛金の歩兵を待つまでもなかった。長安からの援軍要請などもっての他だ」

 それでも要請があれば郭淮は援軍を出さねばならない。軍を出せば、兵糧や銭がかかってしまう。中央にもその旨を申し立てなければならない。それで郭淮は不機嫌になっているのだろう。

「岩山に拠って守りを固めていたのだ。それもただの賊徒がではなく、調練された軍がしていた。これを攻めあぐねている時に、背後を漢中軍に襲われてしまえばどうする」

「漢中軍が本腰を入れてくるとわかったら冀城まで退けばよいではないか。無理に戦に付き合う必要はない。こちらはこちらで、戦で疲弊したものがまだ回復していないのだからな」

「最悪、武都が奪られることになる。郭輪殿はそれでもいいと言うのか」

「あそこの政治の方針は、搾取だ。武功では蜀軍に麦を根こそぎもっていかれたが、今の武都は奪られても失うものは少ない。武功で戦った夏侯覇ならそれがよくわかっているはずだ。違うか」

 郭淮と牛金の言い合いに肩を狭くしていた夏侯覇に話が振られた。

「私は、そこまでは」

「そこまでは考えていなかったか。どうせお前は、王平と騎馬戦をしたかっただけなのだろう。お前はやけに王平に固執しているからな。固執でなければ、牛金に馬岱を討つ手柄をくれと頼まれたのだろう」

「郭淮殿、それは冗談でも言ってはならんことだぞ」

 牛金が激昂して身を乗り出し、郭淮は座っていた椅子を引かせて怯んだ。夏侯覇は慌てて牛金の体を抑えた。

「確かに、私は王平に固執しております。それは認めます。だから、牛金殿が手柄を無心されたわけではありません」

 怯んでいた郭淮が居住まいを正した。牛金はまだ鼻息を荒くさせている。

「そうであろう、夏侯覇。ならば牛金が手柄を求めたと言ったのは取り消そう。相手が王平でなければ、二万もの後詰を呼ぼうとはしなかった。そうだな」

「はい」

 牛金に落ち着いてもらうためにも、夏侯覇は素直に答えた。牛金もそれ以上は何も言わなかった。嫌なものを残しつつ、その場はそれで解散した。

 郭淮は上からの命令には忠実でも、自らの判断で面倒なことを片付けようとはしないというところがあった。張郃の副官をしていた頃からそうで、上官の仕事は部下に許可を出すことでなく、制限を課すことだと思っている節がある。中央にいる御偉方には使い易い男なのだろうが、夏侯覇にとっては窮屈で厄介な上官だった。

 長安軍の司令官は牛金の方が良かった、と夏侯覇は密かに思っていた。思うだけで、誰に対しても言っていいことではない。郭淮を非難することで、長安軍内に郭淮と牛金の二つの派閥ができてしまいかねないからだ。

張郃がまだ生きていた頃の魏軍内には、軍内には司馬懿派と張郃派があった。張郃は意図して派閥を作ったわけでなく、むしろそういうものは嫌っていたが、人が集まればそういう派閥は自然と形勢されるのだった。蜀軍を積極的に攻めようとしない司馬懿は不人気で、自然と張郃派の人気が高くなった。

司馬懿は張郃に兵糧庫急襲作戦を提案し、張郃はそれに従った。あれは始めから失敗することを前提とした作戦ではなかったのか。司馬懿が張郃のことをどう思っていたかわからないが、軍内に二つの派閥ができていたことに危機感を抱いていたからこそ、あのような作戦を提案してきたのではないのか。張郃はそれで蜀軍の罠に嵌って落命し、軍内にあった二つの派閥は雲散霧消した。

 郭淮と牛金の不仲が顕著になれば、また同じことが起こるかもしれない。それは長安軍が力を落とすことを意味し、蜀にとっては喜ばしい状態になるだろう。夏侯覇は、蜀軍を喜ばしてまで郭淮を反抗したいとは思っていない。郭淮の叱責には不満だったが、ここは我慢すべきだった。

 夏侯覇は軍営に戻った。上申しておいた通り、苻双らへの具足の支給はきちんとされていて、徐質がさっそく氐族をまとめて調練を開始していた。

 少し大きめの具足を着けた苻双が、着心地悪そうに馬上で揺られていた。調練で力をつけて体が大きくなれば、この具足はいずれ体に合ったものになるだろう。

「そうではない。もっと背筋を伸ばすのだ」

 鞍の上に乗る苻双に向かい、徐質が怒鳴っていた。

「そんな大きな声でなくても聞こえる。何故、背筋を伸ばす。伸ばさなくても馬には乗れるぞ」

「この騎馬隊ではそう決まっているからだ。つべこべ言わずに俺の言うことを聞け」

「理由を聞いているだけなのにどうして答えてくれないのか」

 苻双も負けじと言い返していた。周りに他の氐族もいるため、面子を潰されたくないというのがあるのかもしれない。

「隊長、この頑固者に言ってやって下さいよ」

 苻双の質問は真っ当だったが、反問された徐質はそれを反抗だと感じたのだろう。部下の手前で徐質の面子もあるため、夏侯覇は苻双に歩み寄って言った。

「背筋を伸ばした状態が、一番馬に意志を伝え易い。背中の上で右に左に揺られてしまえば鬱陶しいであろう。それは馬も同じなのだ」

「わかりました。そう答えてくれればいいのに、どうして徐質殿は怒るのですか」

 言って苻双は背筋を伸ばしたまま馬を走らせた。鞍と具足をつけ、裸馬に乗っていた時よりかなり様になっていた。

 夏侯覇は憤る徐質も宥めて調練を開始した。

 自分の隊の中にも、徐質と苻双の二つの派閥ができそうだった。隊長の自分がどちらかの肩を持つということはしない方がいいのだろう。二人は対立させるのではなく、切磋琢磨させるべきだ。こういうところで隊長の器量が出るのだろうと、馬上の二人を見ながら夏侯覇は思った。

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