王平伝 9-2

 光の無い洞穴の中に、水が一滴落ちる音が響いた。

 句扶は松明に火を点けた。手足を拘束された小男が、火の光に目を細めていた。長く拘束され薄汚れた小男の肌には蟲が這っており、足元には垂れ流されたままのものが悪臭を放っている。

 五丈原で捕らえた黒蜘蛛で、名を郭循というらしい。戦は終わったためすぐには殺さず、成都に連れて帰りじっくりと責め、黒蜘蛛のことを聞きだしていた。

 句扶は項垂れた郭循の顔に水をかぶせた。ほとんど無意識でやっているのだろう、郭循は喘ぐようにして顔を流れる水を口に集めて飲みこんだ。

 捕らえて二月が経とうとしているが、さすがに本陣深くにまで入り込んできた忍びだけあり、肉体的な拷問をかけても有用な情報は得られなかった。

 しかし心を責めるように切り替えてから、様子に変化が表れ始めた。この郭循という忍びは、黒蜘蛛の棟梁である郭奕に異常なまでの固執を見せるのだった。郭という姓も、郭奕から貰ったものなのだと言っていた。

 郭奕の名を出すと、必ず反応を見せた。お前は郭奕に見捨てられたのだ。始めから捨て駒として育てられた糞みたいな存在だ。その証拠に郭奕はお前を奪還しようともしない。そう耳元で囁くと、拘束した手足から血が流れる程に暴れた。そして、最後に泣くのだった。

 句扶は、囁く内容を徐々に変えていった。お前は利用されただけなのだ。郭奕はお前に何の感情も持っていなかった。だからお前から慕われていたことを知っていながら平気で裏切った。裏切られたお前が苦しまなければならない理由はなんなのだ。苦しむべき者は、お前を裏切った者ではないか。

 時が経つにつれ暴れることはなくなり、泣くこともなくなった。その代わりに聞き取れないくらいの声で、何かを呟くようになった。心が壊れていくのがはっきりとわかった。今では句扶の言葉を静かに聞くだけで、暗闇の中に拘束されながらその言葉を待ち望んでいるようでもある。

 句扶は松明の火を郭循に近付けてしばらく囁き続けた。囁き終わると火を消し、暗闇の中で同じことを囁いた。

 句扶は郭循の口に乾飯を押し込み、洞穴を出た。暗闇の中で郭循の頭に、郭奕を非難する言葉が反響し続けているだろう。それが消えて句扶の言葉を求め始めた時、また洞穴に行って囁いてやる。こうして郭循の心を破壊し、蚩尤軍の工作員として使うつもりだった。元は黒蜘蛛だった者として、使える場はどこかにあるだろう。もし使えないとわかれば、その時に殺してやればいい。

 句扶は成都の城郭に向かった。費禕に会うためだ。

 商人に変装し、眼帯をはずして帽子を深く被って街中を歩き、人目を避けて費禕の屋敷に忍び込んだ。今や費禕は成都の反主流派と思われているため、蔣琬を補佐する立場の句扶と会っていることが明るみになってはならないのだ。

 屋根裏に入り込み、費禕の居室の上で合図した。すぐに返答があり、句扶は屋根裏から下りた。

「来たか。五丈原で忍びに襲われたせいで、少し構えてしまうな」

 費禕が苦笑して言った。費禕を襲ったのは、洞穴に拘束している郭循だ。

「それは蚩尤軍が成都にいる限り起こりえないことです。心配はいりません」

「それは心強いことだ。それはそうと楊儀のことなのだが、あの酒はよく効くな」

 酒を沸かし、麻と一緒に煮たものを費禕に渡していた。麻の粘ついたものが酒に溶け、それを飲むと強く酔うのだった。よく効いたということは、何かを聞き出せたということだろう。

「黄皓が大赦を為そうとしている。解放される罪人に恩を着せることで、自分に味方する者を増やそうというのだろう。許される者の中で一番警戒すべき者は、李厳だ。息子の李豊が東方の江州で力を持つため、この力が黄皓と結びつくことになると面倒なことになる」

 李厳は北伐の際に兵糧の輸送を怠ったため、平民に落とされた。それは黄皓と組んで諸葛亮を貶めるためだったのではないかと言う者もいる。諸葛亮が幾つか犯した、大きな人選誤りの一つだった。

「李厳を殺せばよろしいのですか」

「殺してしまえと言いたいところだが、それは蔣琬からの指示を仰いでくれ。邪魔な者でも、殺してしまえば綻びが出るということもあるからな」

「わかりました」

「それともう一つ、楊儀がおかしなことを言っていた。魏延殿がまだ生きていると言うのだ」

 表には出さないが、句扶は内心驚いた。魏延のことは、費禕には知らせていなかった。知る必要もないことだった。

「おかしなことを言うものだ。魏延殿の首は確認したはずだが、あれは偽物だったかもしれないと言うのだ」

「何故、楊儀はそう思っているのですか」

「聞いたが、そういう噂があると言うばかりで言葉を濁していた。それだけ魏延殿を恐れているというだけかもしれんが、あまりにしつこく言ってくるから気になったのだ。句扶は何か心当りはあるか」

「いえ、ありません」

 費禕が覗くような目で見てきた。句扶は、いつも通りに座っていた。

「仮の仮に、魏延殿が生きていたとしても、それは私の知らなくていいことなのだろう。伝えることはそれだけだ。行ってくれ」

 費禕が背中を向け、句扶は屋根裏に飛び上がり素早く屋敷を出た。そしてすぐに、成都の街を歩く一人の商人に戻った。

 魏延のことが気になった。先ず人目につかないだろうという場所を句扶が選んだのだ。漢中の山深い所にいるのに、成都にいる楊儀がそれに勘付くとはどういうことなのか。費禕があのように警戒しているということは、楊儀は口から出任せに言っているのではないのだろう。

 句扶は郤正の屋敷の前で来訪を告げた。今度は人目を憚ることなく堂々と正面から入った。これを見た者は、郤正は蚩尤軍と繋がりがあるのだと誰もが思うはずだ。

「お通り下さい」

 郤正自身が客間に案内した。豪奢さを感じさせない粗末な屋敷だった。郤正を蔣琬に推挙したのは、間違いではなかったと思えた。

「費禕殿からの伝言だ」

 句扶は、黄皓が帝の権威を利用して大赦を行おうとしていることと、それで李厳が復帰し蔣琬の敵になるだろうということを手短に伝えた。郤正は顔色を変えることなく、ただ頷いてそれを聞いていた。

「李厳を消す準備は一応しておくと伝えておけ。それと、山が露見しそうだとも」

「山、ですか」

 山とは、魏延のことだ。郤正には何の事だか知らせていないが、言えば言葉の通りに伝わる。

「それだけだ。蔣琬殿からは何か」

「馬岱殿が更迭されそうです。楊儀殿が、首を落とした魏延殿は替え玉だったのではないかと言っているのです。決定的な証拠はありませんが、馬岱殿が更迭されるようなことがあれば、蔣琬殿にまで余波が及びます。楊儀殿が何をやっているか探れとのことです」

 言葉が多い。そう口から出かかったが、それは堪えて頷いた。楊儀を探れ、とだけ言えばいいのだ。忍びとはいえ宮中に長くいればこうなってしまうのかもしれない。

 句扶は郤正の屋敷を出た。隣には黄皓の屋敷があり、そこの従者が句扶を見たことを黄皓の耳に入れるだろう。それで郤正は宮中で幾分か畏怖されるはずだ。

 成都城内の端にある寂れた宿に、裏口から入って二階に上がった。粗末なものを着た部下が、頭を下げて待っていた。

「今は李平と名乗っている、李厳の周辺を調べておけ」

 部下はすぐに宿から出て行った。李厳の行動を調べ上げ、殺しの計画を建てる。一日の行動に一定の規則が見つかれば、そこを突いて人知れずに殺す。黒蜘蛛のような忍びに守られているわけではないので、これは難なくできるはずだ。

 それよりも、山の方だった。これは部下に任せるわけにはいかず、自分でやるしかない。魏延の場所が割れているのなら、移動するようにも言っておかなければならない。

 句扶は馬を替えながら昼夜を徹して北へ進み、三日で漢中まで来た。漢中を黒蜘蛛から守っている趙広に人を出させ、山の周りに配して網を張った。すぐに商人体の怪しい者を三人捕らえたと報告が入った。

 漢中の拠点にしている地下部屋に、目隠しと轡をされた三人が連れてこられた。句扶を前にした三人から、目隠しと轡がはずされた。

「ここに連れてこられた理由はわかるかな」

 三人の目が句扶の片目と合い、一人が涙を流しながらその場に座り込んだ。尻の辺りが、にわかに濡れ始めていた。

「その眼帯は、蚩尤」

 座り込んだ一人が歯の奥を鳴らしながら言った。それで他の二人も腰を抜かし、命乞いを始めた。

「全て話す。だから、酷いことはしないでくれ」

「酷いこととは何だ。俺はただ、お前らに聞きたいことがあっただけだ」

 句扶は笑みを浮かべて言った。それで幾らか安心したのか、小便を漏らした者がよろよろと立ち上がって言った。

「俺たちは、見ての通りの商人だ。物も売るし、情報も売る。貰えるものさえ貰えれば、何でも話す」

「そうか。では先ずお前に与えてやろうか。何でも話したくなる苦痛を」

「ま、待ってくれ。やっぱり何もいらん。何でも話すから」

 部下がその男を押さえつけ、また目隠しがされて隣の部屋に連れて行った。暴れる体をうつ伏せにして手足を縛った。助けを乞う男の耳元で刃物を擦って耳を劈く音を出した。それだけで男は大きな悲鳴を上げて気を失った。

 句扶が部屋に戻ると、悲鳴を耳にした二人が泣きながら震える身を寄せ合っていた。引き離し、腕を縛って上から吊るした。

「商人は利のためなら平気で嘘をつく。俺は商人の口から出る言葉など信用せん。だから、体に聞かねばならん」

 二人が激しく首を振った。

「嘘など言いません。この国の蚩尤軍の恐ろしさは知っています。その蚩尤軍に嘘をついて、何の得があると言うのですか」

「そこまで言うのなら、一応聞いてやろう。あそこで何をやっていた」

「あの山で魏延という将軍に似た男を見かけました。魏延将軍の情報を買ってくれる人がいるのです」

「何故、あそこに魏延将軍がいると思う」

「蔣斌という良い所の息子が放逐されて、その後を密かにつけていったらあそこに行きついて、魏延将軍に似た男を見つけたんです」

「お前に銭を渡しているのは」

「李平という、成都のはずれに住んでいる男です」

 やはりか、と句扶は思った。楊儀は李厳からこの話を聞いたに違いない。

「嘘はついていない。裏を取る必要があるなら取ってくれ。それまで俺は大人しくしている。嘘だとなれば好きにしてくれればいい」

 物も扱っている商人だと言ったが、蔣斌と同行した王平に気付かれずに後をつけたということは、日頃から情報の売買を主に生業としているのだろう。もしかしたら、李厳が専属で使っている忍びかもしれない。

「お前らが見たのは、魏延ではない」

 句扶は鋭い刃で男の顔を撫でつけながら言った。薄皮が切れ、血が一筋流れた。

「わかりました。私が見たのは、魏延ではありません」

 男が震える唇で言った。縛られたもう一人の男も、同じように言った。

「李平とやらにそれを伝えろ。これから先、お前らはずっと蚩尤軍に監視されることになる。俺が命ずることを李平に伝えるのだ。その分の銭は払ってやろう」

「李平に、魏延ではなかったと伝えます。これからは言われた通りにします」

「裏切れば、体を少しずつ刻んで殺す。生まれてきたことを後悔させながら殺す。そうなれば、死にたいと思っても楽には死ねんぞ。俺の言うことを聞いていれば、それは無い。銭を渡してやるし、お前らの身も守ってやろう。どちらが賢い選択であるかは、わかるな」

 二人が懇願する目で何度も頷いた。頷く度に、顎の先から汗が滴った。

「お前らは運が良い。蚩尤軍に捕らえられて無傷で帰れるのだからな。しかしその運は、紙一重でいつでも最悪な方へと転ぶ」

 それだけ言うとまた二人に目隠しをして、隣の部屋で気絶していた者も含めて解放した。そして、部下をその三人の監視につけた。

 これが上手くいけば、李厳を通じて楊儀と黄皓に嘘の情報を流せるはずだ。

 黄皓と楊儀と李厳は、思っていたより深く結びついているのかもしれない。本気で蔣琬下ろしを画策しているのだろう。蔣琬がそれに負け、楊儀のような男が大きな発言力を持つ国になるなどまっぴら御免だった。好きとか嫌いでなく、体がそういうものを受け付けないのだ。こう感じている者は自分だけではないだろう。それを拒絶しきれるか、仕方なしに受け入れてしまうかで、その者の価値は決まるのだ。魏延はそれを拒絶しきった。それで、死んだということになった。それでいい、と句扶は思っていた。

 魏延に住処が知られたことを伝えて移動してもらおうかと思ったが、それはやはりやめておいた。魏延は既に蜀とは関係なく、こちらから何かを言うべきではない。漢中の山奥で静かに暮らさせてやるべきだった。

 句扶は地下部屋から出ると成都に向かった。戻る頃には、李厳の行動が全て洗い出されているはずだ。

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