王平伝 4-4

 秦嶺山脈の山道に、蜀兵が蟻のように長蛇の列を作っていた。冬が始まっていた。山の上は平地に比べ、何倍も寒い。

 諸葛亮ら文官の働きにより防寒具の類は遺漏なく揃えられていたが、それでも寒い。絶えず動いていなければ、足の先で血の巡りが悪くなり、凍傷をおこして足を切り落とさなくてはならなくなることもあるのだという。王平はそのことを、口を酸っぱくして兵に言い聞かせた。そのお蔭か、過酷な環境の中ではあったが、行軍は順調に進んでいた。

 しかし、兵の顔は暗かった。何故こんなことをしなければならないのか。口にこそ出さないが、顔色を見れば兵が何を考えているかは分かった。蜀内に留まっておけば、彼らには平穏な生活があったのだ。前回の北伐でも、魏は蜀が攻めてくるなど想定もしていなかったのだ。

 何故かということは、なるべく考えないようにしていた。自分は、蜀の軍人なのだ。ならば、蜀の首脳が持つ意思に従う他ないのだ。

 兵糧の時間になると、一時だけではあるが、兵達の顔に笑顔が戻った。寒い中での火を使った兵糧は、驚くほどに美味い。穀物を練ったものを湯の中で煮るだけの料理だったが、これは厳しい雪山でのささやかな楽しみであった。腹が満たされると、雪を固めてその中で眠った。

 山が下りになり緑が目立ってくると、皆の心はほっと安まった。今のところ、脱落者は一人も出ていない。この辺りは、さすがは諸葛亮の手配りだと思えた。

 前方の陳倉城から三里を置いて、蜀軍は陣を布いた。句扶の率いる諜報部隊によると、敵の兵力は二千。それに対する蜀軍は四万である。何の問題も無く踏み潰せるだろうと思えた。

 諸葛亮は、死んだ趙雲の後を継いで五千を率いる趙統に先鋒を命じた。相手は過少である。初めて一軍を統率する趙統に、城攻めの練習をさせるつもりなのだろう。王平は後方にいて、のんびりと戦勝の報告を待つことにした。

 そこに兎三羽を手にした句扶がやってきた。行軍中、そこらにいる獣を捕って口にすることは許されていた。蛇を切り裂いて燻製にする者もいれば、芋虫を焼いて食う者もいた。

「雪山の行軍は、大変でしたでしょうな」

 句扶が兎の肉を木の枝に刺しながら言った。

「あのような行軍は、二度とやりたくない。一兵でも損なえば大目玉を食らうから、全く気を抜くことはできなかった。一兵卒である方が良かったと、何度思ったことか」

 火に炙られた兎の肉から、脂がじゅっと音を立てて零れた。香ばしい匂いがあたりに漂った。

「陳倉城はどうなのだ」

「なかなかの堅城です。深い堀が三重に掘られ、城壁の他にその土を盛った土塁が二つあります。そして兵の顔には、決死の色が浮かんでおりました」

 句扶は他人事のように言った。与えられた任務は完璧にこなすが、それ以外のことになるとあっけらかんとしている。自分の職分以外のことに口出しをしても仕方がないと割り切っているのだ。自分もこうであれば、街亭であれほど馬謖と対立することはなかっただろう。

「あの男は、どうなのです」

「劉敏のことか。その辺で見回りでもしているのだろう」

 街亭の一戦で功のあった王平は位を上げられ、副官が付けられるようになった。諸葛亮の近くで働いていた、劉敏という男である。副官とは名ばかりの、諸葛亮の意を汲んだ軍監であった。

「兄者に見張りを付けるなど、丞相は何を考えておられるのか」

「そういうな。軍というものはそういうものだ。それに劉敏という男は、厳しいところはあるが、悪い奴ではない。要は、付き合い方だ」

 その劉敏が、腕組みをしながらやってきた。体格にはあまり恵まれてはおらず、具足が似合うとは言い難かった。

「王平殿、こんな暢気なことでよろしいのですか」

 劉敏は腕を組んだまま、呆れ顔をしながら言った。

「そう堅いことを言うな。さあ、お前も座れ。丁度、兎の肉が焼き上がるところだ」

 言われて劉敏は腰を下ろし、三人で焚火を囲んだ。王平は、劉敏に肉の一つを差し出した。

「成都では、蔣琬はどうしているのだ」

 劉敏は、蔣琬の異父弟でもあった。よく見ると、鼻の形と口元が蔣琬とよく似ている。

「成都から届いた書簡には、延々と愚痴が書かれていましたよ。北へと輸送する兵糧と補充兵の計算ばかりで、もううんざりだと」

「あいつは昔から戦場に出たいとよく言っていたからな。しかしあいつに後方を任せるとなれば、俺らは安心して戦に臨める」

 こうして蔣琬の話をしていると、劉敏の心は幾らかほぐれるようであった。そう見た王平は、事あるごとに劉敏の前で蔣琬の話をした。句扶は隣で、黙ってそれを聞いている。

「それにしても、兵が緩み過ぎているように私には見えます」

「ならどうしたいのだ。戦いがない時も、重い具足姿のまま直立させておけばいいのか」

 王平は兎の骨を口から飛ばしながらいった。

「そこまでは言いませんが」

「そう心配するな。俺の指揮した山越えを見たであろう。一兵も失わせることはなかった」

「それは、指揮官として当然のことです」

 吐き捨てるように言った劉敏を見て、句扶が少し色をなした。それを感じた王平は、大声で笑った。

「悪かった。それは、その通りだ」

 句扶が怒るのも無理はなかった。この男は副官でありながら、王平の近くで体を震わせていただけなのだ。

「飯を食って腹が落ち着けば、日没まで駆け足だ。それでいいだろう」

 劉敏はそれでようやくほっとしたような顔を見せた。この男にも、立場というものがあるのだ。それを理解してやることは、何より自分にとって大事なことだと思えた。

「わかっているだろうが、お前も共に駆けるのだ。これは、上官命令だ」

「命令などと強い言葉を使わずとも、分かっております」

 劉敏は少し嫌そうな顔をしたが、強がるようにしてそう言った。文官あがりの劉敏は、駆け足をさせてもまともに付いてくることができない。それでも、顔を苦痛に歪ませながらもこの男はなんとか付いてこようとする。そういう一面があるからこそ、王平は劉敏の不遜な態度に寛容になることができた。

 兎の肉を食い終わると句扶は一礼してその場を離れ、王平は立ち上がった。立ち上がると、周りで寛いでいた兵達も立ち上がり始め、王平が手を上げるとその前に隊列ができた。

 統率はいき届いている。指揮官として、常に気をかけておくべきことであった。これから夕刻まで、具足を付けたままでの駆け足である。隣に目をやると、劉敏が憂鬱そうな顔をしていた。王平はそれを見て、思わず笑ってしまいそうになった。

 過酷な山越えが、ようやく終わった。寒さの中で死んだ者は一人もいないという報告に、諸葛亮は満足だった。厳しい行軍への備えは、周到にしておいたのだ。

 前回の戦は、言い逃れのできない負けであった。上庸は司馬懿に取られ、羌族には足元を見られ、馬謖が大敗した。そして最も手痛かったのが、趙雲の死であった。

 街亭で蜀軍の敗北が決定的になってから、腹痛と下痢が止まらなかった。そしてそれは、漢中に帰ってきてからも続いていた。食事を摂っても自室に戻ると吐いてしまうことがあり、諸葛亮の頬はげっそりと痩せた。

 それでも弱音を吐くことは許されなかった。十万以上の人々を動かし、得たものはほとんどなかったのだ。諸葛亮はやつれを悟られないようなるべく人前に出ないようにしたが、それが避けられない時はなるべく胸を張って事に当たった。

 何よりも先ず、敗戦の穴埋めから始めなければならなかった。成都にいる蔣琬に補給を督促し、街亭で功のあった王平の位をあげて副官をつけ、羌族の名士である姜維に飾り程度の官職を与えて自分の近くに置いた。形だけは、なんとか整えることができそうだった。問題は、人心である。劉備が存命だった頃は、戦に負けても不思議と将兵の顔に暗さが浮かんでこなかった。それは、劉備軍の強さであった。しかし街亭で惨敗を喫してからの蜀軍は、漢中の天候のようにどんよりとしていた。

自分と劉備の違いは、分かっていた。劉備は軍の頭といっても、下々の者に細々とした指示を出すことはなく、将兵の言葉をよく聞いた。だが諸葛亮は劉備のようにできなかった。国という大きな仕組みを動かすには、一つの大きな意思が必要なのだ。その仕組みの中にいる者一人一人が自分勝手な意思を持てば、国は分裂しかねない。

 こういう時、劉備ならどうしていたであろうか。今更そんなことを考えても仕方のないことだが、劉備なら自分とは全く違うことをしていたという気がする。やはり自分は、一国の宰相となる器ではなかったのだろうか。

 涼州守備のために派遣されていた洛陽軍の五万が、対呉戦に備えて長安を離れたという報せが入った。それを聞き、諸葛亮は即座に再出兵を決めた。負けたまま引き下がるわけにはいかなかった。成都には、少なからず北伐に反対する者がいるのだ。このままおめおめと成都に帰ってしまえば、次はいつ兵を出せるかわからない。そうしている内に、魏の蜀に対する備えは万全なものとなってしまうだろう。兵を引き上げ油断しているこの機を逃すわけにはいかなかった。多分、劉備が生きていても同じことをしていただろうという気がする。兵をもう一度出す決定を下すと、不思議と腹痛はぴたりと止んだ。

 取るべき道は、前回の北伐で趙雲が進んだ斜谷道。この道中にある陳倉という場所に魏軍が城を築いているのだという。斜谷道を完全に封鎖されてしまえば、魏に攻め込むための道は子午道か箕谷道の二つしか選択がなくなってしまう。長安守る魏軍からすれば、こうして選択肢を狭めることで防備がぐっと楽になる、正に妙手だと思えた。蜀としては、これは容認できるものではない。

目の前に、その城が現れた。二千の小勢が籠る、まだ小さな城だ。それほど時をかけることもなく潰せるだろうと思えた。

先鋒には、父の仇討に燃える趙統を選んだ。趙雲の後を継いでから初めての戦であり、城攻めの良い経験になるだろうと思えたからだ。補佐役として、前回の北伐で趙雲の副官を務めた鄧芝をつけておいた。

句扶からの報せを受け、諸葛亮は眉をしかめた。城の周りには三重の堀と、その土を盛った土塁が築かれているのだという。一月前の報告では、まだ二つ目の堀が作られ始めたというだけのものであった。

 諸葛亮は、迷った。相手は過少とはいえ、これだけの堅城を正面から攻めればかなりの損害がでることが予想できた。素通りするという選択肢もあったが、既に攻めると決定したことを覆せば、士気に関わると思った。ただでさえ、前回の敗北で蜀軍の士気は衰えているのだ。

 諸葛亮は前回の北伐で得た、靳詳という降将を呼んだ。元は魏の軍人であった靳詳は、敵の守将である郝昭のことをいくらか知っていた。諸葛亮は投降を勧める書簡を靳詳に持たせ、陳倉城へと向かわせた。

 同時に、趙統と鄧芝に城を囲むよう下知した。交渉が決裂すれば、多少の犠牲がでようと、一息に踏み潰す。

 早朝に送った靳詳が、昼を過ぎても帰ってこなかった。諸葛亮は城攻めを決意した。その旨を前線に伝えるよう手配りをしていると、城から靳詳の従者が出てきた。

 城を明け渡すから、待って欲しいとのことだった。諸葛亮は胸を撫で下ろした。こんな所で、貴重な兵力を減らしたくはなかった。今回の魏攻めには、羌族の援軍はないのだ。

 しかし、いくら待っても陳倉城に変化はなかった。そうこうしている内に、日が落ちた。諸葛亮は苛立った。騙されているかもしれない。そう思いはしたが、夜になってしまえば城を攻めることはできない。趙統と鄧芝には、夜襲に備えておくようにと伝令を出しておいた。

 夜が明けたが、やはり陳倉城には変化がなかった。前線の趙統からは、城攻めを督促する使者が来ていた。諸葛亮が戦闘開始を決意したのとほぼ同時に、陳倉城から郝昭の書簡を手にした使者が出てきた。

 城内には抗戦を唱える者が多数いて、それらへの説得に骨を折っているのだという。諸葛亮はその者らの首を送ってくるよう書簡を認め、使者を送り返した。また、一夜が明けた。

 翌朝、城から大量の戟と剣を乗せた太平車が出てきたと、趙統からの報告を受けた。降ることで話がまとまったのだという。しかし、陳倉城の門は未だ堅く閉ざされたままであった。どうも上手くはぐらかされているような気がする。だが陳倉城の防備を見ると、攻めることに二の足を踏んでしまう。昼が過ぎると、今度は城から兵糧が出された。これで抗戦を唱える者を黙らせることができる、という書簡も付けられていた。

 四日目、趙統の軍が夜襲を受けて潰乱したとの報告を受けた。潰走しそうになったところを趙広が助けに入り、何とか踏みとどまったのだという。諸葛亮は舌打ちをした。やはり偽りの投降であった。城から出してきた夥しい数の武器も兵糧も、事前から用意してあったものなのだろう。そして陳倉城の城壁には、靳詳の首が掲げられているのだという。

 たかが二千が守る城である。こちらは四万だ。諸葛亮は趙統に軍勢を立て直し次第攻めかけるよう指示した。そして後方の魏延と王平にも、戦闘に備えるよう伝えた。

 王双は三千五百の先頭に立ち、陳倉城へと帰還した。

 城内からは大歓声が上がり、王双はそれに手を上げて答えた。歓びの声を上げる者の中には郝昭もいて、一兵卒と変わらぬ姿ではしゃいでいた。これだけの絶望的な戦いの中では、指揮官であろうが兵卒であろうが、もう関係なかった。それでいて城内が乱れているわけではない。ここにいる全員が、なにがなんでも長安を守るのだという思いで心を一つにしていた。

 三日、我慢した。城の備えを前にして二の足を踏んでいると見た郝昭が、偽りの恭順を申し出たのだ。大事なことは、時を稼ぐことだった。目の前の敵を打ち払えるとは思っていない。籠城し、やがて長安からやってくる援軍を、ただひたすらに待つ。

 洛陽から長安に三万の兵力が移動中だということは、蜀軍が到着する前に届いた曹真からの書簡で知らされていた。西から羌族が襲ってくることも考えられたため、これ以上長安の兵を移すことはできなかった。

 それでも曹真は、なんとか二千を捻出して送ってくれた。その二千は蜀軍に囲まれた陳倉城に入ることができず、外で伏せているのだということを黒蜘蛛が伝えてきた。

 王双は郝昭に夜襲を提案した。到着した二千と、城内の千五百とでの挟撃である。郝昭は王双が夜襲の名人だと知っていたため、すぐに賛同してくれた。

 目の前にある趙の旗は、あの趙雲の子であるという。まだ若造だ、と黒蜘蛛の隊長である郭奕は言っていた。郭奕も陳倉城にいて、黒蜘蛛の指揮をとっている。

 滞陣初日は堅牢であった蜀軍の構えは、日が経つにつれて緩みが見えてきた。蜀軍が郝昭の投降を信じているという証であった。

 王双は郭奕に頼んで城外に伏せている援軍の二千に夜襲のことを伝え、滞陣三日目の深夜に夜襲をかけた。

率いる兵には、全て黒装束を身につけさせた。相手からすれば、突然地から敵が湧いてきたように見えただろう。蜀兵が浮足立ったところに、埋伏していた味方の二千が背後から襲いかかった。

王双は混乱する敵陣の中で将の姿を探した。いた。幕舎からでてきたその若造は、何かを叫びながら馬に乗ろうとしていた。

もらった。そう思った王双の肌が、一気に粟立った。その近くにいた小さな男が、冷たく鋭い視線をこちらに向けていた。その背後には、闇に紛れた者が何十人もいる気配がした。あれは、やばい。

王双は撤収の合図を出した。敵将の首を奪らずとも、十分に成果を上げていた。引き揚げながら、王双はさっきの男が追ってこないかを気にした。追撃は、ないようだった。敵は体勢を立て直すことで精一杯のようである。

「よくやってくれた」

 郝昭が王双の手を取ってきた。

「蜀軍恐るるに足らず。全軍にそうお伝えください」

 戦いの本番は、これからだった。これで城内の指揮はかなり上がったはずである。蜀兵の大軍勢を前にして青くなっていた者も、生き返ったかのように喜んでいる。

 また援軍の二千を城内に入れることができたことも大きかった。これで、兵を交代させながら防戦することができる。勝てるのではないか。そんな雰囲気が、城内に充溢していた。

「隊長殿。援軍を率いてきた者が、目通りを願っております」

 王生が、そう伝えてきた。城内に入れたということへの礼かな、と王双は思った。

「目通りなどと、俺はもう軍人ではないのだぞ。どこにいるのだ。俺から会いに行こう」

 会いに行ってみると、隊長が直立していた。その隣には、従者体のまだ背が伸びきっていない少年もいた。王訓もこれくらいだったな、と思うのと同時に、喉の奥から声が出た。その少年は、王訓そのものであった。王訓は口をへの字に結び、不安そうな顔をしていた。しかしその熱い目は、しっかりとこちらに向けられていた。

「私は何度もやめておくように言ったのですが、連れて行かないのなら死ぬとまで言い出したもので」

 隊長は困ったような顔で、弁解するようにそう言った。こんなことがあろうとは、思ってもみなかったことである。王双は喜びと、この隊長を張り倒してしまいたいという思いに同時に駆られた。しかし、喜びの方が大きかった。

「何をしにきた。ここは、お前のような者が来る所ではない」

 王訓は今にも泣きだしそうな顔で、への字となっていた口を開いた。

「私も、戦いたいのです。叔父上を見捨てることなどできませんでした」

 王双は、鼻の奥が熱くなるのを感じた。こいつも、まだ小さいが、男なのだ。王双はこみあげてくるものを誤魔化すため、隊長を張り倒した。

「よく連れてきてくれた。礼を言うぞ」

 王双は王訓を伴い自室に入り、部下に命じて飯の支度をさせた。馬上の旅は、まだ若い王訓には堪えたことだろう。先ずは、腹一杯食わせてやりたかった。

 穀物を炊いたものと干し肉がすぐに運ばれてきた。それを見た王訓は勢いよくそれを食い始めた。この辺りは、やはりまだ子供なのである。明日からは、厨房にでも預けて働かせればいい。

 一つ気になっていることがあった。聞こうかどうか少し迷ったが、やはり聞かずにはいられなかった。

「白翠は、どうしている」

 王訓はそう言われ、食う手を止めた。そして、俯きながら答えた。

「王双という人はいなかったのだと、そう言っていました。叔父上がいなくなったことを悲しむどころか、本当に何事もなかったかのようにしていました」

 それを聞き、王双は笑い声を上げた。やはり俺があの女に惚れたのは、間違いではなかったのだ。これで思い残すことなく、死んでいける。

「何がおかしいのですか」

「子供にはわからんことだ」

 怪訝そうな顔をする王訓の顔を、大きな右手で掴んだ。

「お前もいずれ、女を抱けばわかることだ」

 王訓は顔を赤くさせ、王双はまた一つ笑い声を上げた。所在なさげに飯を口に運ぶ王訓の姿を、王双はしばらくじっと見つめていた。

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