王平伝 5-8

 麦が青々と実り始めていた。

 昨年の戦で奪った武都の北には、大きな盆地が秦嶺山脈の西方を抉り取っている。李厳は魏延軍の軍師格として、この盆地の南に位置する建威という城郭に四万を伴い魏軍の侵攻に備えていた。

 兵はこの盆地に屯田兵として入り、地を耕し麦を育てていた。この盆地を屯田地にした諸葛亮は流石と思わざるをえず、その実りは自分が予想していた以上のものだった。

 李厳が一人で茶を啜っていると、着衣の上からでも分かる隆々とした肉体を張り出しながら魏延が入ってきた。

「待たせたな、李厳殿」

 言った魏延の頭髪は、井戸の水でも浴びてきたのか、てかてかと濡れていた。その中には、幾らか白いものが混じっている。この齢でよくやるものだ、と李厳は思った。

「大義でございます。お疲れならば、話は後でも構いませんが」

「心配はいらん。俺は戦の話をすれば、逆に元気が出てくるのだ」

 言って、魏延は従者に出された茶を一息で飲み干した。従者は慌てて次の一杯を注いだ。

「李厳殿の二万とは、かなり動きを合わせられるようになってきた。永安で平穏に過ごしていた兵たちは、悲鳴を上げているようだがな」

「恐れ入ります。調練に関しては、私には魏延殿のような才はございませんもので」

「なんの、俺にはこれしかできないのだからな」

 李厳が恭しく答えると、魏延は大笑して答えた。

 なるほど戦になればこの男ほど心強い男はいないのかもしれないが、諸葛亮からはあまり好かれる男ではないだろうと思えた。

「さて、戦の話をしましょう」

 言って、李厳は卓の上に地図を広げた。その上には、馬を走らせて探った敵情が点々として記されてある。敵情視察は、ここら一帯の地形に明るい馬岱という将に任せていた。諸葛亮から付けられた将である。魏延の副官という立場ではあったが、言うまでもなく諸葛亮の目となるべく付けられた軍監である。それを分かってか分からずか、魏延はそれを意に介していないようであった。

「この盆地は、いい盆地だ。騎馬は自在に走れる、戦をしてくれと言わんばかりという地形だな」

 地図を前にした魏延が上機嫌に言った。戦ができるということが、相当嬉しいようだ。

「敵将は、郭淮か。曹真か張郃なら少しは楽しめると思ったが、前の戦で丞相にこてんぱんにされた奴ではないか」

「その郭淮ですが、斥候の情報によると、どうも天水から南下して来そうにないのです。兵力は、同数の四万」

 敵情を話し始めると、魏延は口を噤んでじっと地図を見つめ始めた。南下して来ない魏軍は蜀軍の威容に怯えているのだろう、とは言わない。敵は何を狙っているのか、この男なりに考えているようである。

「南下しそうではありませんが、しきりに斥候を飛ばしてはいるようです。それも南だけではなく、天水から西へも」

「狙いは俺らではなく、羌か」

「左様」

 魏延は地図の西方へと目を移し、郭淮が斥候を飛ばしているであろう箇所を指でなぞっていた。

「魏軍の攻略目標は、あくまで漢中であり、ここではないということか。四万の兵力で、俺ら四万はこちらに引き付けられたという見方もできるな」

 李厳ははっとした。さすがに戦の経験を積んでいるだけあり、戦の全体を見渡す目は持っている。ただの蛮勇の将ではないと思えた。

「なあ、李厳殿」

 地図を指でなぞっていた魏延が顔を上げ、その目をこちらに向けてきた。

「なんでしょう」

「あんた今、よく分かっているじゃないかと思ったろう」

 意外なことを言われ、李厳は狼狽した。それを見た魏延は、不敵に笑った。

「気にするな。俺は文官どもから陰で何を言われているのか、よく分かっているつもりよ。心配せずとも、俺はただ敵に突っ込むだけの将ではない。もっとも、昔はそうであったかもしれんがな」

 李厳はひたすら恐縮し、頭を下げた。魏延は一つ笑い声を上げた。

「漢中が陥落すれば、俺らは孤立してしまうな。兵を少し向こうに戻すかどうか、丞相に伺いを立ててみるか?」

 李厳は気を取り直した。この男、思っていたより食えそうもない。

「いや、攻めましょう。敵の出方が分かれば、それに乗じて敵に痛打を与えられるはずです。東部の戦線は盤石であると、丞相は言っていることですし」

「確かに、劉敏は良い城を造った。あの城を陥とすには、十万の軍勢が必要だろうな」

「盆地の西から谷間を抜けて、天水の西へと出るのがよろしかろうと思います。これで、羌中へと出る敵の退路を断てるはずです」

 李厳は地図上の要衝を指しながら言った。魏延はそれを、頷きながら聞いている。

「了解した。物見に出ている馬岱と合流し、天水の西方へ向かう。くれぐれも連絡は途切れないようにしておいてくれ」

「心得ました」

「では明日の早朝に、二万の騎馬を率いてここを発つ。羌中から仕入れた馬も喜ぶことであろう」

「一万の歩兵を、谷間に後詰として配しましょう。それで後方に憂いはなく戦ができるはずです。建威の防備は、残りの一万で十分なはずです」

「おう、李厳殿。良い軍師っぷりだ」

 言って大きな魏延の掌が、李厳の肩を叩いた。そして、早速出陣の準備に取り掛かり始めた。

 魏延が部屋から出ていくと、李厳は大きく息をついて茶を啜った。魏延は、思っていた以上の将であった。同時に、惜しいと思った。諸葛亮は、こういう男を飼い殺しにしていたのか。

 兵を漢中に戻すかと言われた時、李厳は内心焦った。そんなことをされては、密かに企図していたことが頓挫してしまうのだ。

 企図していたこととはつまり、麦秋を迎える前に、盆地に広がる麦畑を魏軍に踏み荒らしてもらうということである。

 敵がこの地を取り返しにくる気がないのならば、必ず他の何かを戦果として狙ってくるであろうことは容易に想像できた。羌族の懐柔がそれである。そしてもう一つ考え得ることが、この地の麦畑の破壊である。自分が魏軍の将ならば、必ずそれを狙うだろう。

 魏延は確かに優秀な将であるが、そこまでは気が回らなかったようだ。

 西方の最前線を軍師として任された李厳であったが、北伐に反対であるという考えは微塵も崩してはいない。この麦畑の収穫を阻害できれば、丞相は北伐の継続を考え直すはずだ。今の蜀に必要なのは、外征ではなく、内政なのだ。

 この盆地は外征のための麦を育てるものではなく、蜀軍の精強な騎馬隊を入れ、馬に草を食ませる地とすればいい。そうしてできあがった馬の防壁は、魏軍南下の大きな抑止力となるだろう。

 この戦で漢中を守りきれば、魏はしばらく蜀に攻めてはこないだろう。東には呉という敵も抱え、財政が厳しいのは蜀だけではないのである。

 戦を止めて民を安んじればいい。国とは民のためにあるべきであり、戦のためにあってはならないのだ。亡き主君の遺言があったとは言え、魏も呉も含め、この大陸に棲む人々は、一人の男のために振り回されすぎた。

 この実りに実った麦畑を敵に蹂躙させることに、後ろめたさはある。しかし、どこかで誰かがこの愚かしい戦乱に歯止めをかけなければならないのだ。


 雨が降り続いていた。

 目前には諸葛亮を将とした蜀軍が成固に堅陣を構え、迎撃態勢を取っている。なかなか見事なものだ、と司馬懿は他人事のようにそれを見ていた。

 司馬懿は、この南伐は失敗に終わるだろうと読んでいた。漢中の地は天険に囲まれ兵の士気は高く、魏から攻められることを想定しての防備もしっかりとされていた。蜀軍の総帥である諸葛亮は思慮深く、しかしそうであるがために攻めの戦では果断さに欠けていたが、こういう男は守りの戦では滅法強い。

 こういう要衝を攻めるには、奇襲か謀略の他ない。三方からの大軍をもって攻めてはいるが、蜀にはそれに備える十分な時間があったはずだ。

 この備えを崩すには、じっくりと腰を据えなければならない。そこまでの財政の余裕が、今の魏にあるとは思えない。東では、呉を相手としたもう一つの戦線があるのだ。苦しいのは、蜀だけではなかった。

 魏軍は、負ける。しかし司馬懿は、それでいいと思っていた。魏と蜀の抗争が終わってしまえば困るのである。これからも続くであろうこの戦いは、魏における自分の地位を飛躍させる絶好の好機なのだ。

 昔から、人があまり好きではなかった。若い頃から文官として漢朝に仕えていたが、いくら世のため人のために尽力しようと、常に誰かの欲望に阻害され続けてきた。人とはつまり、醜い我欲の塊でしかないのだ。いくら大義や仁徳だという美辞を並べようとも、それは我欲を粉飾するための道具に過ぎない。

 曹操という男は、我欲の強い男であったが、帝という秩序を守り続けていたという点では評価のできる人物であった。しかしその息子の曹丕は、彼の父が守ってきたものを我欲によってあっさりと壊した。そして帝となった六年後、あっけなく死んだ。病でということであったが、その死にも誰かの我欲が絡んでいたのであろうと想像することは難しくない。

 魏国の中で文官としての仕事はしっかりとこなしてきたつもりだった。人からは、清廉だと言われたこともある。しかし清廉であるが故に、人の我欲に埋もれ続けてきたという思いも強くある。魏国のために働いたために、夏侯楙という愚物に左遷されるという屈辱を受けたのは、つい二年前のことだった。

 この世の人々の我欲を抑え込むのは、大きな権力である。賞と罰を行う力だとも言っていい。その力が愚物の手に渡った時、心ある人々は迫害され、世は乱れるのだ。ならば、その力は自分の手に収めてしまえばいい。我欲を満たすためではなく、愚物の手に渡さないため、己のものにするのだ。

 さて、戦である。

 負け戦になろうとも、自分は果敢に戦ったのだという実績は残しておかなければならない。

「参ったな、司馬懿殿。この雨はしばらく続くぞ」

 軍議の中で、お手上げだというように、張郃が言った。諸葛亮が陣取る成固から東方二百里の安陽に構えた魏軍本陣の幕舎内である。上庸から河を遡上してくる兵糧も、この地に集められていた。

 張郃は、魏軍の精鋭二万を率いて魏国内を東へ西へと走り回っていた。遊撃軍と言えば聞こえがいいが、その扱われ方は使いっ走りのようであった。それでもこの男は、黙々として軍務をこなしていた。こういう有能な男がこのような扱いをされているということも、司馬懿には解せないことであった。

「曹真殿が、子午道より楽城を攻めております。ここは無理を押してでも、成固を攻めねばなりますまい」

 雨が降り続き、河が増水し始めていた。諸葛亮が構えた守りは、この河を上手く使っていた。無理に進軍すれば河により行軍は阻まれ、泥濘に兵の足は取られるだろう。蜀軍の思う壺に、自ら入って行くようなものである。

「水嵩が上がる前に攻めるべきでしょう。ここで二の足を踏んでいては、河を上ってくる兵站にも差支えがでてきます」

「それは分かるが、そう簡単に成固を抜くことができるだろうか」

 正論であった。本気で勝とうと思えば、ここは待つべきである。しかしここで張郃を出し抜かねば、今後の自分の地位が上がることはないのだ。

「長い時をかければ無駄に兵糧を消費し、それだけこちら側の不利となります。この蜀攻めに困難が伴うことは、戦を始める前からわかりきっていたことではありませんか」

 張郃は難しい顔をして腕を組んでいた。ここで無理を押せば、無駄に兵を死なせてしまうと考えているのだろう。そう考えるのは、軍を束ねる将としての当然の思考である。

「せめて、雨が止むまで待てんものか。この雨では、地がぬかるんで馬も使い物にならん」

「雨が止もうとも、しばらく地はぬかるんだままです。ならば騎馬は馬から降ろし、全軍が徒歩となって成固を攻めるべきです」

 張郃は組んだ腕をそのままに低く唸った。この名将は、勝てぬ戦と分かっていれば、決して兵を進めようとはしないだろう。それは、それでよかった。

「ならば私が半数を率いて前進し、成固から手前百里の場所に陣を布くというのはどうでしょう」

 司馬懿は、自分が折れたという風に、さりげなく提案した。

「とりあえずは、それが上策とすべきか。いつまでもここに留まってもいても、埒があかんしな」

 そう言う張郃であったが、その顔はまだ不満のままだった。

 先ずは自分が前に出て、後方に張郃が陣取る。それは自分が考えていた理想の形であった。あとは張郃の反対を押し切り、蜀に勝つための戦でなく、魏の宮中に見せるための戦をやればいい。

 翌日、司馬懿は五万の内の三万を率い、安陽を発った。雨は未だ飽くことなくしとしとと降り続き、周囲では木々の葉の下に隠れた蝉たちが喧しく鳴いていた。

この時期のこの地はよく雨が降るということを、司馬懿は知っていた。長安で治政を勤めていた時から、この地のことはよく調べておいたのだ。魏の首脳部はその程度のことも調査せず、雪を避けるという理由でこの時期を選んでいた。冬ならば河の水が凍り、その上を移動することで兵站を通すということもできるのだが、それは知られてはいないようだった。やはり人の世には、愚物ばかりであるとしか思えない。そう思うと同時に、俺ならもっと上手くやれるという思いも強くある。

 雨中に蝉の鳴く声と、荷駄を運ぶ馬の嘶きが響いている。この行軍に愚痴を漏らしている兵は少なくないだろう。張郃ならばこの不満を和らげるために何らかの手当てをするのだろうが、司馬懿は構わなかった。兵などというものは、勝てば街を略奪し女を犯す、下劣な欲望の集まりに過ぎないのだ。ならば世のため人のため、俺の志のために死ね。

 司馬懿の行く先の天は黒々として盛り上がり、陽の光が地に注ぐのを遮っていた。

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