王平伝 4-6

 信じられないほどの堅城であった。堀に積み上げた兵糧を足場にして、土塁を乗り越え城壁に取りつくも、最後は熱された油をかけられるのであった。城門を破るための衝車もあるが、堀と土塁が邪魔で使いものにならなかった。

 矢の雨と油により、蜀軍はかなりの損害を被っていた。滞在が十日を過ぎた頃から、兵を交代させながら昼夜休むことなく攻め続けた。しかし、まだ落ちない。

 陳倉に来てから、既に十七日が経過している。本来なら、長安に到着しているはずであった。少しの兵を残して軍を進めるべきだと魏延は言い始めたが、その意見が容れられることはなかった。こんな小城も落とせなければ士気に関わる、というのが理由だという。

 馬鹿な話だ、と王平は思っていた。しかし決して口には出さない。口に出してしまえば、劉敏を通じてどのような形で諸葛亮に耳に届くか分かったものではない。

 兵の顔には、疲労が色濃く出始めていた。

「今回も、負けかな」

 軍営にふらりとやってきた句扶にぼそりと言った。軍と軍のぶつかり合いになれば、句扶の間諜部隊はいくらか暇になる。

「趙広が敵の城に忍び込むことを主張していました。私はやめておけと言ったのですが、城内には趙雲殿を討った者がいるということで、珍しく譲りませんでした。丞相がそれを許可しましたが、やはり敵の備えに打ち払われたようです」

「王双といったか」

「よく御存じで」

 王平はその場に腰を下ろし、石を拾って幕舎を囲む柵に向かって投げた。木の柱に当たり、小気味の良い音を立てて石が落ちた。行軍中は、こうして野にいる兎に礫を放って捕ることもある。

 王平は二度、三度と石を拾って投げた。全てが同じ箇所に命中した。傍にいた句扶は、黙ってそれを見ていた。

「あの王双という者とは、同じ隊にいて働いたことがある。まだ、俺が洛陽にいた時の話だ」

 言ったが、句扶は身じろぎ一つせず、黙って立っている。

「俺はあいつの妹を娶り、子を生した。しかし俺は定軍山で捕えられ、洛陽に帰ることができなくなった」

 四つ目の石を投げた。しかしそれは柱からはずれ、暗い虚空へと消えていった。

「蜀の捕虜となった時、俺は何度も死ぬことを考えた。いずれ洛陽へと戻り、妻子にもう一度会うのだと思い定めることで、まだ生きてみようという気になれた。だが時が経つと共にその思いは薄れ、王双が目の前に現れたというのに俺は兵を指揮してあいつと戦い合っている」

「そういう巡り合わせだったのでしょう。残酷なようですが、それが人の世であるのだと、私は思います」

「俺は北伐が始まってから、何度も考えた。何故、俺は戦っているのだと。俺が戦わなければならない理由は、他のどこか別のところにあるのではないか」

 麻が欲しい、と王平は珍しく思った。しかし思うだけである。趙広が勧めてきた酒ですら、断っているのだ。

 妻と子に会いたかっただけだった。それが少しずつずれ、そのずれは長い時をかけて大きなずれとなってしまったという気がする。そのずれは、王平から戦うということの意味を薄れさせていた。

「すまん、句扶。愚痴ってしまったな。今のことは、忘れてくれ」

 いつも冷徹な句扶の顔が、少し動いた気がした。

「兄者は、変わられたと思っていました。自分の気持ちを隠し続け、今では隠したものが自身の姿になっておられます。しかし今の話を聞いて、兄者は根本では何も変わっていなかったのだという気がしました」

 確かに隠し続けてきた。隠し続けることで、生き延びてきた。隠すことを肯じることができなかった夏候栄は、定軍山で命を落とした。どちらの生き方が正しいのか、わからない。いや、自分の生き方が間違っていたのだと、認めたくないだけなのかもしれない。

 様々な想いを胸に眠り、目が覚めると、やはり戦は目の前にあった。自分にとって何のためにあるのか分からない戦だった。

 城の前に立つと、相変わらずうんざりするほどの矢が降ってきていた。兵糧を足場に堀を乗り越えようとすると、大量に射かけられた。盾を前にしていようと完全に防げるものではなく、死ななくとも腕や足に矢を受けて負傷する者は日に日に増えていった。

 堀を越えても、次の土塁でまた矢を受け、ようやく城壁に取りついたかと思うと熱された油を上からかけられた。

 魏軍はその過少な兵力を、あり余ると言っていい程の物量で補っていた。矢の量といい、油といい、防備は完璧にされていたのだ。それは、魏という国の底力であると思えた。

 昼夜休まず攻めるようになってから、王平は日に四刻ほど眠った。その間の指揮は、劉敏に任せた。目覚める度に、負傷兵が増えていた。こんなことで長安を落とせるのか。そう考えているのは、王平だけではないだろう。また負けるのかという空気が、蜀軍内に漂い始めていた。

 城壁の上で兵を指揮する王双の姿は、何度か見た。暗闇の中にいるその隻腕の男は影でしか分からなかったが、それは確かに王双であった。かと言って二人の間に何か特別なことがあるわけではない。互いにただ黙々と、一人の指揮官として戦っていた。

 昼夜休まず攻めるようになって十日が経つと、全軍に撤退の命令が下された。もう少しで落ちるという手応えはあったが、長安に張郃率いる三万が到着し、こちらに向かっているのだという。さすがに、速いと思えた。諸葛亮は、あと十日は余裕があると見ていたという節がある。

 また負けたという悔しさよりも、ようやく帰れるという安堵の方が大きかった。それは、兵達も同じだという気がした。洛陽に帰りたいと思っていた昔の自分が、まるで嘘のようだと思えた。時の流れは残酷なほどに、人の心を風化させてしまう。軍内における自分の無力さも、その思いを助長させていた。しかし王平は、それがおかしなことだとは思わなかった。それも、人の姿の一つなのだ。

 撤退は、怪我人から優先して始められた。堀に積み上げられた兵糧は、放棄するのだという。もしかしたら、撤退をしなければならなくなったのは、この兵糧にあるのかもしれない。

 またあの寒い山越えをしなければならないのかと考えていると、殿軍になれという命令が届けられた。殿軍は、撤退していく軍を守る盾となる重要な役割である。もしかすると、またあの張郃軍と交戦することになるかもしれない。そのことを考えると、王平はうんざりした。

王平の他には、鄧芝の補佐を受ける趙統が殿軍に選ばれた。何故魏延でなく、趙統なのだ。これは調練ではなく、実戦なのだ。その人選にも王平は不満であったが、黙って受け入れた。

 陳倉城の囲みが解かれ、蜀軍は徐々に陣を退かせていった。きっと陳倉城内では、守兵達が歓喜していることであろう。四千の兵で、十倍の敵を退けたのだ。嬉しくないであろうはずがなかった。

 王平はふと背後を振り返り、陳倉城を見た。前日までの激しい戦とはうって変わり、その城は地面に貼りついたようにひっそりとしていた。城内では、喜ぶ力すら使い果たしてしまっているのかもしれない。この時を突けば、落とせるのではないか。そんなことも頭によぎったが、余計なことは考えまいと頭から振り払った。

 離れていく陳倉城が、どんどん小さくなっていく。それは王平にとって、王双から、そして昔の思い出から、離れていくということだった。歓と子はどうしているのか。それだけでも、聞いてみたかった。

  波が引くように、蜀軍が城の周りから退いていった。

 勝ったのだ。ここ十日程、ほとんど休まず防戦を続けていた王双の体から、一気に力が抜けた。周りの兵達も、張りつめていたものが切れたかのように、その場に腰を下ろしていた。この時を狙ってまた攻められれば、間違いなくこの城は落ちる。そう思ったが、兵を叱咤する気力すら失せていた。

 何か労いの言葉をかけて回ろうか。そんなことを考えながら木の幹に背を預けて座り込み、一息ついて目を閉じると、その瞬間に眠りに落ちていた。

 どこかで、死んだ妹が何か言っていた。何を言っているかは、よくわからない。眩しい。そう思った時には目覚めていた。寝ている間に陰が動き、陽の光が王双の顔に降り注いでいた。

 妹が何を言っていたのか、思い返しても、上手く思い出せなかった。そう思ったのも束の間、王双は飛び起きた。蜀軍は、どうなったのか。

 心配は杞憂だったようで、城内は静謐としていた。俺達は、勝ったのだ。改めてそう思った。

 城壁に登ってみると、蜀軍が整然と撤退しているのが見えた。四万の大軍である。全てが撤退するのには、もう少し時間がかかるようであった。

「よく勝てたな」

 後ろから、声をかけられた。郭奕である。その顔は、不敵に笑っていた。この妙な男も、この戦勝は嬉しいようだ。

「ようやく、俺の部下が外に出ることができた。どうやら、張郃様が率いる三万がもうすぐここに到着されるらしい」

「何、もう来たのか」

「さすがに速いな、あの方が率いる軍は」

「あと十日は防戦せねばならないかと思っていた。とにかく、ぎりぎりだったな。冷静になって考えてみると、あと一日だって戦えなかったという気がする」

「俺の隊は戦闘要員ではないから、後ろでずっとお前らの戦いっぷりを見ていた。いつ落とされるかと、ひやひやしていた」

 郭奕はこんな憎まれ口を叩くが、蜀軍の隠密部隊が城内に入りこんでこないか、常に目を光らせていたはずだった。それはそれで、厳しい戦だったのだろう。

「これで、長安は守れたということだな」

「指揮官の質の違いが大きくでた一戦だった。俺が所属する方が魏軍で本当に良かった。無能な者に命令されることほど苦痛なことはないからな」

 郭奕が言うように、張郃は流石に速かった。この迅速さが、城内にいる全ての者を救った。

 城壁から外を眺めると、矢が突き立った蜀兵の死体がたくさん転がっていた。そこに野鳥が群がり、その光景は酷いものだった。

 その死体が転がる城外のさらに向こうに、蜀の殿軍が見えた。王の旗。一軍の殿を任されるほどになったとは、さすがは隊長殿ではないか。そう思うと、自然に笑みがこみ上げてきた。

 周りの兵達は、疲れ切ってはいるのだろうが、戦いきったという充足感に溢れた顔をしていた。守るべきものを、それぞれが戦い、守りきったのだ。死んだ者は少なくなかったが、それは仕方のないことだと割り切れた。大きな怪我を負った者もいるが、それを心から嘆いている者はないように見えた。

 俺は、何を守ったのか。白翠。それは自分が自分の力で守るべき、大切な女だった。

そして、王訓。今頃は疲れて厨房の片隅で寝ているのかもしれない。死んだ妹と、友であった王平が残した、大切な子であった。

川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますように。妹が言っていたその言葉が、王双の頭の中から消えたことはなかった。自分が守るべきものとは、悲しみの中で死んでいった妹の心ではなかったか。

このまま長安に帰れば、また幸福な日々はやってくるだろう。だがそれは、白翠と王訓を騙しながら生きていくということではないか。そしてそれは、自分自身すらも騙していくことになるのだろう。誤魔化しの中で得ることのできる幸福など、本当はちっぽけなものなのかもしれない。

また城外を見てみると、彼方で王の旗が揺れていた。その旗に、互いに争った者としての憎しみなどない。むしろ王双の心の中には、親しみしかなかった。

長い年月をかけて、ようやく辿り着いた場所だと思えた。

 王訓は城内でどうしているのだろうかと思い、王双は厨房の方へと足を運んだ。しかし、厨房にはいなかった。そこで働く者に聞くと、酒を持って疲れ果てている兵に配っているのだという。

 しばらく探して歩いていると、王訓が昔の部下達に囲まれて談笑しているのを見つけた。

 王双は困った。できれば、王訓が一人でいる方が良かった。王双はさりげなく談笑の輪の中に入り、王訓の手から酒を一杯もらった。

「訓、ちょっといいか」

「はい、なんでしょうか」

 王双は王訓に小さく耳打ちし、その場から離れようとした。

「どこに行かれるのですか」

 背後から声をかけられ、王双はどきりとした。王生であった。

「ちょっとな」

「いかれるのですか」

 王生が、不敵に笑いながら言った。

「お前には、関係のないことだ」

 王双は王生のことを睨んで言った。睨んだが、本当に凄みを出せていないということは、自分でもなんとなく分かった。

「俺も、行きます」

 王生が言い、立ち上がった。すると、周りにいた十数人も立ち上がった。何れも、軍人を辞める前に率いていた兵達だった。

「お前、喋ったのか」

「喋れば、隊長が困るとは思いました。しかし喋らなければ、ここにいる全員が困ることになりました」

「上官の言うことが聞けんのか」

「恐れながら、退役された隊長殿は、もう我々の上官ではありません。男と男として、言っています」

 王双は何も言い返すことができず、困った顔をすることしかできなかった。隣では、王訓が何のことやら分からないという顔をしている。

「分かった。ならば、その言葉に甘えさせてもらおう」

 兵達が、ほっとした顔をした。

「ここで、一刻待つ。お前らは、他について来たいという馬鹿どもを集めて来い。抜け駆けをすれば、恨まれてしまうからな」

 一斉に返事をし、十数人が散って行った。散ったのを確認すると、王双は厩に向かって王訓と共に走った。あいつらは、巻き添えにすべきではないのだ。

 厩に着くと、三人が待っていた。この前、王訓のことを語った三人だ。

「こんなことだろうと思いました」

「戻れ」

「戻りません」

「これは俺と訓のことであり、お前らには関係のないことだ」

「早くしないと、他の奴らも来てしまいますよ」

「なら、勝手にしろ」

 どうしようもない奴らだと思った。しかし心の中では、嬉しくないはずはなかった。

「王訓は、こちらへ。片腕だと、乗りにくいでしょう」

「叔父上。これはどういうことなのですか」

 部下の一人に抱え上げられながら、王訓が言った。王双は少し迷った。しかし、言っておくべきことだと思った。

「敵陣の中に、お前の父がいたのだ。お前の父であり、俺の友だ。俺達はこれから、その友に会いに行く」

 父と聞いて王訓は顔を驚かせていたが、すぐに緩ませた。自分の友でもあるということで、安心したのだろう。

 馬に乗り、駆けた。門衛には偵察に行くと嘘をつき、門を開けさせた。すぐに戻るから、自分が戻るまで誰が来ようと門を開けるなと、きつく言っておいた。

 門を出ると、櫓の上から見えていた旗は見えなかった。しかし見えていた方向に馬を飛ばせば、まだ遠くない所にいるはずだ。

 蜀軍に近付けば、敵将として捕えられ、首を落とされてしまうだろう。そんなことはどうでもいいことだった。久しぶりに、隊長殿に会える。それは王双にとって、単純に嬉しいことだった。そして王訓は、初めて自分の父親に会えるのだ。

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