しにたみと共存する。

つまりは希死念慮。だけど「なにそれ?」と言う人もいるだろうしなんだか重々しいから、しにたみと表現してみている。一時期流行った「バブみ」みたいな言い方。字面は丸い印象になる。実態は「死にたい」なんだけどね。

此処はどうしようもない「しにたみ」を吐き散らしていくチラシの裏のような場所。共感してもらいたいとか励ましてほしいなんて高望みはしないけれど、同じような考えの人がいるんだなぁと思ってくれる人がどこかにいたら良いなぁ、と思う。ずっと己の中で抱えてきた闇の感情を公開して発信するのはちょっと勇気がいる。この勇気によって自分の何かが変わっていくかはまだわからない。

まず「本気で死にたいの?」っていうと、割とマジで死にたい。「明日あなたは死にますよ」と宣告されたとしても「そっかー」と受け入れられる程度には。なんなら今この瞬間に死んでもべつにいいかも、とかもよく思う。
それなのになんで死ねないのかって、そりゃあ痛いのが怖いから。苦痛を伴わずに、人様に迷惑かけないで死ねる方法が無いから。これはきっと多くの死にたい人が思っていることだろう。
「死ねないから生きているだけ」という感覚なのである。生まれてきてしまったから仕方なく生きている。できるだけ長生きはしたくない。人生100年時代だなんて考えただけで絶望してしまう。平均寿命の80代だって無理。なんなら「人生四半世紀で充分」と思う。医療が発達してどんどん延びていったが、人間の本来の寿命は30年くらいだと聞いたことがある。そっちが良かった!!!(それならじきに死ねるのに!)と思った。四半世紀の歳になる頃に「遅くとも30歳までに死にたい」とも思っていたけど、それももう遠くなくなってきた。でも10000%死ねないのでそこは安心してほしい(?)

しにたみは一度覚えてしまってからは消えることが無い。でも四六時中死にたいのかというとちょっと違う。そんなに死にたくない時もある。それは自分の奥深くにしにたみが息を潜めているに過ぎないのだ。消えたわけではない。消せはしない。またふとした瞬間に、死にたい気持ちが溢れ出す。消せないのなら、共存するしかないよね。記事のタイトルはそんな感じ。

次は、私がいつから「しにたみ」を感じるようになったのかという話を振り返ってみようかなと思う。

応援したいと思ってもらえたら、サポート頂けると励みになります。限界生活の糧にします。