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#30 ドラマ「HEARTSTOPPER/ハートストッパー」のあとがき


こんにちはー、落合です。

今回のnoteはハートストッパー回の補足になります。具体的には、「恋愛に嫌悪感を持っていて、恋愛をしてる人を下に見たい気持ちがある!!」という後半の落合ヒートアップ自論に関しての説明です。声もでかい上に、恋愛をしている人や大事に思っている人に対して強い表現になってしまって最悪なので、補足させてください。「恋愛してる人を下に見たい」というのは「リア充爆発しろ」並にしょうもないし、すごく嫌な言い方でした。ごめんなさい。
私が言いたかったのは、「恋愛関係を結んでいる人に対して恋愛できないもしくはしない人に劣等感を抱かさせる現代社会のロマンチックイデオロギーがものすごく嫌!」です。これが本意です。
長くなりますが、聞いてくださった方に読んでいただけたら嬉しいです。よかったらあなたの意見も教えてください。

私の話をします。
過去の回で何度か話題にしたことがあるかもしれませんが、私は恋愛というものにずっと違和感があります。それは、恋愛コンテンツが溢れている世の中が心地よく感じられなくなってきたのと、ロマンチックラブイデオロギーが自分に馴染まないと感じているからです。

昔から、男女の恋愛が当たり前のように側にありました。ドラマも映画もほとんど恋愛は要素としてありました。そしてそれは女の人が好むテーマとして扱われていました。そうなのだろうと信じていました。私は物心ついた頃から少女漫画が好きでした。ゼロ年代の少女漫画はまだまだ恋愛モノが多く、私も中学生や高校生になったら、男の人と恋愛をするのだろうと思っていました。
小学生の時は、恋バナは楽しいものだと思い込んでいたし、クラスの男子の誰が気になるかを話すのは、自分が大人になった気持ちでした。恋愛をすることが「人生の楽しさ」であり、「生きる意味」であり、誰にとっても「普通のこと」で大人が羨ましがる「青春」で、当然私もそうなるのだろうと思っていました。

でも、そうじゃありませんでした。
異性に好意を持つのは苦痛でした。自分の好意を相手にぶつけるのはとても恐ろしいし、私が好きになった事実が相手の過去に刻まれると思うと何故か申し訳ない気持ちにもなりました。そして、異性に恋愛感情を抱く自分のことは、全く好きになれませんでした。とにかく居心地が悪く、気持ち悪いのです。
好きになったら告白して付き合う。契約みたいに彼氏と彼女になって、二人で出かけて、よくよく連絡を取り合って、友達とは違う存在として、他の人を置く。違和感がありました。他とは特別の存在として、生きている人を見ることは、自分にとっては心地いいことじゃありませんでした。

「そういう自分は良くないんじゃないか?」「劣っているんじゃないのか?」とも感じていました。だって、みんながやっていることだからです。ドラマや漫画や映画で歌でも素晴らしいって言われている!現実でもやっている人ばかり!そうやって恋愛関係ののちに家族を作るのがまるでゴールみたいな世の中です。パートナーがいない自分は負け組でした。でも私は、みんなみたいに、うまくできませんでした。

「あなたみたいに恋人がいない人はね」とゼミの教授に笑われたことがあります。「人の結婚で騒ぐより自分の心配したら?」と私を笑った上司もいます。仕方ないことです。恋愛に溢れた世界で、私に恋人がいないことは、心配するべきことで、笑われることで、自虐するべきことだからです。
恋愛は一番尊ぶべきものです。修学旅行や遠足はカップル同士で過ごすもので、恋人がいる友達と近かったり仲良かったりするとその恋人から「許す/許されない」のジャッジを受ける必要があって、誕生日やクリスマスは遠慮しなくてはいけなくて、結婚式は誰もが盛大に祝わなくてはならなくて、恋愛関係が結ばれるのは大変おめでたいからで、友達に恋人ができると私との関係が希薄になることもあるけど仕方がなくて、なぜなら私は友人の家族にはなれないけど友人の恋人は家族になれるからで、私は友人の恋人と同じ枠の『大事』に入らないのだというのも、死ぬほど分かっていました。
1人の人間と特別な関係を結んで契約をするのは人として成長するために必要で、ならば恋愛できないことはやはり恥ずべきことで、彼氏がいないと言うとみんなから笑われるのは当たり前で、拗らせてると言われるのも仕方なくて、親にも口を出されるのは私を心配してるからで、なぜなら恋愛ができない私は人として不完全だからです。

そうやってぐるぐる納得しようとしても、みんなみたいな恋愛ができませんでした。

「なんで私はうまく男の人と付き合えないんだろう?」と男性の友人に聞いたことがあります。その人はハッキリと教えてくれました。
「付き合うならあなたじゃなくていいからだよ」「みんな、あなたでは満たせないことがあるんだよ」と。途方に暮れました。私がいるのに。私はいるのに。

カルテットというドラマのあるシーンを覚えています。すずめちゃんが、夫の元へ向かおうとする真紀さんを必死に止めようとするシーンです。すずめちゃんは言います。
「夫婦が何なの? こっちだって同じシャンプー使ってるし、頭から同じ匂いしてるけど?」
そうやって、行かないでほしいと伝えます。もう私たちは家族じゃないか、と言うのです。だけど真紀さんは「彼のことが好きなんだよ」と言った挙句、すずめちゃんの耳元でこう囁きます。
「抱かれたいの」
そしてすずめちゃんは何も言えなくなります。

私はずっと、あの時のすずめちゃんの立ちすくむ姿のことを、考えてる気がします。

おそらく、私が嫌悪しているのは、テンプレートな『恋愛』だと思います。偏りがあります。物語の中で出てくるような、人々が思い描きやすいような、恋愛関係です。実際はもう少しグラデーションがあるものだと思います。人間だし。または、年月によって関係性は変わるものだと思います。

ただ、頭で分かってるのと実感が伴うかは別なので、私は恋愛自体に冷めた気持ちを抱いてしまっていますし、恋愛を尊く感じなきゃ…!!拗らせてるなんて言われないようにしなきゃ…!!とも思えなくなっています。思う気もないです。

私がアイザックの扱いに憤りを覚えたのは、多少なりとも共感を覚えてるからだと思います。ただ、自分はアロマンティックなんだ〜!という気づきが私に必要かどうかは、よく分かりません。今のところ自分のセクシャリティを知ることもしたくないです。別に知らなくていいなら、このままでいたいです。とにかく距離を置きたい、というのが本音です。私を判断するものから全て。

ハートストッパーの原作者のアリス・オズマンは、アロマンティックアセクシャルの当事者で、それを扱った著作もあります。なので、今後深く描かれるだろうアイザックを楽しみにして待とうと思います。

何はともあれ、ハートストッパーは素敵なドラマなのでおすすめです。それでも世界には恋愛のポジティブさがやっぱり必要だから。
私が証明です。

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