仏がいれば、すぐ教化されるわけではないということ。

仏は誰でもその場で教化できる、
などという誤認識も、

この時代、
改めるべき最たる一つです。

神仏がいるなら、
すぐに楽になれるだろう、
楽にならないのは、
神仏がいないからだ、になったり

或いは
目の前に本物の天界人や菩薩界人がいても、
その場で教化できるはずだと誤認識していたら
そうでないときに、そういう人を軽視してしまいます。

真言や念仏を唱えても、
即時に楽にならないのと同じです。
こちらの受取り方が、半分問われるのです。

親に投げっきりの子は育たない。
育つ子ばかりではない。
大量に芽が出れば、何をやっても育たない芽も出てくる。大量に子を産めば、何をやっても育たない子も出てくる。

衆生も、たましいの数を考えれば、相当数淘汰されて、
淘汰された芽は土に還るように、
淘汰された霊は霊そのものに還っているはずです。土は新たに芽となるように、それはそれで命が巡っている。

自分が育つ気なく親に預けるのは、
単なる怠け心。
育つ気あって預けるのは、
育つ心。

釈尊が法華経で、
いつまでも自分がこの世にいたら
衆生は怠けきるから、
私はいなくなったということにするのだ
と説かれていることが意味することは

釈尊がいても、衆生はそう簡単に教化されない。
いなくなる方が、かえって皆求め直して育つこともある。
そして真に育ったものは、釈尊が本当は消えていないという方便抜きの本当のことを知る。
ということです。

教化されきらないのは、
子の怠け心の問題です。
親が何もかも出来る訳ではない。
この世界にはエラーもある。無秩序が、秩序に塗り込められているだけで、ときどき無秩序が顔を出す。
それら全体で、世界の理。

釈尊の最後の言葉より。
「比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。諸行は滅びゆく(時間はいつまでもあるわけではない、この人生の時間は死に向かって限られている)。怠ることなく努めよ。」
『マハーパリニッバーナ経』

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