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言葉を奪うことについて

「今でも覚えている児童書はある?」という話を、近所に住む友人と話していた。友人は三田村信行の『おとうさんがいっぱい』『ウルフ探偵社シリーズ』、私はミヒャエルエンデの『モモ』、松本祐子の『リューンノールの庭』。方向性の違う2人だが、ひとつだけ共通していた本があった。

それはある日不思議な力を受け渡された主人公が妖怪を退治する、という内容の小学校高学年に向けたシリーズものの児童書で、「真っ当な言動をする子供」が「理不尽に染まった大人」に立ち向かう構図が人気を博していた。

子供心にその本が印象的だったのは、物語の中で「無知」とされている子供が大人を「正しさ」で追い詰めていく様が強烈だったからだ。双方止むに止まれぬ事情もあるだろうに…と思いながらも、当時の私は登場人物たちによって執行される「正義」から目が離せなかった。

「疑問があったんだよね」と友人は言った。痛快だとも思わなかったし、違和感があった。だから作者に手紙を書いてみたんだ、と。小学生なりに大人と子供、社会に対する疑問や怒りを書いて送ったのだという。

「そしたらさ、なんて返ってきたと思う?」
「んん、なんだろう」
「確かに社会は間違っているが、このように感じる君も間違っているよ。だって」

具体的にどんな口調で手紙を書いたのかは覚えていないけれどしらけちゃったよね、友人は言った。「本当は問いが欲しかったんだ。こんな社会や人がいる、それを疑問に思う自分がいる、それでも世界は回っている…こう感じるのはなぜなんだろうって、この作者だったら一緒に考えてくれるかもしれないと期待してたんだよ」

話のあと、このシリーズを全て読み返した。「あれ、こんなに説教くさかったかな」というのが20年ぶりに目を通してまず抱いた印象だ。自分や時代の感性が子供時代と変わったのだとは思う。ただそれだけではなく、主人公をはじめとした子供の登場人物が、作者の思想や主張を伝えるためのツールとして存在させられている構造があるようにも感じた。登場するのは誰かにとっての「理想の子供」で、あの頃の私たちではない。

「問いについて一緒に考えることを期待した」子供の頃の友人。でもその思いは言葉としてストレートに表現されたわけではない。思いがあり、切実さによりこじれ…考え伝えたかったことと手紙の上で表現されたことは別物だったはずだ。

目の前に表されたものを額面通りに掴むことは、相手の言葉を奪うことにつながりはしないか。

※画像はgoogleで適当にとってきたものなので、問題があれば消します。

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