ずっと誰かに助けて欲しかった

けれど、ついに向き合わされる。自分の力でしか自らを救うことはできなかった。一朝一夕では無理で、日々の生活を積み重ねること。覚醒した状態で物事を見つめること。その繰り返しによってはじめて自分の中身に近づくことができる。救いがあるとしたらその先なのかもしれない。

カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』の中に「ひとりひとりが暇さえあれば死んだ方がマシだと考えている不機嫌な子供」という一節がある。物語に登場する、第二次世界大戦でのアメリカ下士官兵捕虜についての記録にある文章で、彼らはどの捕虜よりも自虐的で仲間意識が薄く、「我が身の”不幸”を自分に向ける以外にない貧者」として描かれる。たとえその視点が社会や組織によって形作られたものだと分かっていても、彼らは自らを蔑み他者に助けを乞う思考のループから出られない。まさに私が十数年かけてやっていたことと同じような状態が描かれている。

人と私は違う。他人の痛みに寄り添うとき、私はその人の傷を直視する。その人の在り方がどのような形であっても、ただ見つめ続けるだけの体力が覚悟として現れるのだと思う。勇気や努力や工夫の問題ではない。踏ん張る力やたおやかさが問われていて、私にはそのどちらもまだ欠けているので、みっともない姿を晒すしかない。晒すことしかできない。思春期を脱せていない自分をただ呆然とする自分を見つめることしかできない。

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