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執着の生まれた先に

知り合いの配偶者が失踪した。
「もう無理です。心が砕けました」と言葉を残して、現金15万円を持っていなくなった。知り合いは半狂乱になり、不眠不休で24時間秒刻みにスマホの位置検索をしたり警察に失踪届を出したりと手がかりを探し、徒労の一方で何も得られずに憔悴していった。

知り合いの配偶者は、彼女から徹底して逃走していた。スマホの電源を入れるのは2日に1回数分間。誰かと通話するときはスカイプを使用し通話履歴が残らないようにする。彼女との共通の友人や仲の良い親族がいないことも、彼の逃走に有利に働いた。

私は彼女のそばで捜索を手伝う傍ら、彼女の後悔と1人残されたことへの戸惑いと怒り、繰り返す絶望の発露に「ツラいですね」「どうなるか分からないから、いつでも動けるようにしておきましょう」などという、毒にも薬にもならないような言葉を投げかけていた。ひたすら湧き上がる焦燥感と不安に押しつぶされ続ける彼女に届く言葉などない。この状況を変えられるのは失踪した彼女の配偶者が何事もなかったように戻ってくることだけ。そしてそれは当然叶えられようのない願いだった。

失踪から1週間。スマホのGPSが品川駅を表示したとき、彼女と私は五反田にいた。彼女はようやく掴んだ手がかりを握りしめ、品川駅に向かう。駅ナカで泣き叫びながら配偶者の名前を呼び続け、通話コールを繰り返したのち、ようやく駅のみどりの窓口前で配偶者と待ち合わせることとなった。

再会してから、2人の間でどんな話が交わされたのかは分からない。時折「あなたを愛しているの」「あなたなしじゃ生きていけないの」と、泣きじゃくる彼女の叫び声が、みどりの窓口のドアガラス越しにも聞こえていた。約40分間、彼女がほぼ一方的に何かを話している最中、彼女の配偶者はただ彼女以外のどこかを見ていた。時折自分の胸に手を当てる姿は、彼女の剣幕を押し返し、渦巻く鼓動を押し留めようとしているように見えた。

それまで、彼女と彼女の配偶者は20年以上ともに暮らす”仲睦まじい夫婦”だった。少なくとも「周りからはそう見えていた」。どこへ行くにも常に手をつなぎ、愛の言葉を囁き合う姿は周囲の人々、特に若い女性たちの憧れのカップル像だった。しかし、2人の関係性に近づけば近づくほど、彼女たちの”愛の形”は歪で一方的で暴力によって彩られた幻想でしかなく、沈みながら進む船のようだった。だが本人たちはそれを認めようとはせず、不安定な均衡を保つことに人生の時間と思考力を割いていた。

「家に戻る気はない」。彼女の配偶者の意思は固かった。1人にして申し訳ない、不幸にしてしまって申し訳ない、でももう無理だ…。そのようなことを繰り返し彼女に語ったという。彼女を見るだけで震えと動悸が止まらないという彼の状態は、DV被害者の健康障害とよく似ているように見える。

「20人の中の1人でもいい」「何も責めない」「だから戻ってきてほしい」「あなたがいないと私死んでしまう」「私たちならやり直せる」

祈りのような彼女の言葉は彼にどう聞こえているのだろう。


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