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誰かとつながりたい。でもお前じゃない

4年前から、SM実践者たちの取材をしている。

「女教師からの”お仕置き”」だと、スーツを着た女性に鞭打たれないと安心できない男性。クラブ嬢たちに自作のシナリオを音読させる男性。柔道着にポニーテールの嬢が正拳突きをしている姿を見て絶頂に達する男性。有刺鉄線の上に座り、踏みつけられ、粗雑に乱暴に扱われることで快楽を得る女性。見ず知らずの人にメスを渡し、自分のペニスに縦に切り込みを入れさせる男性。

一般的に「性的倒錯」と言われる人々の話を山ほど聞いてきた。彼ら彼女らは口を揃えて言った。「これはおかしい」ことで「本来はなくていい性癖」だと。「”普通”でいられたらどれだけよかったか」と。

その度に、彼ら彼女らの目や口調に諦めの色と言葉に相反した切実さが見えた。お前には一生かかってもわかるまい、でも分かってくれる仲間が欲しい。取材者として対面する限り、何もできることはないと感じた。

同じ幻想を、同じ宗教を信じられる人の存在がどれだけ希望になるか。仲間となり得る人が現れる可能性をどれだけ信じられるか、待てるのか…

朝井リョウの「正欲」は、そんな、大多数の人々が共感も想像もできず、それゆえに「異常」とされた性的嗜好を持つ個人同士がつながりを求め、「社会」からから排除されていく物語だ。

主人公たちは水に(もっといえば水が変形させられる様に)性的興奮を覚える、ということ以外はマジョリティーと近い特徴を持っている。

しかし、自分以外の人と共に生活するという社会性を獲得した生物である人間にとって、性欲は今後どのような人間と関係性を築いていくのかを方向づける指針となる。だから無生物である水が性的対象の主人公たちは、大多数の人々が経験する友情や恋愛などの人との親密な関係性を築くこと、セックス、家庭を持つことを諦め、「明日、死なないこと」を前提に生きられない。

私はずっと、この星に留学しているような感覚なんです。いるべきではない場所にいる。そういう心地です。

身の回りの人から、メディアから「多様性を認めること」が叫ばれるたびに、主人公たちは「社会」から乖離していく。自分の存在がなかったことにされていく感覚が彼ら彼女らを襲い、息苦しくさせる。

なぜならそうして叫ばれる多様性は、マジョリティーであるあなたが理解できる範囲のものでしかないからだ。物語内で喧伝される「多様性」は「話せばわかる」「みんな一緒に」「仲良く暮らそう」という言葉に接続される。

聞こえはいいが、そこには大多数の人が認められる範囲外の「多様」は含まれてない、存在すら見えていない。「認め」られようとしている人々が何を望むのかも考えられていない。「多様性」の前では全員が傷を抱えた当事者であるという甘えが、目の前の人の存在を消し去っている。

多様性を安易に叫ぶことは、人とのつながりを良好に保てない人々を排除する。「人であるならば」「つらさを分かち合って」「みんなと仲良くしたいはず」と無邪気に信じられるのは、「なんでも私に話してね」と本気で言えるのは、あまりにも”おめでたい”。

そうして、物語の主人公たちは個人の道徳観で善悪をジャッジされるようになった世の中で最後まで苦しみ続ける。

誰も彼もうっすらと病んでいる。そう感じることが多くなった。

きっとその不安定さは、社会情勢も経済情勢も確かなものが何もないという不安感からきているのかもしれない。だからリアルでもネットでも「つながり」を求める人が多くなったのかもしれない。ただ、本当は誰でもいいわけではない。つながりたい人くらい自分で選びたい。

自分が生きてしまっているこの社会を直視するのが辛くて自分では何もできないのにどうしようもなくひとりぼっちで頼れる人が誰もいない時、人はどう生きればいいんだろう。逃げればいいのか(どこへ?)。悲鳴を上げ続ける体と精神を無視して現状を続ければいいのか(なんのために?)。はたまた庵野秀明のようにモノを作り続けることが救いになるのか(できたらあなたもクリエーター!)。

めぐり続ける問いを抱えながら、私は今日も彼ら彼女らに会いにいく。

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