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英語または外国語ができるとは(その3)

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前回は「英語ができる」とは、について、本当は役割とか、その人によってできればよいことはいろいろあるはずだし、変に流暢であることやネイティブっぽいことに幻想を描いていて、できるために必要なことってちょっと違うかも、という話でした。
さて、今回は世間的に「英語ができる」ことが要求されているっぽいけど、本当にそんなに必要なのか?について考えてみたい。
ここでの焦点は次の2点です。
・英語ができないと情報不足(教育や仕事において)になるのか
・全員が英語がある程度できる必要はあるのか

そもそも、英語ができた方がよい、という問いまたは要求があるのはどうしてなんでしょ?これって、

・日本がそこそこ人口が多い
・経済的に豊か
・植民地になってない(短期間、第二次大戦後進駐されただけ)

という三要素のおかげで自国語だけで済んできたから、の裏返しじゃないでしょうか。一方で英語が現在、普遍語に近づいている理由は

・アメリカが経済的、政治的な支配力をもっている(過去はイギリスが)
・旧イギリス植民地の人口が結構大きい

からでしょう。
単に人口だけみればアラビア語や中国語だって普遍語に成長しうるけれど、上記の経済、政治、支配において欠けているわけですよね。

で、実際に英語がよく使われる場、または強い必要性がある場は、経済、政治が中心にあり、そこの影響力のおかげで、下々がみんなで共通語として話す時にも都合がよいものとして選ばれているというのが、なんだかみんなが「英語ができる」と良い、の根っこではないでしょうか。政治の場というのを考えれば、国連の公用語にフランス語があるように、以前はフランス語がそこまでの力を持てていたけれど、経済的影響力が保持出来なくて、一般的な使用でも落ち込んでいったわけでしょ。
なんだか、「英語ができる」とは、という話と離れたことを書いているのは、日本人全員が英語ができる必要はあるのか、どういう人に英語は必要なのか、という問いにつなげたいからなのです。

この話で参考にしたい本は2冊、

水村美苗「日本語が亡びるとき」
松尾義之「日本語の科学が世界を変える」

です。
水村氏の本は、出版当時、侃侃諤諤の賛否両論を湧き起こしましたが、今、冷静に読み直すと(そして、文庫版の際に加えられた増補分を読むと)、もちろん日本語自体の衰えに対する危機感も煽っている面もあるにせよ、文学を発信する言語として日本語が世界に対して機能しなくなってきてることを憂えていることが中心で、日常語としての日本語がすぐに亡びるとかいってるわけではないことがわかります(さらに言えば、普遍語となりつつある英語に対して、国語教育を全くまともに行わない日本に腹を立てているのであって、だからこそ亡びると過激に言い放ってるわけで、国語教育の必要性(それに伴った文学へ目をもっと向けて欲しいこと)を主張してるわけですね)。
この本は未だに読む価値が高い本(それも増補された文庫版で、さらに言うと英語版で読みたい)ですが、特に後半及び増補部分で語られる、

・インターネット時代の言語コミュニケーションの中心としての英語
・日本における英語教育と国語教育のバランス
・学問の場における英語の存在と日本語

が私の今回の話に関係があります。
前回の結論で私が主張した
「英語ができる」=「英語でコミュニケーションできる」
だとするなら、英語でのコミュニケーションが必要な人はどれほどいるでしょう。前回の例で行けば、日本にやってくる外国人とビジネスとして接するホテル、観光業の人やお土産物屋さんはできた方がいいことになりますよね。でも欧州あたりを旅してもわかるように、大都市、観光地は英語ができる人が多くても、少し田舎へ行けば通じないことを思えば、日本の田舎の観光業の人まで英語ができるようになったら相当すごいことです。それに土産物屋さんあたりだと英語だけ集中して上達するより、中国語や何ヶ国語か少し話せた方がウケがよくてお客も来そうですねw

英語がシリアスな意味で必要な人々は、政治やビジネスで英語で交渉し、利害関係として有利に働くだけの駆け引き必要な人くらいではないでしょうか。どうもこのあたりを私たちは、英語ができなきゃいけない人、の線引きで勘違いしてるのではないかと思うのです。もちろん、このレベルにおいてさえ、日本は現状、英語ができる人が圧倒的に少ないことが問題です。日本の国会議員やお役人たちの英語のできなさはよく目にしても、英語がすっごいできるなぁという様子を見た記憶はないですよね。もちろん外務省のお役人であれば赴任先の言語に堪能な人はいるわけですが、絶対数としてはとても少ない。総理大臣で英語ができるなぁと思えた人がほとんどいないってのは、たしかに日本人は英語ができないを最も体現してるのかもしれません(個人的には宮沢喜一氏は発音はいまいちでもとてもすばらしいと思いますし、まぁ麻生太郎氏もギリギリいいようには思いますが、あれ以下はありえないですよね、首相として海外とやりあう立場を考えれば)。
首相ともなれば逆に必ず通訳もつくでしょうから、英語が少々下手でも公的な立ち居振る舞いをする場では大丈夫かもしれませんが(いや、細かい点を考えればやはりよくないのですがw)、外交交渉、経済交渉の現場に携わる高官だと困りますよね。水村氏の著書でもそのレベルにおける日本人の英語のできなさが相当問題視されています。

これに準じるのが、企業で外国人とビジネス交渉する人たちでしょう。これはたしかに英語ができないと困る。利害関係に直結してますから。その意味では、巷の英語学校、英語学習教材などがビジネスにフォーカスするのは正しいですね。でもそれであっても別に全社員ではありません。楽天とかのように全社員が英語ができないと、みたいなスタンスはたしかに現場の必要な人々への危機感を煽れるかもしれないけれど、現実的には意味がない、強迫症的施策または企業トップの自己満足的施策と言わざるをえないでしょうw

次に学問の場での英語を考えてみましょう。
たしかに情報量として英語によって得られる情報量が一番多いという意味で、学問をするうえで英語ができた方がよいのはたしかです。しかしそれは流暢さよりも情報読み取りスキルとしての面が強いでしょう。よく言われる冗談に「国際学会での公用語は英語ではなく、下手な英語だ」というのがあります。まさにその通りで、英語は一通りのコミュニケーション手段として必要なだけで、ネイティブのようになることを要求はされていません。つまり、英語ができるようになるにせよ、ここで要求される側面はビジネス、政治とは異なるということです。
英語でないと学問の最先端に触れられない、という面はあるにせよ、一方で日本のすごいところは、日本語で相当ハイレベルな教育まで受けられることです。
冒頭に紹介したもう1冊の本「日本語の科学が世界を変える」は、この点と、日本人が日本語で科学を考えることができることが日本が画期的な業績を科学においてあげられる理由だとしています。代表的な例として湯川秀樹「中間子論」、南部・小林・益川「対称性の破れ」、木村資生「分子進化中立説」などが、日本人の元々持っている感性と日本人が日本語の感覚で考えたこそ生み出されたものとして挙げられています(実は水村氏の増補にもこの点が取り上げられていて、松尾氏の本が2015年1月、水村氏の増補文庫版が2015年4月に出ていることを思えば、きっと目を通して増補分の原稿内容に反映したのでしょう)。そして日本人が近年のノーベル賞受賞者も多く、それに準じる業績が続々残せているのも、日本語で科学を考えられるからこそだと論じています。つまり、ここでは英語は情報を得ることと海外の人のコミュニケーションツールとしてのみ必要で、それ以上の英語ではないわけです。

これと似た面は、海外で活躍する音楽家なんかもそうではないでしょうか。勉強に行った国(フランスとかドイツとかオランダとか)の言語ができることは重要で、英語はそれに準じたコミュニケーションツールレベルという感じの人たちです。世間はビジネスのマスが大きいので英語が外国語の筆頭に見えてしまいますが、実は、母語+教育や活動の場の言語+英語、という英語は三番目の人もけっこういることが忘れられがちにも思えます。

このように考えてくると「英語ができる」は、さらに絞り込めてきてるのではないでしょうか。(その立場に応じて、必要なスキルや内容に違いはあれど)

【英語必要度ランク】
《バリバリできないと困る人々》

政治、外交やビジネスで外国人と交渉し利害に直接関わる人
《読めることが望ましく、コミュニケーションもできるといいかもしれない人々》
海外の情報も必要な学問する人
《コミュニケーションとして必要》
国内観光業、海外でとりあえずコミュニケーションで必要な人、海外旅行で話せたい人
《リーディングが必要》
小説が読みたい、情報収集に必要な人

これ以外の人は実は英語がなくても困らないのでは?(と言い切るためには、実は翻訳の役割にも触れないといけないわけですが、それについては次回)
私は上でまとめたように、一部の英語で話せないと利害関係として大きな不利を被るエリアの人々だけが英語がよくできて、それ以外は必要に応じてボチボチ、大多数の人は出来なくても全然困らないでしょ、という立場です。水村氏もほぼ同様の立場であるように読めました。そういえば、成毛眞氏も日本人の10%が英語ができればいい、それ以外の人はなくても困らないと、以前Webで書いてらっしゃいましたが、私も似た量的イメージ(でももう少し多めで20%かな)です。もちろん、国民みんながすごく意識高くなって、英語で情報収集しないとな、と思って英語ができるようになることを希求するようになれば別でしょうけど、そのためには英語教育以前に、元々の教育でそういう意識付けができるほどでないとありえない事態ですから、まぁ未来永劫ないでしょうねw

なんか、今回でも終わり切れてない感じですね。
まだ続いてしまいますが、次回は補足として、じゃあ、翻訳が「英語ができる」の要求や強迫をどれほど補完しうるかを考えてみたいと思います(たぶん、次回で本当に終わりです)

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