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英語または外国語ができるとは?(その2)

前回はこちらです。

前回は、「英語ができる」ってことに関して、けっこうみんな勘違いしてそうだし、「できる」にもいくつか階層を勝手に頭の中で作ってそう、という前振りで終わってしまいました。
ということで、今回は「英語ができる」の中身について考えてみたい。

私がこの点を説明するのによく引き合いに出す本が今は亡き中尊寺ゆつこ氏の「やっぱり英語をしゃべりたい!」。これは中尊寺氏がどうやって自分は英語が話せるようになったか、そして最後は外務省の依頼でアメリカでの公式午餐会のスピーチや大学での講演を日本を代表する漫画家としてこなし、カーター元大統領とも会うという話(そしてこの本が遺著になってしまうのですが)。
英語ができる人、できない人、自分ができるようになる過程のエピソードなどが満載ですが、それはすでにある程度英語ができる人にはすでに関係ないでしょうが、中尊寺氏の英語学習の主張はやはり文法ができないと話せないでしょ、それに大人になってからやるならやはり文法を道筋にした方がいいというものでこれには私も賛成です。

よく、学校の英語もコミュニケーションを大事に(今までの学校教育英語であまりにみんなが話せるようにならなかったからにせよ)して口語的なものも取り入れるようになったけれど、私はネイティブが聞けば妙に不自然だったり硬かったりしても、文法がきちんとした英語を話せる方を優先すべきだと思ってます。正直、挨拶で"What's up!"とか言えるようになったから偉いってわけでもないでしょう。
たとえば、外国の人が日本語で話かけてくることを想定してみてください。それがたどたどしくても日本人はちゃんと聞き取ろうとするでしょう。たどたどしいのに妙に慣れたようなタメ口みたいな表現で話しかけてこられるより、ちゃんと文法にかなったものの方が聴きやすくないでしょうか?口調が硬いということはありえてもそれが無礼になることはないのですよね。。。どうも、そこらあたりを勘違いして、とにかく流暢にネイティブっぽくって思って勉強するのは何か違うように思うのです。それってTPOを誤れば失礼になるかもしれないおそれはないんでしょうかね。そしてそれは後で述べるような使う人の役割によっても大きく変わりうる点でもないでしょうか。
ということで、私も文法はある程度覚えること優先がよいと思います。もちろん従来、日本人はこの文法的に正しいことにこだわりすぎて、いつまでも話せなかったり、話すのを躊躇したりしてたわけですから程度問題ではあるのですけどね。正直、実際に話してみると、一番それにこだわっているのは同席している日本人で、外国人は気にしてないんですよね、ということに気がつけばしめたものなのですが。

中尊寺氏の本で、もう一点、重要な指摘は、「日常会話レベル」で英語ができるとは何か、ってことです。実際の日常会話ってのは「これいくら」とか「どこそこへ行きたい」ではないでしょ、って話です。
「今日はどこそこへ行ってねぇ、誰々とあってねぇ、でさぁ、こんなこと話したんだよ」
とか、
「今度の大統領選で誰々候補はあんなこといってたけど、やっぱダメだよねぇ」
といったことを話すのが日常会話でしょ、そう思ったら日常会話って実は相当レベル高いってことに気づけよ!ってことです。
つまり、世間で「英語、どの程度できますか?」「日常会話レベル程度です」って(もしかして謙遜して)言ってるのは実質「お手軽海外旅行レベル」に過ぎないのではないか、その程度で「英語はできる」なのかという指摘です。もちろん、そのレベルでもできた方がともいえますが、そういうレベルでなくちゃんとした「日常会話レベル」になるためにも、ちゃんとした勉強は必要でしょ、ってことなわけですね。(ここまでくると、何を話すかという発信力の問題も入り込んできるわけで、あなたにはしゃべりたいことがちゃんとある?ということも問うてるわけです)。

さっきも触れかけた役割によっても違うんじゃない、という意味は「みんな英語できないとね」は本当なのか、という部分を考える時に、英語を必要とするのは誰か、という部分に関わります。
たとえば、日本が観光立国を目指して、ますます海外からのお客を呼んでおもてなししたいと思ってる時に、外国語ができた方がいいというのはわかります。特に観光業、宿泊業、お土産物屋さんの人は外国人を接客する立場として外国語ができた方が望ましいといえるでしょう。そこにもできた方がよいレベルってのはあるはずで、たとえばお土産物屋さんあたりだと、実は向こうから来た人にとっても会話内容は「お手軽海外旅行レベル」に近づくはずですから、覚えるべきことは「お手軽海外旅行レベル+α」でいけそうです。でも宿泊業、観光業の人だとそれでは済まずに、より多様な質問に答えたり応対を考えれば「日常会話レベル」が必要になりそうです。つまり「英語ができる」の最低限ラインはその人の仕事によってもいろいろありそうです。

中尊寺氏が指摘する中には逸話として(イニシャルにはなってますが)高橋源一郎氏や横尾忠則氏がアメリカで通訳をつけて講演をするもったいなさも書いています。通訳をつける分、結局は時間は半分しか有効に使えないから。メッセージを発信する人が重要、または本業の人は話せた方がよいという考え方のようです(その点、村上春樹氏は英語で常に話そうとしてるからちゃんとした国際派だと評価してます)。
ただここは微妙ですね、細かいニュアンスを話せるほどになるのは大変、一方で通訳に任せたからといって伝わるかも微妙、というところですから。でもこれもその人の仕事によって英語が必要かどうか、そしてどの程度のレベルで「英語ができる」の違いにはなりそうです。

より実践的に「英語ができる」ことを示している本として、もう一冊紹介しておきましょう。これはわたしは名著だと思います。リスニングのための参考書ですが、英語を聞き話すという思想をしっかり打ち出しているからこその名著「英語リスニング・クリニック」です(この本より後に「英語リスニング・クリニック(初診者コース)」も出て、初心者は基本的な聞き取りのコツを押さえたこちらがよいと思います)。

本自体は、ケーススタディを使った極めて実践的な内容です。英語を聞き取る耳の育成法、文章の構造のどの部分を聞くのか、シャドウイング、スラッシュ・リーディング、語彙をテーマを絞って覚えること、同時通訳、といった高度な話が具体例と共に語られていきます。
この本の中にも「英語ができる」とはどういうことかについての重要な指摘があります。
一つは「受信語彙」と「発信語彙」の話です。
英語が聞き取ることのできる語彙と、話す時に使いこなせる語彙は違うということです。これには二つのパターンがあって、一つは聞き取れても使えない語彙が普通はいっぱいあるということと、もう一つは自分は発信語彙で話せる範囲で話すけれど、相手はその語彙と関係なく話してくるのでそれを受け取って理解できる「受信語彙」の必要が生じるという問題です。1000語しか発信語彙がなくても、その範囲で流暢に話せれば英語をペラペラ話せてコミュニケーションできるが、相手の話をちゃんと聞くには1万語以上の受信語彙がないと理解できないということです。これが「英語ができる」に大きく影響するポイントだとわたしは思っています。発信側を気にして、そこで流暢に話すことを「英語ができる」価値で重く見がちですが、相手の話を理解せずにコミュニケーションをとることはできないわけで、その重要性を気づかせてくれます。
もう一つ、ケーススタディとして出てくるのですが、ネイティブのきれいな英語のように話すこと、またそういう英語が正しいと思うこと、そういう英語ばかり聞くことの愚かさについてです。この本では南アフリカのツツ大司教の演説が題材に使われますが、実質的な内容を話す人がきれいな英語で話すわけではないという単純な事実です。英語が世界共通語に近い現状では、それこそ変な文法や発音で話すけど、内容は重要であることは多いのに対応できないと「英語ができる」にはならないということです。自分に話をかけてきてくれる人がみんなきれいな発音のネイティブで、なんてことはないですからねぇ。前回挙げた海外のスポーツ選手もけっこうひどい英語だよね、ってのもここに近い部分ありますね。最近のTOEICではイギリス、アメリカ英語だけでなく、オーストラリア英語などもリスニングに混ぜますが、現実はそんなレベルじゃありませんものね。私の経験でも、ある会社で一緒に働いたことがあるアメリカ人のマネージャー職の人は、南部出身の黒人で(さらにいうと、でかくいかつく普段着で金属の棘が出てるような服を着てたりするので、六本木でしばしば警察官の不審尋問にひっかかったらしいw)英語がなまりが強くて聞き取るのがずっと大変でした。他にもアイルランド系の上司が普段は丁寧に喋ってくれるんだけど、アイルランド系同士だと突如スラングだらけになり側から聞いていても、ほとんど意味不明な英語になるとか、、、あんなのを考えるとやっぱり英語ができるようになるって、なかなか無理やわ、って思います。。。
つまりは(リスニングの本だからそちら重視なのは当然ですが)、「英語ができる」には流暢さとか洒落たことを言えることに目を奪われがちだけど、こっちに話しかけてくる相手をこちらは選べないのだから、語彙もなまりもクリアできる耳をという、突然ハードルが高い結論になってしまうのでしたwww(まぁ、先ほどの話でいけば、こちらができないと思えば丁寧にゆっくり話してくれるかもしれませんが、それは一対一でのことで、相手が大勢に話す場合は無理ですよね)
ここまで来て明らかなのは、読む書く話す聞くと分けて考えがちで、特に話すことに目がいきがちだけれど、
「英語ができる」=「英語でコミュニケーションできる」
であるというシンプルなことです。それは文章を読み取るであってもですね。

なんだか今回もグダグダといろいろ「英語ができる」とはどんなことかを書き並べただけになってしまいましたが、まだ続きます。
次は、今回の途中にもあった、役割によって「英語ができる」にもレベルがありそうだといったところから、じゃあ本当にみんなが英語ができないとダメっていうほど英語ができることが必要とされてるのか?というところに触れたいと思います。ほんとに英語ができないとダメなんですかねぇ??

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