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日本の教育で変わってほしいこと

といっても、教育論なんてご大層なことを、私みたいな落ちこぼれてぐうたらな人間が語れるわけもないし、語るつもりもないわけで。
とりあげたいのは、もうちょっと学校で教える内容をこういう風に変えてくれたら、もっといいんじゃないかなぁといった話です。
よくネットなんかでは、小学校のテストのかけ算で、物と数とを逆にしたら×にされたとか、漢字の筆順がどっちが正しいのか、といったことが話題になるけれど、こんなのってなんかつまらないところで子供をつまづかせてるよねぇ、先生はきっと教科書とか、教え方とかですっごくルールを守って融通きかへんのやろなぁとかおもってしまいます。

最近TVなんかでは、小学生の教科書に載っている内容をクイズにして「常識」と称したりするわけですが、それでもけっこう答えられないわけで、まぁそうやって細かなことは忘れてしまうわけですよね。じゃあ、学校で教わる内容って何なのってことにもなりかねないし、よく言うように「数学なんかは大人になってから使わない!!」という人もいっぱいいるわけです。たしかに、三角関数にせよ微積分にせよ、生活の中でいまさらそれを使った計算をすることはとても少ないし、そういう機会がある人はきっと数%以下(もっと少ない?)でしょう。

学校で勉強する事がこれほど多科目であることの理由は極めて単純ですよね。将来何になるかわからないからです。そしてそのチャンスをできるだけ広くしておくこと、または何になりたいと思うかという気持ちをできるだけ広げておくために、広範囲なことを義務教育、さらに高校では教えるようにしてるわけです。だから、大人になってから「数学なんてつかわねぇよ!」って文句をいったとしても、それは単に数学を使わない仕事についたってだけにすぎないわけで、バカバカしい文句といってよいでしょう。どちらかといえばそんな人に対しては、数学なんて使わない職業についたのに、ある時に数学が必要な事態に遭遇してこんなことならもうちょっとやっとけばよかったかも、と思う機会があることの方を望みたいところですw

そもそも、何々を知っているのが常識とかいうときに、けっこう私たちが錯覚しているのは「正確さ」が必要であるかに思いこむことではないでしょうか?
歴史の年号の類ね。みなさんも苦労して覚えたと思います。
「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」とか。
あと、数学の公式なんかもそうかもしれません。たしかに公式知らないと計算できないし。
でもよく考えてみると、こういうことがらをどこまで大人になって記憶してるからすごいかっていうことはたしかにないですよね。それに最近では鎌倉幕府は1192年でなくなって、壇ノ浦で平家が滅亡した1185年あたりになってたりし、おじさん困っちゃうよ、みたいなことだって起こるわけです。

つまり正確に記憶してるにはこしたことないですが、実は覚えているべきは流れなんですよね。歴史の場合は、出来事や歴史上の人物がどのように考え行動したか、といった流れが歴史を作っていて、それを把握することが大事。ただ単に流れだけを覚えるってのは漠然としてわかりにくいから、年号という確定したものを物事を把握し記憶するためのツールとして使っているにすぎないと考えるべきです。だから、それを使って大体の流れが把握できていれば、年号とかは後から忘れてもそれほど問題はないわけです。逆にのではないでしょうか?まぁ、すごいねぇ!とはいってもらえるかもしれませんが、無意味、、、、

数学の公式の類も同様ですし、物理の法則、化学の反応式といったものも、専門家になるのでないなら、記憶に残っているとよいことは、どういう流れや導入でそうなるのかという骨格であり、もう少しよく覚えられていればそこからある程度組み立てられるように記憶に定着されていれば十分ということになります。ただ、その骨格を一旦作るのに、面倒だけど個々の例を覚えるプロセスが必要になっているわけです。

そこをとにかく記憶しなくちゃいけない、そしてその記憶を試すかのようなテストばかり、となると、学ぶ側は苦痛になるわけで、それがみんなが勉強やテストイヤだなぁと思う原因にもなっているのでしょう。
そういう点では、やはり日本の教育はやや記憶偏重なのかもしれません。そして、物を考えて推論したり、理屈を汲み上げる訓練が少ないようには思います(改善はされてきているでしょうが)。

といった、部分を踏まえて、私が日本の小学校から高校にかけての教育内容がこのように変わってくれたらいいのに(少なくとも私ならその方がうれしい)という内容を挙げてみたいと思います。まずリストアップね。

1.義務教育の国語で読書感想文をやめる
2.中学、高校の国語では長文の文学作品を読むようにする
3.中学、高校の国語で論理的な文章を書く技術を教える
4.理科系科目では、科学史的内容を盛り込む
5.歴史では、日本史世界史間の時代的な接続をもっとあげる
6.英語はあまりコミュニケーション偏重にはしない
7.総合科目的な訓練として、長文のレポートを書かせるようにする
そして、これはちょっと教育の枠を越えますが
8.高校卒業または大学中に半年程度海外経験ができるシステムがあるとよい

こんなところでしょうか。。。

順番にみていきましょうか。

1.義務教育の国語で読書感想文をやめる

そもそも「読書感想文」ってなんのためにあるのかずっと疑問です。無理やり課題図書を決められて、読まされて、夏休みあけとかに感想文を出さされるって、こういう読書の強制をして本当に本を好きになったり、本を読めるようになったりするんでしょうか?素朴な疑問です。そして、感想文コンクールとか、感想文はこういうことを書きましょうとか、もう意味不明です。
実は出版不況とか本を読まなくなってるって、ここに根元があったりしないんでしょうかね?(さすがに違うか?w)

課題図書というか、こういうのを読みましょうという推薦はありえても、感想をひねりださせようっていうのは、読ませるための方便としてもあまりに筋が悪いのではないかと思います。こればっかりはやめた方がよいですし、それよりは、この後の2で述べるようなことを実行する方が本を読む契機にできると思うのです。

2.中学、高校の国語では長文の文学作品を読むようにする

国語の教科書って、なんか名作として知られている作品の抜粋、それも長編の数ページだけとか、ほんとにバラバラ殺人された文学作品の墓場って感じしませんか?

そんな1ページやそこら読んだからといってすばらしさがわかるもんでしょうかね?
評価が定まった作品だから、というイメージだけで読まされてこれが名作だよっていわれて、何が得られているんでしょう?
もちろん時代を広く、作品にふれる為にもしかたないのだとは思いますが、それで何がわかるのかというのもいささか疑問です。

というわけで、私としてはもっと1冊とまではいいませんが、ある程度、固まったものを読む機会が必要だと思うのです。一時期メディアでも話題になった先年亡くなられた灘中学の教師橋本武氏の中学3年間かけて「銀の匙」を読むといったことです。もちろんこれは極端な例でしょうし、どこでもできるわけでもないでしょうが、以前取り上げた水村美苗「日本語が亡びるとき」においても、氏が危惧していたのは、国語で文学作品をじっくり読むことがされてないこと、それが日本の文学作品が読まれなくなる理由ではないかということ、そして氏がいるアメリカでは長編1冊を読む授業が一般的であること、といった指摘を思い起こすのです。

ここまで極端なことはできないにしても、1.で読書感想文はやめて、それでも読書ガイド的に作品を紹介し、本への興味や読み方へつなげることはできないのか、と思います。そのような危惧で生まれた本に、筑摩書房の「高校生のための文章読本」「高校生のための批評入門」「高校生のための小説案内」があります。現在は先の2冊はちくま学芸文庫に入っていますが、親本は25年以上前に出されたもので、できるだけ広く、長く文章を取り上げて何を読むのかをガイドする本です。さらに新しいものとしては同じく筑摩書房では「ちくま小説入門」など、派生した書籍という形でこの試みを続けています。

このような方向性で文学に親しむことを覚える方がよほど国語教育としては良さそうに思えるのです(もちろん、小学校における漢字や文法教育は必要としたうえです)。

3.中学、高校の国語で論理的な文章を書く技術を教える

これは7.ともつながることですが今の国語教育で欠けている大きな事柄に、論理的に考えてそれを文章表現するということがあると思うのです。先から挙げているような、読書感想文や小説を読むといった、どちらかというと情緒的教育が国語は中心で、ロジカルに物事をわかりやすく表現することを教えてくれないのです。それこそが社会に出てからはずっと必要なことなのに。ましてや、今はネット社会で、ネット上でも簡単に自己発信できる時代なのに。
よくそういう場で、なんか論理的に破綻したことをいう人やらいっぱいいるわ、なんか論理的に話すと逆ギレするわ、という経験をしたこともあると思いますが、こういうのって、やっぱりそういう基礎教育が一般化してないからではないでしょうか。その点をぜひ学校教育でカバーしてほしいと思うのです。大学生や社会人向けのロジカルシンキングの本なんてのはけっこうあって売れたりするようですが、もっと早くから教えるべきことがらでしょう。

4.理科系科目では、科学史的内容を盛り込む

よく聞くのがなんといっても「そんなこと世の中に出てから役立つのか」とか「大人になってから三角関数なんて使ったことない」といった文句ですねw

特に文系で算数が苦手だった人々の常套句です。で、最初に書いたようにこういう教育が必要なのは、何になるかわからないから間口広く教えておくことですが、そうであってもたしかに単にわけもわからず公式だの法則だの反応式だのばかりだとイヤになるのも当然です。そして、ここに大きく欠けているのは、どうして人間はそういうものを必要にしたか、ということです。歴史的に必要とした理由を私たちは教わらずに二次方程式の解の公式だの、微積分だのを教わっているわけですから、それは実感も何もありませんよね。高校では習わないにせよアインシュタインがどうして相対性理論にたどりついたか、といったストーリーがあった方が最終的に正確な内容が残らなくともなぜ必要なのか、今、それが何に役立っているのか、たとえば今なら、そこから重力波を発見したり、ブラックホールの天体観測衛星を飛ばすことにつながってるのね、ということにちゃんとつなげられるわけです。

たしかにそういうことを書いた啓蒙書、私の場合は小中学生の頃に「岩波科学の本」のシリーズを読んで科学への興味を強く持ちました。このシリーズの中の「ぼくらはガリレオ」や「関数を考える」などは岩波現代文庫に入っていますが、本当に名著です。数学であれば、古いですが高木貞治「近世数学史談」とかいろいろあります。でもそれをそういう外部の本としてではなく、教育の中に入れてほしいと思います。人間はどうしてこういう数学理論や科学理論を必要として、それを見つけたのか、というストーリーをもっと教えることの方が大人になっても科学に興味を持っていたり、理科系のことを単に難しいわけのわからないものというイメージに落とさないことだと思うのです。

5.歴史では、日本史世界史間の時代的な接続をもっとあげる

これはとてもシンプルなことです。歴史教育でよく問題にされるのは日本の近現代史にたどりつかないことやそれによって歴史認識がどうたら、ですが、それよりも、歴史においても、西洋、東洋、日本がバラバラに教わっていて、最終的には個別の事柄であって、歴史という流れをつかめない傾向があると思うのです。日本と西洋だってつながってるわけですしね。私がよく例に挙げるのに、バッハと徳川吉宗や大岡越前はほぼ同世代だよね、ってのがあります。これだけでもバロック時代後期と日本の江戸時代中期が同じくらいなんだなって気づくわけです。あと、織田信長とエリザベス1世は同世代とか。。。そういう時代としての横のつながりをもっと教えてほしいなと感じます。

6.英語はあまりコミュニケーション偏重にはしない

以前書いた「英語または外国語ができるとは」で主張したように、英語ができなくてはいけない人っていうのは私は限られると思っています。もちろん将来的に日本がより外国人観光客が多くやってきたり、外国人労働者が増えたりいろいろするでしょうが、その中でも、わたしは妙にネイティブのようなコミュニケーションを求めることに偏重はしてほしくないと思っています(それについては、以前のポストでの主張を読んでいただけるとありがたいです)。そして世間では文法を毛嫌いしますが、やはりちゃんとした英語を話す、理解するには文法は大事なのです。その意味では、変にコミュニケーション偏重に小学校から高校にかけての英語がなってほしくはないと思うのです。

7.総合科目的な訓練として、長文のレポートを書かせるようにする

すでに3.で書いたことで大半は言い尽くしていますが、国語教育として論理的な考え方と文章の書き方を学んだら、それの実践として総合科目的に何かテーマをきめて長文のレポートを書く、という機会を必ず設けたらよりよいでしょう。様々な人の意見を文献で読むことで、単に自分が賛成なだけのものでなく、反対者やその人々がどのような論理でそれを主張するのかといったことも学び、それに対していかに自分の理屈を作り上げるか、そのための出典として使える文献を見つけ、その内容の正当さも評価する、といったことをすべて行って文章を書く経験を必ずした方がよいと思うのです。今、ネットでは、なんだか片方に偏重して反対者はダメみたいな偏った短絡的な発言をする人が多いのも、こういうプロセスの欠如ではないかと思うのです。反対者への敬意が足りないというか。

そういう意味合いも含めて、長文を書かせるというよりは、そのプロセスで様々な意見を読み、評価し、自分の解釈を組み立てる、という経験を積ませる教育が必要ではないでしょうか。

昨今、卒業論文を書かなくても卒業できる学部が増えているなんていうのは、論外だと思うのです。そんな人たちがちゃんと社会で論理的に発言していけるのかしらと思ってしまいます。

そして最後の項目はまさに別枠のことがらというか、上記の事柄の実現性よりはよりコストがかかり、実現が難しいけれど、あったらいいなと思っていることです。

8.高校卒業または大学中に半年程度海外経験ができるシステムがあるとよい

今、ネットで排外主義やヘイトスピーチといったことが問題にされますし、最近は日本人の海外留学が減っているとも言われます。もちろん後者に関しては日本で十分教育が受けられるという面もあるわけですが、日本人はもっと海外経験をした方がいいのではと思うのです。
そのために年間1兆円程度かけて、50万~100万人に対して100万円以上補助して、海外経験を積ませる。半年程度海外に出られるようにする、というシステムがあればよいと思うのです。できれば高校卒業時か、高校、大学在学期間のどこかという感じで。

今ネットで排外主義とかヘイトとか言ってる人々のどれほどが海外である程度の期間生活したことあるでしょう?

私はできるだけ多くの人(必須にしなくてもいいから半数以上が希望して)が若いうちに海外経験をして(それは欧米に限らずアジアでも一向にかまいません)行ったところで日本や日本人がどのように見られているのか、技術や人柄が尊敬されているのか、それともやはりなんらかの差別感情があるのか、といった体験をしたうえで、日本人として日本をどう思うのかを作り上げられたらいいのにと思うのです。この方がよほどドメスティックにくだらない議論をしているよりも、よほど愛国者が育つでしょうしね。

1兆円という金額は途方もないように思えますが、現在、文科省が私学助成金に5千億円近く出していることを思えば、そんなところへ助成するよりもこういう形で教育、海外経験させた方がよほどいい教育になるんじゃない?といいたくなるわけです。

さぁ、ざっと私の考えた、こういうところが変わったらいいなぁをあげてみました。いろいろありましたが、みなさんはどうお考えでしょうか。

個人的には8をのぞけばどれもそんなに苦労なく実現できるだろうし、その方が勉強はよほど楽しくなりそうに思うのですがねぇ、、、まぁあくまで私個人の意見ですがw

そして、こういう面で、人の「常識」「知識」「教養」といった概念での思いこみも解けていくようにも思うのです。

この3つのキーワードに関しても、近いうちに別項目として論じてみたいと思います。おたのしみに。。。

(了)
本文はここまでてす。
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