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第一回お城部交流会?🏯

乱筆乱文お許しください🙇‍♂️

歴史を楽しむ会の部活の一つにお城部がございます。

現在お城部は男女合わせて9名の部員で活動しています。

お城部のモットーとして、以下のことを大事にしています😃

①初心者大歓迎のハートを持つ人
③多様な視点を持ち、色んな価値を楽しめる人
④お城が好きな人

単なる縄張りや構造だけでなく、【古戦場】・【道】・【文化】・【食】・【寺社仏閣】・【地質】・【古文書】などを通して学ぶことを楽しんでいます。

なので、数を沢山熟すようなカースト制度はお城部には無いですし、初心者の方が困るような、うちうちで仲良くする行為もなく、初心者が入りやすいように、部員一同が新入部員に対してフランクに話しかけ、話しかけやすい雰囲気を出しているのもお城部の特徴です😃

さて、前置きが長くなってすみません。

2021年11月、小田原にてお城部の第一回の交流会?を行いました😃案内はお城部副部長のSさんとT部長?Sさんは日本城郭協会主催の日本城郭検定1級持ちのお方😎今回は小田原城と総構えと北条氏政・氏照のお墓をぐるりと巡りました。

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小田原城の歴史を楽しそうに伝えるS副部長

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NB相談役とT部長によるに当時の古文書による補足説明を観るS副部長


副部長が説明を聞く部員一同

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小田原評定の見る部員一同

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お昼は小田原漁港で海鮮を。(これ、あら汁とご飯は食べ放題なんです。大食感の2人も満足、このあと、大食漢の1人S副部長がその野望が脆くも崩れるとは、この時、部員一同は誰も気づかなかったです)

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総構えを説明しながら、色々と話している部員一同

小田原城の総構えの築造の始まりは永禄12(1569)年の武田信玄により関東侵攻だと言われますが、詳細は分からず、大きな出来事が起きると後北條氏って、総構えに手を加えるんですよね🏯

以下、小田原市史城郭編引用

习歳大普請  編集
天正6年(1578年)正月~              経緯は、天正5年に起こった御館の乱だと思われます。そこで、北条氏政の弟で上杉謙信の養子(人質)にいったと言われてる景虎が上杉景勝に討たれてしまいますね、後北條氏としては武田との関係があったのに、景勝の家臣の直江兼続に言いまくれて、武田が上杉に付き、同盟解消。三国峠が雪で閉ざされて、氏照達も行けず、武田と上杉に狙われると思ったかもしれません(あくまで想像ですが)

普請の内容 としては三の丸大普請(大改修)山岳部三の丸普請(新堀)と言われます。

続きまして、天正11年(1583年)~天正12年(1584年)3月13日の期間の普請ですが、まず武田が滅んだことが大きかったと思われます。天正6年〜8年頃は武田勝頼の勢いはあったと思われます。それが織田信長によって、滅ぼされました。後北條氏は織田家とは同盟関係でしたが、実際のところ、対等な関係ではなかったようで、北條氏照がせっかく手に入れたお城、祇園城(小山城)を元の領主の小山氏に返すように言われたり、武田が滅んだ時に甲斐や信濃など武田遺領地を貰えず、それからが重なり西国の中央集権のやり方に不満を持ったと思われます。

さらに、同じ天正10年6月に本能寺の変で織田信長がなくなると、真っ先に後北條氏は織田氏の支配していた信濃、甲斐へ侵攻しますが、上杉とは和睦、徳川とは戦いに負けて、次は徳川氏に狙われると思ったかもしれません。

また、羽柴秀吉によって、明智光秀、天正11年には柴田勝家が敗れると後北條氏は秀吉の動きを警戒し始めます。内容としては北条氏照の屋敷を要害内に入れるため、寺地の提供を求め、結果的に北条氏の家臣朝倉氏が土地を買収しています。

戌歳大普請 
天正13年(1585年)2月~

乙酉大普請 
天正13年(1585年)3月~

経緯としては天正12年に起こった羽柴秀吉と織田信雄・徳川連合軍の衝突【小牧・長久手の戦い】が起こります。後北條氏は徳川へ援軍を送る予定でした。しかし、後北條氏は援軍を送れません。なぜなら、秀吉は後北條氏が関東が徳川へ援軍を送れないように佐竹・宇都宮氏などに対して、反乱を起こさせて、関東に釘付けするように仕向けました。これが沼尻の合戦です。同じ時期に行われて、後北條氏は徳川へ援軍を送れず、佐竹・宇都宮連合軍と戦うようになります。その裏の糸を引いていていたのが、秀吉でした。秀吉は石田三成を使者として、宇都宮・佐竹ら後北條氏とそれに組とする領主に、書状を出しております。書状には【氏照よりも先に挨拶に来なさい】と書いてあったそうで、氏照が外交手腕が凄いとここでわかります。結局の頃、沼尻の戦いは勝敗はつかず、小牧・長久手戦いでは徳川方が勝ちますが、織田信雄が秀吉の和睦してしまい、徳川は豊臣と戦いの意味がなくなり、最終的に徳川は豊臣に従属します。これにより、後北條氏は秀吉に対し、警戒心をさらに強め、小田原城の総構えの拡張工事を進めたと思われています。

普請の内容 としては後北条氏時代に小田原城は二の丸・三の丸ともに山地部分が広大で、山城を意識して城地を拡大したと思われているが不明である。三の丸の外郭の普請は翌年には天神山尾根へ拡張し外郭が完成しました。

天正15年(1587年)からの亥歳大普請、相府大普請の経緯は秀吉の九州平定が原因と言われております。九州の島津氏が豊臣に従属すると、いよいよ、戦国大名として、秀吉に対して逆らっているのは後北條氏でした。後北條氏はこの年から関東の支城群の普請・総構えを再強化を天正17年(1589年)の秋から天正18年(1590年)正月まで【寅歳大普請】を行いました。これは豊臣との全面対決を意識したものだと思われます。かつての後北條氏は、後北條氏二代目である北条左京大夫氏綱による【禄寿応穏】をスローガンとしており、「領民の禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし」を意味し、善政を敷きました。後北條氏の公式文書には虎朱印として使われました。

しかし、天正15年ごろになりますと【禄寿応穏】の虎朱印が後北條氏の公式文書の内容は厳しい内容になってしまいます。後北條氏は豊臣政権と全面対決は、通説では、上野国の真田氏の城【名胡桃城】を北条氏邦の家臣猪俣邦憲が奪い取ったからと言われていますが、後北條氏は豊臣への謝罪を行こうとしました。しかし、後北條氏と豊臣氏を繋ぐ使者とのやりとりがうまくいかず、秀吉の怒りを買い、全面対決になったとも言われています。いずれにしても何度も屈服する手立てはありましたが、後北條というプライドは捨てきれなかったんでしょうね。

再び、お城部の内容に戻ります🏯

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稲森の総構えをじっくり見る部員たち

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総構えの近くにはみかんがあるんですよね、部員一部は購入しました🍊

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小田原城の銅門で記念撮影📷

最後に八幡古郭に到着して

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おやつを食べました😎

今後も活動した際はアップしていきたいと思います✏️

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