すとぷりぎゃらりー荒らしに見る文化的ゲリラ闘争
この記事は現在X(旧twitter)にてタグ「#すとぷりぎゃらりー」が旧twitterで荒らされているという騒動について書いたものである。
なお本記事は、この問題について詳しく解説するものではない。
また、あくまで現象に対する考えをまとめたものであり、それ以上のものではない。
以下のツイートに対する引用にて私がこのようなことを書いたため有言実行しようと思い記述を開始したのみである。
すとぷりぎゃらりーとは何か?
筆者はすとぷりについて詳しく知らないので、簡単な説明にとどめておく、すとぷりというコンテンツのファンアートを投稿する際に使われるタグらしい。現在このタグと共に淫夢など、およそ「すとぷり」とは無関係と思われる動画や画像などが不特定多数のアカウントから投稿されるという事態が起きている。
荒らしの目的は何なのか?
地雷チャン氏は、動画の中で「すとぷりにたいする嫉妬」や「負け組が荒らしている」などと言ったことを主張している。
しかし、ネットでは今回のような荒らしは珍しいものではない、例えば
「コンテンツの人気投票において明らかに人気では無いキャラクターに組織票を投票する」や、
「政治の動画を検索した際に無関係なアニメの動画が出てくるようにする」
といった悪ふざけが過去にあった、ネットとはそもそもこのように低俗な行為を楽しむ性質を持ち合わせているのであり、その一環に過ぎないのではないかと考える。
おそらく多くの人はそのような動機ですとぷりを荒らしてなどいないのである。無論一部には「すとぷりにたいする嫉妬」で荒らしているものもいるだろうし、一部には「文化的糞遊」によって、低俗な行為を嫌うヘゲモニーに対する「文化的ゲリラ闘争」を試みているものもいるだろう。
文化的糞遊論とは?
タグ荒らしや、下ネタ、淫夢などネット上で散見されるような低俗な文化及び低俗なものを生産たり、低俗な行為のために時間や知性や技術を費やする。そういった行為を変態糞土方こと浅石茂氏の糞遊びにちなんで「文化的糞遊び(文化的糞遊)」と名付けている。
その「文化的糞遊び」について論じるものが文化的糞遊論なのである。
この「文化的糞遊論」に関してはのちにより掘り下げたものを書こうと思う。
文化的ゲリラ闘争
文化的糞遊びを不快に感じる階級と文化的糞遊びを好む階級この二つは、およそそれ以外のすべての階級と同じように常に至る所で公然に(可視化された)あるいは非公然に様々な形態や規模で闘争を繰り広げている。
そしてその闘争を散発的に各個人が展開することを「文化的ゲリラ闘争」と呼ぶ。
つまり社会を糞遊びに寛容に傾けるために、あるいは糞遊びを容認せざるを得ないように、またはそのような目標を持たずとも突発的に発生するあらゆる闘争のことである。
個々の闘争における勝敗の基準も不明瞭であることが多く、その闘争によって「糞遊び」を容認する階級がどのようにヘゲモニーたるものへ昇華するのかといった戦略的意義に関しても明確に定めにくいため、まさにゲリラ闘争である。
余談だが、「文化的ゲリラ闘争」では広義の「現実を変えたい」という理由で荒らしている人と言えるだろうが、地雷チャン氏の動画にある文脈での(すなわち「エロいことが一生できない」という)現実を変えようとしているわけではない。
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