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青春を煽ぐ

 2019年が過ぎ早くも2020年に突入して早四日といったところ。どんどんと冷えていく。風邪に気をつけて生きていきたいところだ。1月とは何なのだろうか・・・。年越し感が実に薄く、新年会に参加してやっと「あ、新年なのか」と思いにふけってしまった。
 さて、今日のお題は青春である。僕の青春はまぁ敢えて触れないけれど、その2文字に振り回されている人も見たりする。愚かと思っていた時期もあるが、今ではその気持ちも分からなくはない。
 甘美な味もするし、若気で許される淫靡な雰囲気もあるし、インスタなどではJKブランドなんていうタグも見る。言われてみれば確かに納得だ。一種のブランド的側面があるし、JKという言葉そのものが付加価値ではなく、価値として存在し、たいして可愛くも何のにJKを売りにしている女の子はおじさんに好かれやすい。そこには子供と大人の狭間で揺れていて、多感な彼女らに、ほとんど馬鹿にしているような言動をとってしまうのがおじさんと言うものだ。その青春という言葉における中心的な存在のJKたちはブランドと言われて腑に落ちる。援助交際などは、今しかない時を買っているとってもいいだろう。

 そんな青春に振り回される作品は文章に問わず山ほどある。映画なんかで青春映画といえばデートの中心で、青春ドラマといえば月曜夜によく見るだろう。しかし、あそこまで甘ったるい青春などクラスカースト上位の人間であれば毎日の様に送っているからだ。

 大人のフリをして浮気じみた真似をするものもいれば、体の関係だけで付き合ったと勘違いする愚かな女もいる。それは大学生になっても変わらず、精神面の成長なんてあり得ないもの。むしろ年齢が上がっている大学生の方が逆にタチが悪かったりもする。私は大人だと言い張りアホみたいに威張る。対して年齢も変わらないのに、だ。

 さて、ヘイトはこの辺にして青春の話でもしようか。
前文のヘイト。これは自己嫌悪でもあり同族嫌悪でもある。僕は以前、それも学生時代に不倫をした事がある。僕は大人だと年上に向けて威張った事もある。その経験の結果自分がまだまだ子供だと気付き、今では親の言葉が染みる世代になってしまった。

 それをつまらなくなる事、自分が面白くなくなる事だと思っている人もいるだろうが、それは違う。自分の中に変わらないものは必ずあるし、そこから派生して面白い事だってできる。より面白いことが分かったりもする。ただ面白いの種類が違うのだろうと思える。

 僕は学生時代誰かを嫌い、話を合わせ、中身のない話を目的もなく集まってする事が楽しい、面白いと勘違いしていた。
 今はと言うと、どちらかと言うと空気感を楽しんでいる様に思える。例えば天丼であったり、そういうマニアックな漫才やコントのように身内ネタで盛り上がることが多く、誰かを蹴落とすような悪口は減った。
 しかし懐かしんだ時点で目に見えぬ老化は始まってしまっている。
電車に乗っていると通学中の高校生をよく見かける。高校生なんだから元気だ。という偏見はやめにしても、よく騒ぐ生き物が高校生という認識は間違っていなかろう。
 一昔前の僕はそんな高校生を見つけると、(静かにしろ)(うるさい)などと思ってしまった。しかし今、青春を過ぎてしまったおじさんが青春真っ只中の彼らを見つけると、うらやましさと元気だなぁという感情が湧いて溢れる。
 歳をとるとは寛容になることだという人がいるが、そういうことではない。単純に自分にはもうできなくなったことに煌びやかさや少しの嫉妬に胸を熱くしているだけなのだ。嫌味なことだ。歳を重ねるとはそう言うことなのである。

 ましてや高校生のように、付き合う付き合わないで女子とメッセを繰り返すことや毎日一緒に帰ることなどはもはや遥か昔。いまでは体が先行する恋になってしまっている。そして一番の問題点はその現状に慣れ、そして受け入れていることだろうと思う。付き合う条件を決めたり、体の相性を気にしたりと生々しい話になってしまう。

 一方青春といえば、甘美で泡沫にすぎる少ない時間の中で手を繋いだり、初めてのキスにドギマギしたり、初めて踏み込む性への快感に幸せを感じれたりと、全てがまるでお伽話のように綺麗な話になってしまう。いわゆる青春マジックだ。高校生を卒業してしまった瞬間に、その泡沫は過去へと流れていってしまう。青春が溶けてしまい、制服という魔法に解き放たれたときに魅せる本性は、少なくとも制服をまとっていた時よりも現実的で生々しくなってしまう。そうして人は大人の階段を着実に登っていってしまうのだろう。

 青春。それは一種の魔法のようなもので、本当に手にしたい時にはもう既に掌からスルスルと滑り落ちていき、嫌な背徳感や生々しい現実感しか掌に残っていない。そう言うものなのだろうと思う。それゆえに、現役時代の失敗や多少の危険行為、犯罪行為や恋愛に青春しているなと言う自覚は不可欠で、それが無くしては青春を取り逃がしてしまうのが関の山なのだ。

 あの頃に、もう一度。人間なら誰しもが抱く感情かもしれないが、あの頃はもう二度と訪れない。それならば「今」を、「この時」を、あの頃のようにと未来に思える日が来るように満足に暮らすしか、僕らに残されたカードはないのだ。その懐かしくもはかない時間の紡ぎを、空を仰ぐことで懐かしんでいる。